第13話 ロッカーの鍵
見知らぬ鍵は、ずっとキーケースについたままだった。
外そうと思えば外せる。
でも、外せなかった。
知らない鍵を持っていることは怖い。
けれど、外してしまえば、どこにつながっていたのか分からなくなる。
湊は、バイトの休憩中にも、駅のホームでも、ネカフェの個室でも、その鍵を何度も見た。
小さな鍵だった。
持ち手のところに、うっすら数字が刻まれている。
最初は気づかなかった。
擦れていて、光の角度を変えないと見えない。
三桁。
湊は、その数字をスマホに打ちかけて、やめた。
検索すれば、どこかへつながるかもしれない。
でも、検索履歴に残る。
残ることが怖い。
消えることも怖い。
青い傘の件以来、検索履歴はもう信用できない。
自分が検索したのか。
別の声が検索したのか。
湊には分からない。
ただ、メモアプリに覚えのない一行が残っていた。
『西口/ロッカー』
その日、湊はいつもの駅とは反対側の出口へ出た。
理由は分からない。
ただ、その二語だけが、頭から離れなかった。
西口の古い通路には、昔からあるコインロッカーが並んでいる。
最近のタッチパネル式ではない。
小さな金属の扉が並び、鍵穴がついている。
湊は、その前で足を止めた。
キーケースの中の小さな鍵。
ロッカーの鍵穴。
同じ形に見えた。
偶然だと思いたかった。
けれど、鍵の持ち手に刻まれている数字と、ロッカーの番号が近かった。
湊は周囲を見た。
人は少ない。
誰かが使っている様子もない。
古いロッカーの一角だけ、ほとんど空いている。
その中に、ひとつだけ鍵の刺さっていない扉があった。
数字が同じだった。
湊は、しばらく動けなかった。
ここまで来たのは、自分の意志なのか。
鍵がここへ連れてきたのか。
考えても、答えは出ない。
湊は鍵を差し込んだ。
回る。
小さな音がして、扉が少し開いた。
ロッカーの中には、封筒が三つ。
小さな記録媒体が一つ。
それから、ジッパー付きの透明袋。
中には、壊れたキーケースの金具のようなものと、折りたたまれた紙片が入っている。
湊は触れなかった。
触ったら、何かが決定する気がした。
封筒の表には、短い文字が書かれていた。
青い傘。
夜泣き。
榊。
もう一つ、何も書かれていない封筒が奥にあった。
湊はそれを見た瞬間、胃の奥が冷えた。
無題。
それが一番怖かった。
通路の奥から、足音が聞こえた。
湊はロッカーの扉に手をかけたまま、動けなかった。
足音は、急いでいない。
迷ってもいない。
ここに来ると決めていた人間の歩き方だった。
足音が止まる。
「目黒さん」
声は小さかった。
湊は振り返った。
雨の日の少女が立っていた。
制服ではない。
薄いパーカー。
鞄の横から、小さな布の動物のような飾りが覗いていた。
湊は、彼女を見た。
雨の日のコンビニ。
水のボトル。
夜に、配信してますか、と聞いた顔。
それらが一度に戻ってくる。
「どうして」
湊は、最初にそこを聞いた。
「どうして、その名前を知ってるんですか」
少女はすぐには答えなかった。
視線を、開いたロッカーへ向ける。
「そこに残っていました」
「そこ?」
「ヨルさんの名前で送られてきたものに」
湊の喉が詰まった。
ヨルさん。
雨の日にも、その言葉に近いところまで来ていた。
夜に配信してますか。
あの時、湊は答えなかった。
答えなかったはずだった。
「俺は、あなたに名乗ってない」
「はい」
「ヨルだとも言ってない」
「はい」
少女はうなずいた。
「でも、声で分かりました」
湊は言葉を失った。
少女はロッカーの中へ視線を戻す。
「これは、私が集めたものと、ヨルさんが残したものです」
「ヨルが、残した?」
「はい」
「俺は、残してない」
「覚えていないだけです」
その言葉で、湊の背筋が冷えた。
鍵が増えていた夜。
見覚えのない録音。
消えた送信履歴。
ほどけない糸へ向けられた音声。
それらが、いっせいに目の前の少女へ向かって線を伸ばす。
