第12話 あなたも昔、五分待った
その夜、湊は配信を開かなかった。
開けなかった、と言った方が近い。
ネカフェには行った。
通話可個室も取った。
ヘッドセットも机の上に置いた。
配信アプリの管理画面も開いた。
そこまでして、開始ボタンだけが押せなかった。
真鍋の言葉が、喉の奥に残っている。
あなたの声は、入口です。
入口。
そう呼ばれると、自分の声が、誰かをどこかへ誘導するための装置みたいに思える。
声を出すだけなら、まだよかった。
けれど声のあとに、記録がある。
整理がある。
外部支援がある。
そして、ほどけない糸がいる。
湊は、録音アプリを開いた。
榊の夜に残っていた音声。
守りたいものがある人間は、黙る。
再生はしなかった。
文字だけで十分だった。
音声ファイルの共有履歴には、まだほどけない糸の名前が残っている。
それ以上は分からない。
分からないはずなのに、その名前だけが、少しずつ実体を持ち始めている。
画面の向こうの誰か。
的確なコメントを置く誰か。
榊を止めた誰か。
ヨルを救う側に残そうとする誰か。
でも、それが誰なのかは分からない。
雨の日に出会った少女のことを、湊は思い出しかけて、すぐにやめた。
あれは別のことだ。
そう思いたかった。
濡れた袖。
襟元を直す指。
夜に、配信してますか、と聞いた顔。
それらは、雨の匂いと一緒に浮かんでは、すぐに沈んだ。
湊はスマホを伏せた。
伏せた瞬間、通知が鳴った。
ほどけない糸からだった。
『ヨルさん』
短い一行。
湊は返信しなかった。
続けて、もう一通。
『今日は、開かないんですね』
湊は画面を見た。
『見てるんですか』
送信。
既読はすぐにつく。
『見ていなくても、分かります』
湊は眉を寄せた。
『どうして』
返事は少し遅れた。
『ヨルさんは、自分が怖くなると、声を閉じます』
湊は、その文を何度も読んだ。
声を閉じる。
自分でも使ったことのない表現だった。
でも、ひどく近い。
言われた瞬間、自分の喉がさらに狭くなった。
『昔も、そうでした』
湊の指が止まった。
昔。
何の話だ。
湊は返信欄に指を置く。
何を知っているんですか。
そう打とうとして、画面が先に震えた。
『ヨルさんも昔、五分待ったじゃないですか』
湊は呼吸を忘れた。
その文だけ、画面から浮いて見えた。
ヨルさんも昔、五分待った。
誰にも話していない。
話したことがない。
湊自身ですら、なるべく思い出さないようにしていた夜だった。
二年前。
まだ視聴者もほとんどいなかった頃。
湊は、配信者というより、ただ夜に独り言を流す人間だった。
誰かを救うつもりなどなかった。
むしろ、誰かに見つけてほしかった。
けれど、そんなことは一度も言葉にしていない。
誰にも。
ミソラにも。
ほどけない糸にも。
湊はスマホを握った。
『どうして知ってるんですか』
送信。
既読。
返事は来ない。
一分。
二分。
空調の音だけが、個室に残る。
湊はもう一度送った。
『あなたは、あの時から俺の配信にいたんですか』
既読。
返事は、やはり来ない。
湊はPCに向き直った。
配信アプリのアーカイブを開く。
古いログ。
二年前のものは、ほとんど残っていない。
保存期間が切れたもの。
自分で消したもの。
タイトルもつけていないもの。
その中に、いくつかだけ短い配信が残っていた。
視聴者数、一。
二。
ゼロ。
湊は古い日付を開く。
黒い画面。
若い声。
今よりも、少しだけ高い。
今よりも、ずっと荒れている。
『……誰もいないなら、終わります』
画面の中の湊は、そう言って笑った。
笑ったというより、声だけが薄く揺れた。
『配信も、アカウントも、もう消していいかなって思ってます』
コメント欄は動かなかった。
視聴者数は一人。
その数字だけが、黒い画面の端に残っている。
湊が終了ボタンへカーソルを動かした時、コメントが流れた。
> 消さないでください
湊は止まった。
