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サイレントライン ―その声は、誰を救ったのか―  作者: スドタケ


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16/20

第16話 最初に救われたのは俺だった

湊は、無題の封筒を閉じられなかった。


紙の端が、指に引っかかっている。


配信ログ。


事故記録。


家族構成。


花音という名前。


そして、屋上にいた少女が椎名紬だったという事実。


それだけで、もう十分に重かった。


それなのに、ファイルの最後に一枚だけ、別の紙が挟まっていた。


他の資料より古い。


印刷の色が少し薄い。


画面のスクリーンショットだった。


黒い配信画面。


視聴者数、一。


コメント欄に、短い文字が一つだけ残っている。


> 五分だけ待ってください


湊は、その文字を見た瞬間、喉の奥が塞がった。


「これ」


声が掠れる。


紬は、くまを握ったまま顔を上げなかった。


「二年前のものです」


「どうして、これを」


「残っていました」


「どこに」


「私の端末に」


湊は紙を見つめた。


見覚えがあった。


完全に覚えているわけではない。


でも、画面の黒さだけは覚えている。


誰も来ない夜だった。


視聴者数は一人。


本当に一人だったのか、自分の別端末だったのかさえ疑っていた。


その頃のヨルは、誰かを救う配信ではなかった。


夜に眠れない人が来る場所でもない。


ただ、湊が何も言えなくなった時に、黒い画面へ向かって息を吐くための場所だった。


誰にも届かない声を置く場所。


それだけだった。


「……俺、このログを探しました」


湊は言った。


「でも、残っていたのは一部だけで、コメント主までは分からなかった」


紬は小さくうなずく。


「名前は、今と違いました」


「あなたですか」


紬は答えなかった。


その沈黙だけで、湊は分かってしまった。


二年前。


湊は、まだヨルという名前を持っているだけの人間だった。


救済配信者でもない。


誰かに必要とされていたわけでもない。


バイトは続かない。


家では息が浅くなる。


スマホの通知は、返さないまま積もっていく。


それなのに、死にたいとさえ言えなかった。


死にたい、と書くには、自分の苦しさに名前をつけなければならない。


湊には、それができなかった。


だから配信をつけた。


黒い画面。


声だけ。


誰も見ていないと思っていた。


湊は、その夜の自分の声を思い出す。


『誰もいないなら、終わります』


軽く言ったつもりだった。


本当に終わるという意味ではない。


そう自分に言い訳していた。


でも、画面の向こうで聞けば、たぶん違った。


あの夜の自分は、冗談の形で助けを求めていた。


助けて、と言えないから、終わります、と言った。


『配信も、アカウントも、もう消していいかなって思ってます』


言葉にした瞬間、少しだけ楽になった。


消す。


配信を消すのか。


アカウントを消すのか。


自分を消すのか。


曖昧にしたまま、湊は終了ボタンへカーソルを動かした。


その時、コメントが流れた。


> 消さないでください


湊は止まった。


知らない名前だった。


意味のないひらがなが並んだアカウント名。


アイコンなし。


それだけ。


『……見てたんですか』


自分の声が、記憶の中で小さく震える。


返事はすぐ来なかった。


それから、もう一つコメントが流れた。


> 五分だけ待ってください


湊は、笑った。


笑ったつもりだった。


でも、たぶん泣きそうだった。


『五分で何が変わるんですか』


そのコメントは、少し遅れて返ってきた。


> 何も変わらないかもしれません


> でも、今すぐ消すのは、五分あとでもできます


湊は、そこで初めてマウスから手を離した。


五分だけ。


そう思った。


五分なら待てる。


五分待っても、何も変わらなければ、その時また考えればいい。


その程度の言葉だった。


奇跡でも、救済でもなかった。


ただ、自分を消すために伸ばした手を、少しだけ止めた言葉だった。


湊は、目の前の紙を見た。


二年前の黒い画面。


そこに残っている一行が、現在の自分をもう一度止めていた。


「君だったのか」


声は、ほとんど息だった。


紬は答えない。


でも、逃げもしなかった。


湊は続けた。


「俺が、誰かを止めていたんじゃない」


胸の奥に、遅れて痛みが来る。


「最初に止められたのは、俺だった」


その言葉を口にした瞬間、何かが崩れた。


自分が人を救っていた。


そう思っていたわけではない。


救えているなんて、言い切れない夜の方が多かった。


