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サイレントライン ―その声は、誰を救ったのか―  作者: スドタケ


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20/20

第20話 その声は、誰を救ったのか

真鍋裕司は、その夜、一命を取りとめた。


けれど、意識は戻らなかった。


救急隊が来た時、部屋の中にはまだ声があった。


真鍋の名前を呼ぶ声。


紬に離れてくださいと言う声。


湊に状況を聞こうとする声。


無線の音。


階段を上がってくる足音。


その全部の中で、湊だけが何も言えなかった。


声は出ない。


口を開けても、空気が擦れるだけだった。


湊はスマホを差し出した。


『声が出ません』


画面を見せると、救急隊員がうなずいた。


「分かりました。書けますか」


湊はうなずいた。


書ける。


でも、書けることが怖かった。


書けば残る。


記録に残る形で。


真鍋の言葉が、まだ耳の奥に貼りついていた。


紬は、部屋の隅に座っていた。


くまを抱えている。


誰かが声をかけた。


「何がありましたか」


紬は、床に散らばった紙を見た。


真鍋が倒れていた場所を見た。


それから、自分の手を見た。


「私が、やりました」


湊は首を振った。


違う。


君だけじゃない。


そう言いたかった。


けれど、声は出なかった。


スマホに打とうとして、指が滑る。


文字が消える。


その間にも、部屋の中では物事が進んでいく。


画面の向こうなら、五分だけ待ってと言えた。


でも、ここでは何も止められなかった。


真鍋は救急隊に囲まれ、担架に移された。


息はあった。


けれど、その細い呼吸が続くのかどうかは、誰にも分からなかった。


沈黙のこちら側で、全部が進んでいった。



◇ ◇ ◇



事情を聞かれたのは、病院の一室だった。


白い壁。


白い机。


薄いカーテン。


湊の前には、メモ帳とペンが置かれている。


声はまだ戻っていない。


机の向こうには、刑事が二人いた。


年配の刑事が、一枚の紙を置いた。


印刷されたメッセージ。


差出人は、ヨル。


宛先は、明け方の家の連絡用アカウント。


本文。


『花音の記録を見せろ』


『その子は、そこで止まる』


湊は、その文字を見た。


何度見ても、自分の言葉に見えた。


短い。


冷たい。


目的だけがある。


「このメッセージを送った記憶はありますか」


湊はペンを取った。


『ありません』


そう書こうとして、手が止まった。


記憶はない。


だが、考えはあった。


花音の名前なら、紬が止まる。


真鍋がその名前を出せば、紬は崩れる。


夜明けノートも、明け方の家も、ヨルを中心に作られた記録も、壊れるかもしれない。


そんな考えが、自分の中に一度もなかったと言えるのか。


湊は紙に書いた。


『送った記憶はありません』


そこで止めると、嘘になる気がした。


湊は続けた。


『でも、俺の中にあった考えです』


若い刑事が顔を上げた。


「あなたの中にあった考え、というのは?」


湊は、ペンを握り直した。


『花音さんの名前を出せば、椎名さんは止まると思いました』


『真鍋さんがその記録を使えば、椎名さんは耐えられないとも思いました』


書きながら、吐き気がした。


それは、自白に似ていた。


けれど、罪の名前は分からない。


刑事は、別の紙を出した。


青い傘。


夜泣き。


榊。


ほどけない糸。


真鍋。


湊名義で送られた短い文が並んでいる。


会う場所を変えさせろ。


泣く子を盾にする相手は、話し合いでは止まらない。


守りたいものがある人間は、黙る。


花音の記録を見せろ。


その子は、そこで止まる。


全部が、同じ場所に並んでいた。


「あなたは、別の人格がやったと主張しますか」


湊はペンを持ったまま動けなかった。


そう言えたら、どれだけ楽だろうと思った。


俺ではない。


知らない誰かがやった。


深夜の声がやった。


そう言えば、自分は救う側に戻れるのかもしれない。


でも違う。


あれは、湊の中にあった。


普段は飲み込んでいた怒り。


善意の言葉で覆っていた結論。


消えればいい。


黙ればいい。


止まればいい。


その願いに、深夜の声が形を与えただけだった。


湊は書いた。


『俺です』


一度、そこで止まった。


それから、書き足す。


『覚えていない時間があります』


『でも、俺の中から出た声です』


年配の刑事が聞いた。


「真鍋さんに死んでほしいと思ったことはありますか」


湊は、紙を見た。


白い。


何も書かなければ、何も残らない。


でも、もうそういう場所には戻れない。


『消えればいいと思ったことはあります』


喉の奥が痛んだ。


声は出ないのに、言葉だけが喉を裂くようだった。


『でも、死んでいいとは思っていませんでした』


書いた瞬間、それがどれほど弱い言葉か分かった。


消えればいい。


死んでいい。


その二つの間に、自分は線を引いたつもりでいた。


でも、現実はその線を見てくれない。


誰かが倒れたあとでは、どちらの言葉も同じ方向を向いてしまうことがある。



