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サイレントライン ―その声は、誰を救ったのか―  作者: スドタケ


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14/20

第14話 あなたが望んだから

紬は、ロッカーの中身を近くのレンタルスペースへ持っていった。


駅前の古いビルの一室だった。


机が一つ。


椅子が二つ。


窓はない。


扉の上には小さな換気口があり、そこから廊下の明かりが少しだけ入っている。


紬は、扉を少し開けたままにした。


「閉めません」


そう言った。


その言葉が、湊のためなのか、自分のためなのかは分からなかった。


机の上に、封筒が並ぶ。


青い傘。


夜泣き。


榊。


そして、無題。


紬は無題の封筒だけを少し離して置いた。


湊はそれを見た。


「それは」


「最後にします」


湊は、何も言わなかった。


紬は青い傘の封筒を開いた。


中には、印刷されたスクリーンショットと、短いメモが入っていた。


紙の端には、細い字で記号が書かれている。


S-02。


「数字は何ですか」


「整理用です」


「事件みたいに?」


紬は、少しだけ目を伏せた。


「そう見えるなら、そうなんだと思います」


湊は椅子に座った。


立っていられなくなった。


紬は紙を一枚ずつ机に置く。


「青い傘の夜。本人が夜明けノートに添付しました。グループチャットの画面と、動画のファイル。ミソラさんは個人情報を消そうとしていました。私は、その前に危険箇所を確認しました」


「それを、俺に送った」


「はい」


「俺は開いてない」


「昼のヨルさんは、開いていません」


紬は言った。


「でも、深夜のヨルさんは開きました」


湊の喉が痛む。


「その言い方、やめてください」


「他に、何と言えばいいか分かりません」


「俺は二人いるわけじゃない」


「でも、声が違います」


紬はまっすぐ言った。


「優しいヨルさんと、深夜の冷たいヨルさんがいます」


湊は反論しようとして、できなかった。


紬は紙を指で押さえた。


「深夜のヨルさんは検索しました。映り込んでいた名前。クラスの情報。加害者側のアカウント。私は、最初は止めようと思いました」


「止めなかった」


「はい」


「どうして」


紬は、湊を見なかった。


「ヨルさんからDMが来たからです」


紙の一枚を差し出す。


そこには、スクリーンショットが印刷されていた。


宛先は、ほどけない糸。


差出人は、ヨル。


『君は正しい。次も守れる』


湊は、その文を見た。


あの日の夜。


自分の端末にも一瞬残っていた文。


打った覚えのない言葉。


「私は」


紬は言った。


「選ばれたと思いました」


湊は顔を上げた。


「選ばれた?」


「ヨルさんは、配信では絶対に誰かを傷つけることを言いません。でも、深夜のヨルさんは違いました。私が見たものを、見てくれました。私が許せないと思ったものを、原因だと言ってくれました」


