第14話 あなたが望んだから
紬は、ロッカーの中身を近くのレンタルスペースへ持っていった。
駅前の古いビルの一室だった。
机が一つ。
椅子が二つ。
窓はない。
扉の上には小さな換気口があり、そこから廊下の明かりが少しだけ入っている。
紬は、扉を少し開けたままにした。
「閉めません」
そう言った。
その言葉が、湊のためなのか、自分のためなのかは分からなかった。
机の上に、封筒が並ぶ。
青い傘。
夜泣き。
榊。
そして、無題。
紬は無題の封筒だけを少し離して置いた。
湊はそれを見た。
「それは」
「最後にします」
湊は、何も言わなかった。
紬は青い傘の封筒を開いた。
中には、印刷されたスクリーンショットと、短いメモが入っていた。
紙の端には、細い字で記号が書かれている。
S-02。
「数字は何ですか」
「整理用です」
「事件みたいに?」
紬は、少しだけ目を伏せた。
「そう見えるなら、そうなんだと思います」
湊は椅子に座った。
立っていられなくなった。
紬は紙を一枚ずつ机に置く。
「青い傘の夜。本人が夜明けノートに添付しました。グループチャットの画面と、動画のファイル。ミソラさんは個人情報を消そうとしていました。私は、その前に危険箇所を確認しました」
「それを、俺に送った」
「はい」
「俺は開いてない」
「昼のヨルさんは、開いていません」
紬は言った。
「でも、深夜のヨルさんは開きました」
湊の喉が痛む。
「その言い方、やめてください」
「他に、何と言えばいいか分かりません」
「俺は二人いるわけじゃない」
「でも、声が違います」
紬はまっすぐ言った。
「優しいヨルさんと、深夜の冷たいヨルさんがいます」
湊は反論しようとして、できなかった。
紬は紙を指で押さえた。
「深夜のヨルさんは検索しました。映り込んでいた名前。クラスの情報。加害者側のアカウント。私は、最初は止めようと思いました」
「止めなかった」
「はい」
「どうして」
紬は、湊を見なかった。
「ヨルさんからDMが来たからです」
紙の一枚を差し出す。
そこには、スクリーンショットが印刷されていた。
宛先は、ほどけない糸。
差出人は、ヨル。
『君は正しい。次も守れる』
湊は、その文を見た。
あの日の夜。
自分の端末にも一瞬残っていた文。
打った覚えのない言葉。
「私は」
紬は言った。
「選ばれたと思いました」
湊は顔を上げた。
「選ばれた?」
「ヨルさんは、配信では絶対に誰かを傷つけることを言いません。でも、深夜のヨルさんは違いました。私が見たものを、見てくれました。私が許せないと思ったものを、原因だと言ってくれました」
「それは俺じゃない」
「湊さんの口から出た言葉です」
「覚えてない」
「でも、届きました」
紬の声は静かだった。
「届いた言葉は、なかったことにはできません」
湊は、何も返せなかった。
紬は次に、夜泣きの封筒を開いた。
N-03。
「夜泣きさんの件は、真鍋さんが関わりました」
紙には、夜明けノートの投稿内容が伏せ字だらけで印刷されていた。
家の中の人数。
外にいる男が知人であること。
子どもの名前を相手が知っていたこと。
湊は、配信中の文字を思い出す。
子どもが泣いています。
ごめんなさいって言ってる。
何も悪くないのに。
「私は、夜明けノートの整理をしました」
紬は言った。
「真鍋さんは、相手の動線を知りたがりました。どこへ来るか。誰に近づくか。どこで待つか。守るためには必要だと言いました」
「それで」
「深夜のヨルさんからDMが来ました」
紬は、またスクリーンショットを出した。
『会う場所を変えさせろ』
『泣く子を盾にする相手は、話し合いでは止まらない』
湊は、通知欄に残っていた文を思い出した。
見えなかった履歴。
消えていた送信。
紬の側には残っていた。
「私は、何かをしたわけではありません」
紬は言った。
「少なくとも、最初は」
「最初は?」
「情報を整理しました。会わない方がいい場所を伝えました。真鍋さんに渡しました。夜泣きさんが安全な場所へ行けるように」
「男の人は」
湊は聞いた。
「どうなったんですか」
紬は答えなかった。
「椎名さん」
「分かりません」
「本当に?」
「最後まで見ていません」
その言い方が、答えだった。
最後まで見ていない。
つまり、途中までは見た。
湊は奥歯を噛んだ。
「方法は話さなくていいです」
湊は言った。
「でも、あなたが関わったのかだけ答えてください」
紬は、長く黙った。
「はい」
短い答えだった。
湊は目を閉じた。
湊は、ようやく分かりかけていた。
自分が配信で誰かを止めている間に、画面の外でも何かが動いていた。
コメント。
DM。
保存されたスクリーンショット。
見覚えのない録音。
湊が覚えていないところで、ヨルの名前は、誰かに言葉を送っていた。
そして、その言葉を受け取っていたのが、ほどけない糸だった。
「榊の件は」
湊は聞いた。
紬は、榊の封筒を開いた。
R-04。
「榊さんは、ヨルさんを晒そうとしていました」
「だから、妹さんを使った」
「はい」
「それも、俺が望んだことですか」
湊の声が硬くなる。
紬は、湊を見た。
「深夜のヨルさんは、そう望みました」
