第11話 真鍋という大人
湊は、真鍋と会うことになった。
場所は、駅から少し離れた雑居ビルの二階だった。
一階には閉まった不動産屋があり、二階の窓には白いブラインドが下りている。
入口の横に、小さなプレートが出ていた。
明け方の家。
名前だけ見れば、優しい場所に見える。
けれど湊は、その文字の前でしばらく立ち止まった。
明け方。
夜を越えたあとに来る時間。
湊がいつも、誰かにそこまで待ってほしいと思っている時間。
その名前を、他人が事務所の看板にしていることが、少しだけ不思議だった。
約束の時間より早く着いていた。
早く来たかったわけではない。
家にも、ネカフェにも、バイト先にもいたくなかった。
それだけだった。
スマホを開く。
ほどけない糸からのDMは、昨夜のまま止まっている。
『あなたは、まだ救う側にいてください』
湊はその一文を見つめた。
救う側。
その言葉は、昨日からずっと喉の奥に引っかかっている。
榊は止まった。
配信も切れた。
表に出るはずだったものは、いったん伏せられた。
それだけを見れば、最悪は避けられたのかもしれない。
けれど湊には、どうしてもそう思えなかった。
何かが止まるたびに、別の場所で何かが動いている。
画面の向こうで。
夜明けノートの裏で。
自分の記憶が抜け落ちた時間の中で。
湊は録音アプリの内容を思い出した。
自分の声なのに、自分が聞いたことのない声。
自分の言葉なのに、自分が選んだ覚えのない言葉。
守りたいものがある人間は、黙る。
あの声は、怒鳴っていなかった。
脅しているようにも聞こえなかった。
ただ、結論だけを置いていた。
まるで、もう何度も考えた末に、そこへ辿り着いたみたいに。
湊はスマホを伏せた。
今日会う真鍋も、たぶん似たことを言う。
相談だけでは救えない。
記録が必要だ。
動線を押さえなければ守れない。
そういう言葉を、穏やかな声で言うのだろう。
正しそうな顔をして。
誰かを守るための言葉として。
湊は、それが怖かった。
自分の中の低い声と、外にいる大人の正しさが、同じ方向を向いている気がした。
階段の上から、足音が聞こえた。
「目黒さんですか」
顔を上げると、真鍋が立っていた。
思っていたより若く見えた。
四十代前半くらい。
疲れているが、乱れてはいない。
白いシャツに、紺色のカーディガン。
胸元には、小さな名札がついている。
真鍋裕司。
「すみません。お待たせしました」
「いえ」
「中へどうぞ」
真鍋は鍵を開け、事務所のドアを押した。
中は狭かった。
壁には、相談窓口や児童支援、生活困窮者支援のパンフレットが並んでいる。
きれいに整っていた。
整いすぎているわけではない。
書類の束もある。
使い古したファイルもある。
誰かが何度も出入りしている場所の匂いがした。
「お茶でいいですか」
「大丈夫です」
「水だけでも」
真鍋は紙コップに水を入れた。
湊の前に置く。
透明な水。
ネカフェの紙コップと同じはずなのに、ここに置かれると、少し別のものに見えた。
「声、つらそうですね」
真鍋が言った。
湊は紙コップを見たまま答える。
「最近、少し」
「配信後ですか」
「配信中もです」
「無理をしていますね」
そう言われて、湊は顔を上げた。
真鍋の声は責めていなかった。
ただ、確認するような言い方だった。
「無理しないと、拾えない時があります」
湊は言った。
「無理して拾って、どこへ渡していますか」
その問いに、湊はすぐ答えられなかった。
「ミソラさんが夜明けノートを見ています。俺は全部は見ません」
「見ない理由は?」
「抱えきれないからです」
「正しいと思います」
真鍋はうなずいた。
「一人で全部抱えると、支援する側が先に壊れます。壊れた支援者は、助けるつもりで人を傷つける」
湊は手元の水を見た。
その言葉は、まるで自分のために用意されたように聞こえた。
「ただ」
真鍋は続けた。
「見なければ、何が起きているか分からない」
湊は黙った。
「相談だけでは、人は救えません」