◇ ◇ ◇



真鍋の意識が戻ったのは、数日後だった。


真鍋の負傷は、転倒による事故として扱われる方向で調べられていた。


少なくとも、誰かが明確に傷つけようとした証拠はなかった。


ただし、それで終わりではない。


紬が紙を取ろうとしたこと。


真鍋が押さえたこと。


湊が間に入ろうとしたこと。


椅子が倒れ、真鍋が受け身を取れなかったこと。


その全部が、何度も確認された。


湊の端末も、夜明けノートの記録も、真鍋の外部連携資料も提出された。


その後、真鍋は事故だったと証言した。


「私が、出すべきではない記録を出しました」


「椎名さんは、それを止めようとしただけです」


「目黒さんも、止めようとした」


「誰かが誰かを傷つけようとしたわけではありません」


その証言で、すべてが軽くなったわけではなかった。


ただ、線だけが引き直された。


故意ではなく、事故として。


けれど、真鍋がそう証言した理由を、湊は最後まで一つに決められなかった。


湊と紬を守るためだったのか。


明け方の家の記録管理を守るためだったのか。


自分が花音の記録を出そうとしたことを、これ以上表に出さないためだったのか。


あるいは、その全部だったのか。


真鍋という大人は、最後まで分かりやすい悪人にはならなかった。


だからこそ、怖かった。


誰か一人を悪者にできれば、少しは楽だったのかもしれない。


紬一人のせい。


湊一人のせい。


真鍋一人のせい。


そう決められれば、線は引ける。


でも、記録はそうさせなかった。


声。


記録。


支援。


管理。


善意。


怒り。


守るという言葉。


その全部が重なって、人が倒れた。



◇ ◇ ◇



ミソラから連絡が来たのは、翌日の夜だった。


『夜明けノートの新規受付は止めました』


湊は画面を見つめた。


続けて、長い文が届く。


『今は、残っている人たちの移行先を整理しています』


『危険度の高い人から、公的窓口や支援団体につなぎます』


『記録は保全します。でも、これ以上、名前を集める形では続けません』


『危ない名前を消すことと、名前を抱え込むことは、紙一重でした』


『私も、そのことを見ないふりをしていました』


湊は返信欄に指を置いた。


何も打てなかった。


ミソラの文は続いた。


『真鍋さんの外部連携資料も確認されます』


『第三者評価という言葉が、どこまで進んでいたのかも』


『花音さんの記録が、誰に渡る予定だったのかも』


花音さん。


その文字を見て、湊は目を閉じた。


また、名前が記録の中にある。


誰かを守るために。


誰かを傷つけないために。


何が違うのか。


どこからが必要な記録で、どこからが使ってはいけない名前なのか。


まだ分からない。


ミソラから、最後に一文が届いた。


『ヨルさんだけの責任ではありません』


湊は、その文を見た。


楽にはならなかった。


むしろ、逃げ場がまた一つなくなった。


自分だけの罪なら、抱えればいい。


でも、そうではない。


ミソラも。


真鍋も。


紬も。


湊も。


青い傘の夜にコメントした人たちも。


夜泣きの配信を見守った人たちも。


全員が、少しずつこの場所を作った。


湊は返信欄を開いた。


『色々ありがとうございます』


そう打って、指が止まった。


礼だけで済ませていい話ではなかった。


湊は、文字を消さずに続けた。


『俺の端末も、資料も、求められたものは全部出します』


『残っている人たちの移行も、俺にできることがあれば手伝います』


送信。


既読はついた。


返事はすぐには来なかった。


それでよかった。


すぐに返ってきたら、また言葉だけで済ませてしまいそうだった。



◇ ◇ ◇



ヨルの配信を救いにしていた人たちからも、少しずつ反応が届いた。


青い傘からは、短いDMが来た。


『学校は変わりました』


『まだ怖いです』


『でも、朝は来ます』


夜泣きからも、一通だけ来た。


『子どもが眠れる日が増えました』


『静かすぎるのは、まだ怖いです』


『でも、ドアの音では起きなくなりました』


知らない名前からも、いくつも届いた。


『声がないと不安です』


『もう配信はしないんですか』


『あの場所があったから生きていました』


『なくなったら、どこへ行けばいいですか』


湊は、その全部を読んだ。


胸が潰れそうになった。


自分の声を必要としていた人がいる。


それは事実だった。


でも、その人たちを自分の声に縛り続けることは、もうできなかった。


湊は、ミソラが作った案内文を開いた。


緊急時の連絡先。


夜間相談の窓口。


未成年が使える相談先。


地域につながる方法。


通報ではなく、まず安全な場所へ移るための案内。


それは、ヨルの声よりずっと地味だった。


冷たく見えた。


でも、現実へつながっていた。


湊は、その案内を最後の投稿に入れることにした。



◇ ◇ ◇



紬と会えたのは、数日後だった。


病院の面会室だった。


白い机。


二脚の椅子。


少し離れた場所に、職員が一人立っている。


紬は、前より少し痩せて見えた。


それでも、目は湊を見た。


逃げなかった。


