第10話 妹の名前
榊の配信は、始まらなかった。
正確には、始まってすぐに止まった。
待機画面が切り替わり、榊が映った。
いつもの白い壁。
棚に並んだ本。
正義という言葉が好きそうな、清潔すぎる部屋。
榊は笑っていた。
「どうも、榊です。今日は予定を変えます」
コメント欄が流れる。
> え
> ヨルの話は?
> 逃げた?
> 何があった
> 顔色悪くない?
榊は目を伏せた。
笑っているのに、目だけが笑っていなかった。
昨日の榊なら、ここで一度ためを作ったはずだ。
視聴者の不安を煽り、少し笑い、もう一段深いところへ連れていく。
そういう話し方をする人間だった。
でも、今の榊は違った。
言葉を選んでいる。
選んでいるというより、選ばされている。
「本日の配信は中止します。今後の活動についても、しばらく休止します」
湊は画面を見たまま動けなかった。
榊の声は、昨日までと違っていた。
大きくない。
笑っていない。
誰かに喉元を押さえられているみたいな声だった。
「理由については、今は話せません。いろいろ確認が必要です。関係者の方々には、軽率な発信をしたことをお詫びします」
軽率な発信。
その言葉だけでは足りない。
でも、それ以上言わせない何かがある。
コメント欄は荒れていた。
> 脅された?
> ヨル怖
> 何か知ってるの?
> 榊さん大丈夫?
> 消されるの?
> 誰か後ろにいる?
榊はコメントを見ていないようだった。
一度だけ、画面の端へ視線が揺れた。
そこに誰かがいるのではない。
見えてはいけないものを、画面の外に置いている。
湊には、そう見えた。
「今回の件で、個人の生活に関わる情報を扱おうとしていたことについても、反省しています」
榊はそこで一度、息を止めた。
「相手が誰であっても、守られるべき人がいることを、軽く見ていました」
守られるべき人。
湊の指が、机の端を押した。
榊の言葉は謝罪に聞こえる。
でも、その奥に別のものがある。
何を守らされたのか。
誰を守るために黙ったのか。
その答えだけが、画面には映らない。
「……本当は、僕が一番分かっていなければいけないことでした」
湊は、その一言で手を止めた。
榊は知っている。
名前を出される側の痛みを。
関係のない家族が、画面の向こうで消費される怖さを。
それでも、やろうとしていた。
だから止まった。
止められた。
「すみません」
最後にそう言って、配信は切れた。
画面には、終了しました、の表示が残った。
湊は椅子に座ったまま、しばらく何もできなかった。
安堵が先に来た。
それが嫌だった。
屋上の少女も、青い傘も、夜泣きも、これ以上は晒されずに済む。
ヨルの正体にも、今すぐは届かない。
助かった。
そう思った直後、胃の奥が重くなった。
どうやって止まったのか。
誰が止めたのか。
そこを見ないまま安心している。
スマホが震えた。
ほどけない糸からだった。
『止まりました』
湊は返信欄を開く。
『何をしたんですか』
打って、消さなかった。
送信。
既読は、すぐについた。
返事は少し遅れた。
『見せただけです』
湊は画面を見つめた。
『何を』
既読。
返事は来なかった。
湊はもう一度打とうとして、指を止めた。
聞いたら、答えが返ってくる。
そう思った。
でも、今回は聞かない方が怖かった。
『何を見せたんですか』
送る。
既読。
しばらくして、短い文が返ってきた。
『榊さんが、守りたかったものです』
湊はスマホを握った。
指が痛い。
『それは、誰かの個人情報ですか』
返事はなかった。
沈黙が、そのまま答えになった。
湊はさらに打った。
『名前ですか』
送信。
既読。
返事は来ない。
湊の喉が鳴った。
誰の名前か。
聞かなくても、分かってしまう気がした。
榊が配信の最後で言った言葉。
守られるべき人。
生活に関わる情報。
軽く見ていた。
それらが一つの場所へ集まっていく。
『家族の名前ですか』
送ってから、湊はすぐに後悔した。
文字にした瞬間、榊が守ろうとしていた誰かに指を伸ばした気がした。
自分はまだ、その人の名前も、榊にとってどんな相手なのかも知らない。
知らないのに、そこへ指を伸ばしている。
ほどけない糸から、短い返事が来た。
『妹さんです』
湊は画面を見つめた。
続けて、もう一通届く。
『名前、学校、通学路、生活圏』
『昔、晒されかけた時の書き込みの控えもあります』