静かな声だった。
強い主張ではない。
何度も同じ結論に戻ってきた人の声だった。
「夜、死にたいと書く子に、朝まで待とうと言う。それは大切です。とても大切です。でも、朝になって、その子が同じ家へ戻されたらどうなると思いますか」
湊は答えなかった。
答えは、もう知っている。
「同じ夜が来ます」
真鍋は言った。
「戻される場所が変わらなければ、声だけでは足りない」
湊は喉の奥が狭くなるのを感じた。
その言葉は、湊の中の低い声と似ていた。
救った先が同じなら、原因は残る。
戻すだけなら、また泣く。
言い方は違う。
温度も違う。
けれど、向いている方向は少し似ている。
それが嫌だった。
「真鍋さんは」
湊は声を絞った。
「どう変えるんですか」
「記録します」
真鍋は即答した。
「誰が、何に困っているのか。誰が戻る場所を塞いでいるのか。どこで支援が切れているのか。記録しなければ、次の支援につながりません」
「記録」
「はい」
真鍋は棚から一冊のファイルを取り出した。
表紙には何も書かれていない。
テーブルの上に置くが、開かなかった。
「これは、匿名化した相談の整理資料です。個人名は出していません。住所も伏せています」
湊はファイルを見た。
開いていないのに、中身が重い気がした。
「匿名化しているなら、安全なんですか」
「完全に安全とは言いません」
真鍋はその答えを避けなかった。
「見る人が見れば、分かってしまうことはあります。家庭環境、学校、地域、時期。情報を削っても、組み合わせれば輪郭が出る」
「それなら」
「でも、何も残さなければ、その人は消えます」
湊は真鍋を見た。
「消える?」
「その夜、苦しかった子がいた。家に帰れなかった子がいた。誰かに傷つけられていた子がいた。記録しなければ、翌日には“なかったこと”になります」
真鍋の声は、少しだけ硬くなった。
「警察へ行っても、学校へ行っても、行政へ行っても、最初に聞かれるのは、いつ、誰に、何をされたかです。言葉にできない子ほど、そこで落ちます。だから、誰かが代わりに拾う必要がある」
それは、間違っていないように聞こえた。
だから怖かった。
湊は紙コップを持ち上げた。
水は飲まなかった。
「その記録が、別の使われ方をしたら」
真鍋は、少しだけ黙った。
「その危険はあります」
「あります、で済むんですか」
「済みません」
真鍋は言った。
「済まないから、ルールが必要です。権限も、削除も、確認も。ですが、現場ではいつも、ルールより先に夜が来ます」
湊は、返す言葉を失った。
真鍋は悪人には見えなかった。
少なくとも、画面の向こうの痛みを笑う榊とは違う。
だが、榊とは別の怖さがある。
榊は痛みを見世物にする。
真鍋は痛みを資料にする。
どちらも、本人の手から少しずつ痛みを離していく。
「ほどけない糸さん」
真鍋がその名前を出した。
湊の指が止まる。
「その人は、整理がとても上手い」
「素性を知っているんですか」
湊は思わず聞いた。
真鍋は首を横に振る。
「少なくとも、私が直接確認したわけではありません。ですが、文面はずっと同じです」
「……そうですか」
湊はそう返したが、胸の奥に小さな違和感が残った。
「彼女は、危ない情報に気づくのが早い。名前、続柄、学校、勤務先。誰かが不用意に書いたものを、すぐ拾う。消すべきものも、残すべきものも分かっている」
「それは、いいことですか」
湊は聞いた。
真鍋はすぐには答えなかった。
「使い方によります」
「便利な言葉ですね」
「ええ」
真鍋は、否定しなかった。
「便利な言葉です。支援の現場は、そういう言葉でできています。原則、必要に応じて、関係者のみ、確認中」
湊は真鍋を見た。
真鍋は笑わなかった。
「そういう言葉の中に、責任を逃がす隙間があることも知っています」
「知っていて、使うんですか」
「使わないと、書類が通りません」
その答えは、妙に現実的だった。
正義でも悪でもない。
ただ、疲れていた。