湊は向かいに座る。


声はまだ出ない。


机の上には、筆談用の小さなメモ帳が置かれていた。


紬の手には、小さなくまがあった。


「これ」


紬は、くまを近づけて見せる。


背中のあたり、細い縫い目に小さな留め具がついている。


紬は、そこを指でなぞった。


「ここ、開くようになっていたんです」


湊はペンを止めた。


「花音からもらった時から、たぶん何か入っているんだろうなとは思っていました」


「でも、見られませんでした」


「開けたら、何かが決まってしまう気がして」


紬は、留め具を外した。


くまの背中に、小さな口が開く。


そこから、折りたたまれた紙を取り出した。


幼い字だった。


ひらがなばかり。


少し曲がっている。


『おとうさんも


おかあさんも


おねえちゃんも


みんなでしあわせに』


紬の呼吸が止まった。


湊も、動けなかった。


紙の上に、花音の名前はない。


でも、その字を書いた子が、そこにいる。


父を呼んで泣いた子。


くまを紬に渡した子。


紬が守ろうとして、同時に奪ったと思い込んでいた子。


紬は、紙を握らないように両手で支えた。


「これは、お父さんが死ぬ前のものです」


湊はうなずいた。


「だから、そのあと花音が私をどう思ったかは、分かりません」


その通りだった。


この紙は、紬が許された証拠ではない。


父が死んだあとも、花音が同じ気持ちだった証拠でもない。


それでも。


少なくともこの紙の中で、花音は紬を罰していなかった。


おねえちゃんも。


その一行だけで、紬の顔が崩れた。


「私は」


声が震える。


「私は、花音に恨まれていると思っていました」


湊は何も書けなかった。


「そうでないと、耐えられなかったんです」


紬は、紙を見つめたまま言った。


「恨まれていた方が、分かりやすかった。私が悪いって思えた方が、まだ立っていられた」


湊はペンを握る。


何を書いても、軽くなる気がした。


それでも、書かなければいけない。


『花音ちゃんの願いを、罰にしたのは俺たちです』


紬は文字を見た。


湊は続けた。


『君だけじゃない』


『俺も』


『真鍋さんも』


『記録も』


『ヨルの声も』


紬の目から、涙が落ちた。


声は出なかった。


湊も、声は出なかった。


面会室には、紙の擦れる音だけがあった。


それでも、初めて沈黙が怖くなかった。



◇ ◇ ◇



ヨルの配信アカウントは、消さなかった。


でも、配信は止めた。


湊は、最後の投稿画面を開いた。


声ではない。


文字だけだった。


タイトルは入れない。


謝罪だけにも、説明だけにもしたくなかった。


湊は、ゆっくり打った。


『今夜、ここで声は出しません』


『この場所を必要としてくれた人がいたことは、消しません』


『でも、この場所だけに命を置かないでください』


『名前を書かないでください』


『住所、学校、職場、家族が分かることを書かないでください』


『誰かを裁くために、この場所を使わないでください』


『近くの人に、助けてと言ってください』


『声が出ないなら、文字でもいいです』


『公的な窓口、夜間相談、支援先の一覧を下に置きます』


『ここで五分待てたなら、その五分の先へ行ってください』


『俺も、そこへ行きます』


投稿ボタンの上で、指が止まった。


これが救いなのかは分からない。


壊したものが戻るわけではない。


真鍋が倒れた事実は消えない。


花音の名前を使った事実も消えない。


紬の手に残った震えも、湊の中の声も、なかったことにはならない。


それでも、ここで終わらせてはいけない。


声だけを残して、自分だけが画面の向こうにいることは、もうできない。


湊は投稿した。


すぐに反応がついた。


> ヨルさん?


> 声聞きたい


> ありがとう


> どこへ行けばいいの


> 五分なら待てる


湊は画面を見ていた。


返さない。


少なくとも今夜は。


代わりに、固定した案内文をもう一度確認した。


五分だけ待ってください。


それは、始まりの言葉だった。


でも、終わりの言葉にしてはいけなかった。


五分の先に、誰がいるのか。


どこへ戻されるのか。


その名前を、誰が持つのか。


そこまで行かなければ、声は救いにならない。


湊はノートパソコンを閉じた。


部屋は静かだった。


声はまだ出ない。


喉は痛む。


けれど、完全な無音ではなかった。


窓の外には、夜が広がっている。


帰り道を急ぐ人がいる。


部屋でひとり、誰かの帰りを待つ人がいる。


眠れない夜を過ごす人がいる。


明日が来ることを怖がっている人がいる。


学校へ行けない人がいる。


会社へ戻れない人がいる。


誰にも言えないまま、悩みを抱えている人がいる。


その全員に、声が届くわけではない。


届いたとしても、声だけでは足りない夜がある。


その声は、誰を救ったのか。


まだ、答えは出ない。


それでも、声にならない痛みを抱えた誰かへ、何かを届けたいと思った。


『今夜を、ひとりで越えようとしないでください。苦しいと言えたその先に、手を伸ばしてくれる人がいるから』

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