背中が冷えた。
それは、妹が何かをしたという記録ではなかった。
何もしていない人間を、画面の外から引きずり出すための材料だった。
名前。
学校。
通学路。
生活圏。
それだけで、人は黙る。
榊は、その怖さを知っていた。
知っていたのに、今度は別の誰かに同じことをしようとしていた。
ほどけない糸は、そこを突いた。
正しいところを突いている。
たぶん、榊には刺さった。
でも、それは救いではない。
弱いところを、正しい言葉で押しただけだ。
『それを脅しと言います』
湊は送った。
既読。
返事は来ない。
湊はさらに打った。
『正しいことを言って黙らせても、やっていることは同じです』
送信。
今度は、しばらく既読もつかなかった。
◇ ◇ ◇
ミソラに連絡したのは、そのあとだった。
『榊の件で、何か知っていますか』
既読はすぐについた。
返事は少し遅い。
『配信が中止になったことだけです』
湊は画面を見つめた。
『ほどけない糸さんが、榊さんを止めるために何かを見せたようです』
送る前に、指が止まる。
告げ口のように見えた。
でも、そういう問題ではない。
送信した。
ミソラの返事は、さらに遅れた。
『何か、とは』
湊は息を吐いた。
『榊さんの妹さんを特定できる情報を見せたようです』
打ってから、数秒だけ迷い、続けた。
『名前、学校、通学路、生活圏です』
『昔、晒されかけた時の書き込みの控えもあるようでした』
送信。
既読。
しばらく返事が来なかった。
駅の外で、雨が降り始めている。
窓のない個室なのに、湊には雨の音が聞こえる気がした。
ミソラから返事が来た。
『夜明けノートに、榊さんの妹さんに関する情報はありません』
一文。
それだけだった。
湊はすぐに返した。
『本当に?』
既読。
『少なくとも、私の管理画面では見えません』
私の管理画面。
その言い方に、湊の指が止まった。
『他の人は?』
既読。
返事は来なかった。
湊は画面を見つめたまま待った。
一分。
二分。
短い時間のはずなのに、呼吸が浅くなる。
ミソラは、すぐ答えられない。
それはつまり、見える人がいるということなのか。
見えるかもしれない人がいるということなのか。
数分後、ミソラから別の文が届いた。
『真鍋さんに確認します』
湊はその文を見つめた。
真鍋。
また、その名前。
記録。
動線。
外部支援。
全部が少しずつ同じ場所へ寄っていく。
湊は真鍋との通話履歴を開いた。
番号は残っていない。
ミソラ経由の通話だったからだ。
残っているのは、短いメッセージだけ。
『結果としては良かったと思います』
湊はその文を見て、吐き気に近いものを感じスマホを伏せた。
結果として。
便利な言葉だと思った。
途中を見なくて済む。
何を使ったのか。
誰の名前が、誰かを黙らせるために差し出されたのか。
それを、最後の一枚で隠せる。
◇ ◇ ◇
その時、伏せていたスマホが震えた。
ほどけない糸とのDMに、ようやく既読がついていた。
湊が送った文が、画面に残っている。
『正しいことを言って黙らせても、やっていることは同じです』
その下に、新しい返信があった。
『榊さん本人にだけ見せました』
湊は返信しなかった。
続けて、もう一通届く。
『止めるためです』
見せただけ。
消しただけ。
止めただけ。
その言い方は、いつも少しだけきれいだった。
湊は返した。
『それで相手が止まると分かって見せたなら、脅しです』
既読。
すぐには返ってこない。
個室の換気扇が低い音を立てている。
隣の部屋で、誰かが小さく咳をした。
ほどけない糸から返事が来た。
『榊さんは、ヨルさんを傷つけようとしていました』
少し遅れて、もう一通。
『あの人たちのことも』
あの人たち。
湊はその言葉で、顔を知らない人たちを思い浮かべた。
屋上の少女。
青い傘。
夜泣き。
画面の向こうで、名前を隠したまま助けを求めてきた人たち。
そこに、雨の日の少女の横顔も混ざりかけた。
コンビニの庇の端で、男の足音に身を固くした肩。
夜に配信してますか、と聞いた声。
それらが、今になって引っかかっていた。
でも、ほどけない糸の文は続いた。
『名前が出たら、戻れなくなる人がいます』
その通りだった。
名前が出たら、戻れなくなる人がいる。
だからこそ、名前を出してはいけない。
だからこそ、名前を握ってはいけない。
『だから、榊さんにも分かってもらいました』