> 五分だけ待ってください
湊は再生を止めた。
画面の中で、その文字だけが残っている。
五分だけ待って。
今、湊が誰かへ言っている言葉。
その最初の形が、そこにあった。
自分が作った言葉ではなかった。
湊は、ゆっくり息を吸った。
喉が痛い。
痛いのに、声は出ない。
そのコメント主が誰なのかは、分からない。
アカウント名は今のほどけない糸ではない。
ただ、短く置く言葉の温度が、どこか似ていた。
水を飲んでください。
今日は終わってください。
画面だけ見てください。
五分だけ待ってください。
湊は、別のログも開いた。
同じアカウントが、いくつかの夜にいた。
> 今日もいます
> 水、飲めますか
> 声が苦しそうです
> もう終わってください
今のほどけない糸と同じだ。
そう言い切るには弱い。
でも、違うとも言い切れない。
湊はスマホを取った。
『あなたですか』
送る。
既読。
しばらくして、返事が来た。
『何がですか』
湊は、画面の文字を見たまま奥歯を噛んだ。
『二年前のコメントです』
既読。
長い沈黙。
その間に、湊は自分の古い声を止めた。
止めても、画面にはコメントが残っている。
五分だけ待って。
湊は、その言葉を最初に誰へ向けたのか、もう分からなくなっていた。
二年前の誰かが、湊に向けた。
その後、湊が屋上の少女に向けた。
その少女が生き延びた。
その後、父が死んだ。
言葉は、人から人へ渡る。
渡った言葉が、同じ意味で残るとは限らない。
ほどけない糸から返信が来た。
『ヨルさんは、まだ救えます』
湊はその一文を見た。
答えになっていない。
けれど、逃げてもいない。
昔からいたのか。
あのコメントを書いたのか。
なぜ湊の過去を知っているのか。
何一つ答えていないのに、すべてを知っているような返事だった。
湊は返信欄に打つ。
『あなたは誰ですか』
送れなかった。
送っても、返ってくるのは名前ではない気がした。
名前を聞けば、相手はまた別の言葉で湊を縛る。
ヨルさんは、まだ救えます。
あなたは、まだ救う側にいてください。
湊はスマホを伏せた。
PC画面には、古いアーカイブが止まっている。
誰もいない黒い画面。
そこに一つだけ残るコメント。
五分だけ待って。
湊の画面では、ほとんど消えている。
それでも、どこかの端末には残っている。
自分が消したつもりの夜を、誰かが保存している。
そのことが、湊には少し怖かった。
◇ ◇ ◇
翌日、湊はミソラに連絡した。
『ほどけない糸さんは、いつから配信にいましたか』
既読はすぐについた。
返事は少し遅れた。
『今の名前で来るようになったのは、屋上の件の少しあとです』
湊は指を止めた。
屋上の件。
ミソラの文面では、それ以上の情報はない。
屋上の少女。
父親の死。
あの夜の低い声。
そこへ、ほどけない糸が現れた。
『それ以前は?』
送る。
『分かりません。別名でいた可能性はあります』
湊は画面を見つめた。
『ミソラさんは、ほどけない糸さんの正体を知っていますか』
既読。
返事は、かなり遅れた。
『知りません』
短い。
湊はさらに打つ。
『会ったことは?』
『ありません』
『声は?』
『聞いたことはありません』
湊は息を吐いた。
画面の向こうの誰か。
それだけだ。
なのに、湊の過去を知っている。
自分が忘れようとしていた夜を知っている。
『でも』
ミソラから追加の文が来た。
『ほどけない糸さんは、ヨルさんの声の変化に異常に敏感です』
続けて、もう一通。
『私より先に気づくことがあります』
湊は、古いアーカイブを思い出した。
水、飲めますか。
声が苦しそうです。
もう終わってください。
同じだ。
同じかもしれない。
でも、まだ分からない。
湊はスマホを握った。
分からないことが増えるほど、声だけが確かになっていく。
自分の声。
低い声。
ほどけない糸の文字。
二年前の誰かのコメント。
全部が、黒い画面の中で絡まっていた。