湊は、ようやく言った。
「あなたが、ほどけない糸なんですか」
少女は一度だけ目を伏せた。
それから、静かに答えた。
「はい」
湊は息を止めた。
画面の向こうにいた名前が、目の前の少女と重なった。
水を飲んでください。
今日は終わってください。
開かないでください。
榊さんは、ヨルさんを傷つけようとしていました。
あの文字を打っていた相手が、雨の日にコンビニの庇で水のボトルを握っていた少女だった。
湊は、すぐには言葉を出せなかった。
少女はロッカーの中へ視線を落とした。
封筒。
記録媒体。
そこに残っているものを、もう匿名のまま差し出すことはできないと分かっているようだった。
「……名前も、言っていませんでした」
少女は小さく言った。
「ほどけない糸じゃなくて」
そこで一度、息を吸う。
「椎名紬です」
湊は、その名前を頭の中で繰り返した。
椎名紬。
雨の日に聞けなかった名前。
ほどけない糸の向こうにいた人の名前。
「椎名さん」
湊が呼ぶと、紬は小さくうなずいた。
「はい」
その一言で、通路の音が消えた。
自販機のモーター音も、遠くの改札のアナウンスも、全部薄くなった。
ほどけない糸。
画面の向こうで、何度も湊を止めた名前。
榊を止めた名前。
自分の知らない声を受け取っていた名前。
それが、目の前の少女と重なった。
湊は、すぐには何も言えなかった。
「いつから」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。
紬は、少しだけ考えた。
「この名前で書くようになったのは、途中からです」
「途中?」
「はい」
「その前も、見ていたんですか」
紬は答えなかった。
沈黙が落ちる。
湊は、それ以上踏み込めなかった。
二年前の古い配信ログ。
意味のない名前。
五分だけ待ってください、というコメント。
それらが頭の奥で揺れたが、今ここで確かめるには、まだ形が足りなかった。
湊はロッカーの中へ視線を戻した。
封筒。
記録媒体。
透明な袋。
「これを、どうするつもりだったんですか」
「目黒さんに見せるつもりでした」
「なら、直接渡せばいい」
「直接渡したら、私は途中でやめると思いました」
紬の声は細かった。
「だから、ここに置きました」
湊は、開いたロッカーを見た。
「隠すために?」
紬は小さく首を振った。
「私が消したくなっても、すぐには消せない場所に」
湊は何も言えなかった。
紬は、鞄から視線を上げた。
「鍵は、目黒さんのところに残しました」
「いつ」
紬はすぐには答えなかった。
「深夜のヨルさんから、鍵だけを指定の場所に残すようにDMが来ました」
その一言で、湊は何も言えなくなった。
自分の記憶が薄い時間。
そこに何があったのか、まだ見たくなかった。
紬は、透明な袋の中から印刷されたスクリーンショットを一枚取り出した。
折り目のついた紙だった。
何度も見返されたのか、端が少し丸くなっている。
紬はそれを、湊の前に置いた。
差出人は、ヨル。
宛先は、ほどけない糸。
本文は短い。
『見せろ。もう隠すな』
湊は紙の上の文字を見た。
送った覚えはない。
けれど、その文面には見覚えがあった。
自分が言いそうな言葉ではない。
それなのに、自分の中のどこかが、言いそうな言葉だった。
「君が作ったんですか」
湊は聞いた。
紬は首を横に振った。
「作ってません」
「じゃあ、誰が」
「ヨルさんです」
「俺は送ってない」
「覚えていないだけです」
「違う」
「目黒さん」
紬は静かに言った。
「ヨルさんは、ひとりじゃありません」
その言葉で、湊は何も言えなくなった。
ロッカーの扉が半分だけ開いている。
中には封筒と記録媒体。
青い傘。
夜泣き。
榊。
無題。
目の前には、ほどけない糸。
椎名紬。
湊は、初めてはっきりと思った。
もう、画面の向こうだけで起きている話ではない。
自分の声が、現実の鍵を開けてしまった。