分かってもらいました。
やわらかい言葉だった。
中身は違う。
『誰かを守るために、別の誰かの弱いところを使わないでください』
湊は送った。
既読。
返事は来ない。
湊は画面を置いた。
それで終わりにしたかった。
でも、終わらない。
スマホがまた震えた。
今度は、ほどけない糸ではなかった。
真鍋からだった。
どうやって直接届いたのか、一瞬分からなかった。
表示名は、明け方の家。
『榊さんの件について、ミソラさんから確認を受けました』
続けて届く。
『こちらの記録管理について、確認中です』
記録管理。
文字だけで胃が重くなる。
湊は返信欄を開いた。
『記録は、誰が見られるんですか』
送信。
しばらくして、真鍋から返事が来た。
『原則として、関係者のみです』
原則。
また便利な言葉だった。
『ほどけない糸さんは関係者ですか』
既読。
返事は少し遅れた。
『夜明けノート側の整理協力者として、一部情報の確認をお願いすることはあります』
湊はスマホを持つ手に力を入れた。
『一部とは』
既読。
返事は来ない。
来ない時間が、そのまま答えになっていく。
湊はさらに打った。
『榊さんの妹さんの情報は、どこから出たんですか』
送信。
既読。
長い沈黙。
換気扇の音が、やけに大きく聞こえた。
真鍋から返事が来た。
『その件については確認中です』
確認中。
否定ではなかった。
湊は画面を閉じた。
閉じても、文字は残る。
原則。
一部。
確認中。
どれも、責任を少しだけ遠ざける言葉だった。
◇ ◇ ◇
夜は、配信しなかった。
待機画面は開いた。
でも、開始は押せなかった。
黒い画面のまま、何分も見ていた。
声を出せば、誰かが来る。
声を出さなければ、誰かは来ない。
それだけのことなのに、指が動かない。
湊はヘッドセットを机の端へ押した。
スマホの録音アプリを開く。
昨日の音声メモが、まだ残っている。
『守りたいものがある人間は、黙る』
再生はしなかった。
文字だけで十分だった。
その音声は、自分の中から出た。
出たことを、自分は覚えていない。
しかも、それはただ残っていたわけではない。
誰かに送るための形で残されていた。
ほどけない糸に。
送ったのか。
送る前に止まったのか。
湊には分からない。
でも、榊は止まった。
ほどけない糸は、止めた。
その二つが並んでいる以上、無関係だとは言えなかった。
湊は録音ファイルの詳細をもう一度開いた。
共有の履歴。
送信先の候補。
ほどけない糸の名前。
それだけで十分だった。
十分なのに、足りない。
本当に送ったのか。
聞いたのか。
その声を聞いたから、ほどけない糸は動いたのか。
それとも、動いたのはもっと前からなのか。
分からない。
分からないことが、少しずつ自分の形を削っていく。
榊は止まった。
救われた人たちは、たぶん守られた。
ヨルの正体も、まだ表に出ていない。
いいことだけを拾えば、結果は悪くない。
でも、その結果の下に、誰かの名前が敷かれている。
榊の妹。
夜泣きの子ども。
青い傘の加害者の妹。
何度も、妹という言葉が出てくる。
守るはずのものが、いつの間にか盾にされている。
名前は、ただの文字ではない。
名前は、その人へ続く入口になる。
守るために伏せることもできる。
黙らせるために握ることもできる。
同じ名前が、救命具にも刃にもなる。
湊はそれを知っていたはずだった。
配信で、何度も言ってきた。
ここに名前を書かないでください。
個人が分かることは出さないでください。
広げないでください。
その言葉を、自分は何度も使ってきた。
なのに、自分の中から出た声は、別のことを言った。
守りたいものがある人間は、黙る。
湊は両手で顔を覆った。
声が出なかった。
泣いているわけではない。
でも、息の仕方が少し分からなかった。
スマホが震えた。
ほどけない糸からだった。
『ヨルさん』
少し遅れて、もう一通。
『あなたは、まだ救う側にいてください』
湊は画面を見た。
返事はしなかった。
救う側。
その言葉が、ひどく遠かった。
自分は今、どちら側にいるのか。
声を出す側か。
黙らせる側か。
誰かの名前を守る側か。
誰かの名前を使う側か。
湊には、もう分からなかった。
代わりに、配信アプリを閉じた。
黒い画面が消える。
個室の白い壁が映った。
そこに、自分の顔は映らない。
映らないのに、見られている気がした。