湊は机を叩きそうになって、こらえた。
「俺は望んでない」
「でも」
紬は、声を少しだけ震わせた。
「湊さんも、止まってほしいと思いましたよね」
湊は何も言えなかった。
思った。
榊に止まってほしいと思った。
黙れと思った。
これ以上、誰の名前も出すなと思った。
そのために何を使うかまでは考えていない。
考えたくなかった。
でも、低い声は考えた。
そして、紬に渡した。
「人を傷つけてでも、止めてほしいとは思ってない」
湊は言った。
「そう言えるのは、手を動かしていないからです」
紬の言葉は静かだった。
湊は息を呑んだ。
「私が手を動かしたから、湊さんはそう言えるんです」
「違う」
「違いません」
紬は初めて、はっきり言った。
「ヨルさんは、救う側にいる必要があります。誰かが泣いている時、ヨルさんの声が必要です。だから、汚れるのは私でよかった」
湊は立ち上がった。
椅子が床を引っかく音を立てる。
「よくない」
「でも、青い傘さんは死にませんでした」
「よくない」
「夜泣きさんの子どもは眠れました」
「よくない」
「榊さんは止まりました」
「よくない!」
声が割れた。
喉の奥が痛んだ。
紬は、そこで初めて肩を震わせた。
湊は机に手をついた。
「それは、俺の救いじゃない」
紬は唇を噛んだ。
「あなたが全部かぶって、俺だけきれいな声で残るなら、それは救いじゃない」
「でも、湊さんが壊れたら」
「もう壊れてます」
紬の目が揺れた。
湊は、自分でも驚くほど静かに続けた。
「もう壊れてるんです。だから、低い声が出た。だから、あなたに届いた。だから、こんなものがここにある」
湊は封筒を見た。
青い傘。
夜泣き。
榊。
「俺が関係ないなんて言えない」
紬は、何も言わなかった。
湊は机の上の紙を見つめる。
下書きではない。
未送信の断片ではない。
送信された言葉は、相手の中で命令になる。
誰が打った覚えがあるかではなく、誰の名前で届いたか。
それだけで、人は動く。
「最初の夜の未送信メモ」
湊は言った。
「救った先が同じなら、原因は残る。あれは誰にも送ってない」
紬はうなずいた。
「はい」
「でも、あなたはその考えを聞いていた」
「配信の低い声で」
「そのあと、俺の名前でDMが送られた」
「はい」
「あなたは、それを全部、ヨルの本心だと思った」
紬は少しだけ目を伏せた。
「今も、そう思っています」
湊は、胸の奥が冷えるのを感じた。
「二重人格だとか、そういう話ではないんです」
紬は言った。
「優しい声も、冷たい声も、どちらもヨルさんです。人を止めたい声と、原因を止めたい声。どちらも、本当だと思いました」
「本当だから、従ったんですか」
「はい」
「俺が望んだから?」
紬は湊を見た。
その目には、迷いがあった。
でも、答えは変わらなかった。
「はい」
湊は言葉を失った。
あなたが望んだから。
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥を押さえつけられた。
責任を突きつけられているのか。
救いの理由を説明されているのか。
分からなかった。
ただ、否定するには、自分の中に思い当たるものがありすぎた。
でも、紬にとっては違うのだと思った。
それは、ただの責任転嫁ではない。
湊が声に出せなかった願いを、代わりに拾うこと。
湊が止まった場所から、先へ進めること。
そうしなければ、自分も立っていられなかったのかもしれない。
ほどけない糸。
その名前の意味を、湊はようやく少しだけ理解した。
紬は、ほどけそうな人を結び止めようとしていた。
けれど、自分自身はもう、ほどけかけていた。
誰かをつなぎ止めることでしか、自分を保てなかったのかもしれない。
湊は、無題の封筒を見た。
「それは」
紬は封筒の上に手を置いた。
「私のことです」
湊は息を止めた。
「椎名さんの?」
「はい」
「なら、見せて説明してください」
紬はすぐには動かなかった。
視線だけが、鞄の横から覗く小さなくまへ向く。
湊も、そのくまを見た。
さっきまで、形までは見えなかった飾り。
今は、はっきりくまの形をしていると分かる。
「それも、関係あるんですか」
湊が聞くと、紬は小さくうなずいた。
「あります」
「誰からもらったものですか」
紬はすぐには答えなかった。
「それは、あとで話します」
それ以上は言わなかった。
湊には、その小さなくまが、紬にとって都合よく語れるものではないことが分かった。
紬は、無題の封筒を湊の前に置いた。
「私の口で先に話すと、たぶん、きれいにしてしまいます」
「きれいに?」
「自分に都合のいい形に」
紬の声は、小さかった。
「だから、先に見てください」
湊は封筒を見た。
青い傘。
夜泣き。
榊。
そのどれとも違う。
名前のない封筒。
そこに入っているものが、紬自身を指しているのだと分かった瞬間、湊は指先が冷えるのを感じた。
部屋の外で、誰かの足音が通り過ぎた。
紬は鞄から覗くくまの飾りを、指先でそっと押さえた。
その背中側に、細い縫い目が見えた。
ただのほつれではないように見えた。
湊はそれを見て、胸の奥に嫌な予感が沈むのを感じた。