湊はそこで初めて、真鍋の目の下の影を見た。
この人も、何かを見すぎている。
見すぎた結果、痛みを整理する以外の方法をなくしている。
「目黒さん」
真鍋は言った。
「あなたの声は、入口です」
湊は眉を寄せた。
「入口?」
「死にかけている人を、最初の一歩だけ戻す。とても大切な入口です。でも入口だけでは、人は生活できません。出口も、通路も、次に行く場所も必要です」
「だから、記録する」
「はい」
「だから、整理する」
「はい」
真鍋は、湊の前の紙コップへ視線を落とした。
「そして、入口が広がりすぎれば、誰が入ってきたのか分からなくなります」
湊は答えなかった。
「善意の人も来ます。助けを求める人も来ます。けれど、見物に来る人も、利用しようとする人も、正義の顔で誰かを裁きたい人も来る」
榊の顔が、湊の頭に浮かんだ。
真鍋は続けた。
「だから、入口を守る人も必要です」
「入口を守る?」
「場合によっては、ヨルという場所そのものを管理する人も」
湊の指が、紙コップの縁に触れた。
「俺を管理する、という意味ですか」
真鍋は、すぐには否定しなかった。
「守るという意味です」
湊には、その二つの違いがすぐには分からなかった。
「守るために、本人が望んでいない情報も扱うんですか」
真鍋は少しだけ目を伏せた。
「望むか望まないかを確認できる状態ではないこともあります」
湊は、紙コップを机に置いた。
水面が揺れた。
「それ、怖いです」
「私も怖いです」
真鍋は即答した。
「でも、怖いから何もしない、とは言えません」
湊は何も言えなかった。
その理屈に、少しだけ納得してしまう自分がいた。
夜泣きの玄関に立っていた男。
青い傘を追い詰めたクラスメイト。
屋上の少女を家へ戻した大人たち。
そういう人間を止めるには、声だけでは足りない。
そんなことは、湊自身がいちばん思っていた。
だから、自分の中の低い声も生まれたのかもしれない。
「真鍋さんは」
湊は聞いた。
「榊さんの妹さんの件を知っていましたか」
真鍋の表情が、初めてわずかに変わった。
「確認中です」
「またそれですか」
「本当に、確認中です」
「夜明けノートに情報はないと、ミソラさんは言っていました」
「ミソラさんの管理画面には、でしょう」
湊は息を止めた。
「他にあるんですか」
「情報は、一つの場所にだけ残るとは限りません」
真鍋は言った。
「相談の記録。支援先への連絡。外部資料。削除済みのバックアップ。本人が送ったスクリーンショット。第三者の保存」
「つまり、漏れたかもしれない」
「漏れた、とはまだ言えません」
「でも、出た」
真鍋は答えなかった。
その沈黙が答えだった。
湊は立ち上がった。
「今日は、もう帰ります」
「分かりました」
真鍋は止めなかった。
「目黒さん」
ドアの前で呼び止められる。
湊は振り返らなかった。
「あなたが声を止めたら、戻れない人がいます」
その言葉は、優しく聞こえる。
でも、背中に重かった。
「それ、脅しですか」
湊は聞いた。
真鍋は、少しだけ間を置いた。
「支援者が一番使ってはいけない言葉でしたね」
湊は何も返さず、事務所を出た。
階段を下りる。
外へ出ると、夜の空気が冷たかった。
スマホが震える。
ほどけない糸からだった。
『真鍋さんは、悪い人ではありません』
湊は立ち止まった。
なぜ、今その文が来る。
真鍋と会ったことを、誰かが伝えたのか。
それとも、ほどけない糸は先回りしているだけなのか。
続けて、もう一通。
『でも、止まらない人です』
湊は返信欄を開いた。
『どうして知っているんですか』
そこまで打って、指が止まった。
返事が怖いのではない。
その返事が、また一つ記録として残ることが怖かった。
DMに。
通知に。
誰かの保存フォルダに。
湊は文字を消した。
送らなかった問いだけが、喉の奥に残った。
湊はスマホを閉じた。
夜の道路に、車のライトが流れていく。
湊は、自分が今、救う側ではなく、記録される側に立っている気がした。