「それは俺じゃない」


「湊さんの口から出た言葉です」


「覚えてない」


「でも、届きました」


紬の声は静かだった。


「届いた言葉は、なかったことにはできません」


湊は、何も返せなかった。


紬は次に、夜泣きの封筒を開いた。


N-03。


「夜泣きさんの件は、真鍋さんが関わりました」


紙には、夜明けノートの投稿内容が伏せ字だらけで印刷されていた。


家の中の人数。


外にいる男が知人であること。


子どもの名前を相手が知っていたこと。


湊は、配信中の文字を思い出す。


子どもが泣いています。


ごめんなさいって言ってる。


何も悪くないのに。


「私は、夜明けノートの整理をしました」


紬は言った。


「真鍋さんは、相手の動線を知りたがりました。どこへ来るか。誰に近づくか。どこで待つか。守るためには必要だと言いました」


「それで」


「深夜のヨルさんからDMが来ました」


紬は、またスクリーンショットを出した。


『会う場所を変えさせろ』


『泣く子を盾にする相手は、話し合いでは止まらない』


湊は、通知欄に残っていた文を思い出した。


見えなかった履歴。


消えていた送信。


紬の側には残っていた。


「私は、何かをしたわけではありません」


紬は言った。


「少なくとも、最初は」


「最初は?」


「情報を整理しました。会わない方がいい場所を伝えました。真鍋さんに渡しました。夜泣きさんが安全な場所へ行けるように」


「男の人は」


湊は聞いた。


「どうなったんですか」


紬は答えなかった。


「椎名さん」


「分かりません」


「本当に?」


「最後まで見ていません」


その言い方が、答えだった。


最後まで見ていない。


つまり、途中までは見た。


湊は奥歯を噛んだ。


「方法は話さなくていいです」


湊は言った。


「でも、あなたが関わったのかだけ答えてください」


紬は、長く黙った。


「はい」


短い答えだった。


湊は目を閉じた。


湊は、ようやく分かりかけていた。


自分が配信で誰かを止めている間に、画面の外でも何かが動いていた。


コメント。


DM。


保存されたスクリーンショット。


見覚えのない録音。


湊が覚えていないところで、ヨルの名前は、誰かに言葉を送っていた。


そして、その言葉を受け取っていたのが、ほどけない糸だった。


「榊の件は」


湊は聞いた。


紬は、榊の封筒を開いた。


R-04。


「榊さんは、ヨルさんを晒そうとしていました」


「だから、妹さんを使った」


「はい」


「それも、俺が望んだことですか」


湊の声が硬くなる。


紬は、湊を見た。


「深夜のヨルさんは、そう望みました」


湊は机を叩きそうになって、こらえた。


「俺は望んでない」


「でも」


紬は、声を少しだけ震わせた。


「湊さんも、止まってほしいと思いましたよね」


湊は何も言えなかった。


思った。


榊に止まってほしいと思った。


黙れと思った。


これ以上、誰の名前も出すなと思った。


そのために何を使うかまでは考えていない。


考えたくなかった。


でも、低い声は考えた。


そして、紬に渡した。


「人を傷つけてでも、止めてほしいとは思ってない」


湊は言った。


「そう言えるのは、手を動かしていないからです」


紬の言葉は静かだった。


湊は息を呑んだ。


「私が手を動かしたから、湊さんはそう言えるんです」


「違う」


「違いません」


紬は初めて、はっきり言った。


「ヨルさんは、救う側にいる必要があります。誰かが泣いている時、ヨルさんの声が必要です。だから、汚れるのは私でよかった」


湊は立ち上がった。


椅子が床を引っかく音を立てる。


「よくない」


「でも、青い傘さんは死にませんでした」


「よくない」


「夜泣きさんの子どもは眠れました」


「よくない」


「榊さんは止まりました」


「よくない!」


声が割れた。


喉の奥が痛んだ。


紬は、そこで初めて肩を震わせた。


湊は机に手をついた。


「それは、俺の救いじゃない」


紬は唇を噛んだ。


「あなたが全部かぶって、俺だけきれいな声で残るなら、それは救いじゃない」


「でも、湊さんが壊れたら」


「もう壊れてます」


紬の目が揺れた。


湊は、自分でも驚くほど静かに続けた。


「もう壊れてるんです。だから、低い声が出た。だから、あなたに届いた。だから、こんなものがここにある」


湊は封筒を見た。


青い傘。


夜泣き。


榊。


「俺が関係ないなんて言えない」


紬は、何も言わなかった。


湊は机の上の紙を見つめる。


下書きではない。


未送信の断片ではない。


送信された言葉は、相手の中で命令になる。


誰が打った覚えがあるかではなく、誰の名前で届いたか。


それだけで、人は動く。


「最初の夜の未送信メモ」


湊は言った。


「救った先が同じなら、原因は残る。あれは誰にも送ってない」


紬はうなずいた。


「はい」


「でも、あなたはその考えを聞いていた」


「配信の低い声で」


「そのあと、俺の名前でDMが送られた」


「はい」


「あなたは、それを全部、ヨルの本心だと思った」


紬は少しだけ目を伏せた。


「今も、そう思っています」


湊は、胸の奥が冷えるのを感じた。


「二重人格だとか、そういう話ではないんです」


紬は言った。


「優しい声も、冷たい声も、どちらもヨルさんです。人を止めたい声と、原因を止めたい声。どちらも、本当だと思いました」


「本当だから、従ったんですか」


「はい」


「俺が望んだから?」


紬は湊を見た。


その目には、迷いがあった。


でも、答えは変わらなかった。


「はい」


湊は言葉を失った。


あなたが望んだから。


たったそれだけの言葉なのに、胸の奥を押さえつけられた。


責任を突きつけられているのか。


救いの理由を説明されているのか。


分からなかった。


ただ、否定するには、自分の中に思い当たるものがありすぎた。


でも、紬にとっては違うのだと思った。


それは、ただの責任転嫁ではない。


湊が声に出せなかった願いを、代わりに拾うこと。


湊が止まった場所から、先へ進めること。


そうしなければ、自分も立っていられなかったのかもしれない。


ほどけない糸。


その名前の意味を、湊はようやく少しだけ理解した。


紬は、ほどけそうな人を結び止めようとしていた。


けれど、自分自身はもう、ほどけかけていた。


誰かをつなぎ止めることでしか、自分を保てなかったのかもしれない。


湊は、無題の封筒を見た。


「それは」


紬は封筒の上に手を置いた。


「私のことです」


湊は息を止めた。


「椎名さんの?」


「はい」


「なら、見せて説明してください」


紬はすぐには動かなかった。


視線だけが、鞄の横から覗く小さなくまへ向く。


湊も、そのくまを見た。


さっきまで、形までは見えなかった飾り。


今は、はっきりくまの形をしていると分かる。


「それも、関係あるんですか」


湊が聞くと、紬は小さくうなずいた。


「あります」


「誰からもらったものですか」


紬はすぐには答えなかった。


「それは、あとで話します」


それ以上は言わなかった。


湊には、その小さなくまが、紬にとって都合よく語れるものではないことが分かった。


紬は、無題の封筒を湊の前に置いた。


「私の口で先に話すと、たぶん、きれいにしてしまいます」


「きれいに?」


「自分に都合のいい形に」


紬の声は、小さかった。


「だから、先に見てください」


湊は封筒を見た。


青い傘。


夜泣き。


榊。


そのどれとも違う。


名前のない封筒。


そこに入っているものが、紬自身を指しているのだと分かった瞬間、湊は指先が冷えるのを感じた。


部屋の外で、誰かの足音が通り過ぎた。


紬は鞄から覗くくまの飾りを、指先でそっと押さえた。


その背中側に、細い縫い目が見えた。


ただのほつれではないように見えた。


湊はそれを見て、胸の奥に嫌な予感が沈むのを感じた。

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