それでも湊は、自分の声が誰かの命綱になっていると思うことで、どうにか立っていた。


でも、その声の最初の結び目は、自分が作ったものではなかった。


紬がくれた。


壊れかけていた少女が、画面の向こうの湊へ渡した。


五分だけ待って。


その一言を、湊は借りた。


借りたまま、何度も誰かへ渡した。


屋上の紬へ。


青い傘へ。


夜泣きへ。


名前も知らない夜の人たちへ。


渡すたびに、少しずつ形が変わった。


救いにもなった。


呪いにもなった。


「ありがとう」


湊は言った。


言ってから、しまったと思った。


紬の肩が、小さく揺れた。


「言わないでください」


声は細かった。


「それを言われたら、私は」


紬はそこで言葉を切った。


くまを握る指が白くなる。


「私は、もう戻れなくなります」


湊は何も言えなかった。


ありがとう。


普通なら、救いの言葉だ。


でも、紬には違った。


二年前、彼女は湊を止めた。


そのあと、自分は止まれなかった。


家へ戻り、耐え、花音を守ろうとして、屋上へ行き、ヨルの声を聞き、父が死に、ほどけない糸になった。


ありがとうと言われれば、その全部が意味を持ってしまう。


あの痛みも。


あの夜も。


父の死も。


花音の涙も。


自分がしてきたことも。


湊は、ありがとうを撤回できなかった。


撤回したら、それもまた紬を消すことになる気がした。


「ごめん」


代わりに、そう言った。


紬は首を振った。


「謝らないでください」


「ありがとうも、謝るのも駄目なら、俺は何を言えばいい」


「何も」


紬は言った。


「何も言わなくていいです」


湊は紙を見た。


五分だけ待って。


その文字は、あまりに短い。


短いのに、二人をここまで運んできた。


「俺は、その言葉で生き残った」


湊は言った。


「あなたも、その言葉で止まった」


紬は小さくうなずいた。


「でも、同じ言葉なのに、同じ場所には戻れなかった」


湊は、ようやく分かりかけていた。


言葉は、人を止めることがある。


でも、言葉はその人を安全な場所へ運んではくれない。


五分待てても、その先の階段を一人で降りなければならないことがある。


降りた先で、また別の夜が待っていることもある。


「椎名さん」


湊は言った。


「俺は、この言葉を返したい」


紬が顔を上げる。


「返す?」


「借りたまま、勝手に使ってきた」


「返さなくていいです」


「でも、もう俺だけの言葉にしたくない」


湊は紙を丁寧に戻した。


「五分だけ待って、は、誰かを従わせる言葉じゃない。誰かに汚れ役を押しつける言葉でもない」


紬は黙っていた。


「一緒に待つための言葉だったはずだ」


それを言った瞬間、湊の喉が痛んだ。


痛みが、声の奥に引っかかる。


咳をした。


乾いた音しか出ない。


紬が少し身を乗り出す。


「ヨルさん」


「大丈夫」


言ってから、湊は自分で嫌になった。


大丈夫ではない時ほど、その言葉が出る。


紬も、たぶん同じだった。


湊は水を飲もうとして、うまく飲めなかった。


喉を通る水が痛い。


それでも飲み込む。


「俺は、最初に救われた」


湊はもう一度言った。


「でも、それで終わりにしない」


紬は何も言わなかった。


「君が俺を止めたことを、美談にはしない。俺が君を止めたことも、美談にしない」


湊は、無題の封筒と古いスクリーンショットをまとめた。


「その先を見る」


紬が小さく目を伏せた。


「見ても、戻せません」


「戻せない」


湊は認めた。


「でも、見ないまま救ったふりは、もうできない」


個室の外で、誰かの足音が通り過ぎた。


どこにでもある音。


それなのに、今は少しだけ違って聞こえた。


二年前、湊を止めたのは、画面の向こうの一行だった。


今、目の前にいる紬を止めるために、湊は声だけでは足りない場所へ来てしまった。


そのことだけは、もう分かっていた。


湊はスマホを取り出した。


ミソラの連絡先を開く。


紬が小さく息を呑んだ。


「何を」


「夜明けノートのことを聞く」


「ミソラさんは」


「全部知らないなら、知らないままでいさせる方が残酷です」


湊は送信欄に指を置いた。


手が震えている。


怖い。


聞けば、また何かが返ってくる。


返ってきたものは、もう見なかったことにはできない。


でも、もう伏せるだけでは足りない。


『会って話したいです』


湊はミソラへ送った。


既読は、すぐについた。


返事は短かった。


『私もです』


湊はスマホを伏せた。


五分だけ待って。


その言葉は、もう画面の中だけには戻れなかった。

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