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サイレントライン ―その声は、誰を救ったのか―  作者: スドタケ


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10/20

第10話 妹の名前

榊の配信は、始まらなかった。


正確には、始まってすぐに止まった。


待機画面が切り替わり、榊が映った。


いつもの白い壁。


棚に並んだ本。


正義という言葉が好きそうな、清潔すぎる部屋。


榊は笑っていた。


「どうも、榊です。今日は予定を変えます」


コメント欄が流れる。


> え


> ヨルの話は?


> 逃げた?


> 何があった


> 顔色悪くない?


榊は目を伏せた。


笑っているのに、目だけが笑っていなかった。


昨日の榊なら、ここで一度ためを作ったはずだ。


視聴者の不安を煽り、少し笑い、もう一段深いところへ連れていく。


そういう話し方をする人間だった。


でも、今の榊は違った。


言葉を選んでいる。


選んでいるというより、選ばされている。


「本日の配信は中止します。今後の活動についても、しばらく休止します」


湊は画面を見たまま動けなかった。


榊の声は、昨日までと違っていた。


大きくない。


笑っていない。


誰かに喉元を押さえられているみたいな声だった。


「理由については、今は話せません。いろいろ確認が必要です。関係者の方々には、軽率な発信をしたことをお詫びします」


軽率な発信。


その言葉だけでは足りない。


でも、それ以上言わせない何かがある。


コメント欄は荒れていた。


> 脅された?


> ヨル怖


> 何か知ってるの?


> 榊さん大丈夫?


> 消されるの?


> 誰か後ろにいる?


榊はコメントを見ていないようだった。


一度だけ、画面の端へ視線が揺れた。


そこに誰かがいるのではない。


見えてはいけないものを、画面の外に置いている。


湊には、そう見えた。


「今回の件で、個人の生活に関わる情報を扱おうとしていたことについても、反省しています」


榊はそこで一度、息を止めた。


「相手が誰であっても、守られるべき人がいることを、軽く見ていました」


守られるべき人。


湊の指が、机の端を押した。


榊の言葉は謝罪に聞こえる。


でも、その奥に別のものがある。


何を守らされたのか。


誰を守るために黙ったのか。


その答えだけが、画面には映らない。


「……本当は、僕が一番分かっていなければいけないことでした」


湊は、その一言で手を止めた。


榊は知っている。


名前を出される側の痛みを。


関係のない家族が、画面の向こうで消費される怖さを。


それでも、やろうとしていた。


だから止まった。


止められた。


「すみません」


最後にそう言って、配信は切れた。


画面には、終了しました、の表示が残った。


湊は椅子に座ったまま、しばらく何もできなかった。


安堵が先に来た。


それが嫌だった。


屋上の少女も、青い傘も、夜泣きも、これ以上は晒されずに済む。


ヨルの正体にも、今すぐは届かない。


助かった。


そう思った直後、胃の奥が重くなった。


どうやって止まったのか。


誰が止めたのか。


そこを見ないまま安心している。


スマホが震えた。


ほどけない糸からだった。


『止まりました』


湊は返信欄を開く。


『何をしたんですか』


打って、消さなかった。


送信。


既読は、すぐについた。


返事は少し遅れた。


『見せただけです』


湊は画面を見つめた。


『何を』


既読。


返事は来なかった。


湊はもう一度打とうとして、指を止めた。


聞いたら、答えが返ってくる。


そう思った。


でも、今回は聞かない方が怖かった。


『何を見せたんですか』


送る。


既読。


しばらくして、短い文が返ってきた。


『榊さんが、守りたかったものです』


湊はスマホを握った。


指が痛い。


『それは、誰かの個人情報ですか』


返事はなかった。


沈黙が、そのまま答えになった。


湊はさらに打った。


『名前ですか』


送信。


既読。


返事は来ない。


湊の喉が鳴った。


誰の名前か。


聞かなくても、分かってしまう気がした。


榊が配信の最後で言った言葉。


守られるべき人。


生活に関わる情報。


軽く見ていた。


それらが一つの場所へ集まっていく。


『家族の名前ですか』


送ってから、湊はすぐに後悔した。


文字にした瞬間、榊が守ろうとしていた誰かに指を伸ばした気がした。


自分はまだ、その人の名前も、榊にとってどんな相手なのかも知らない。


知らないのに、そこへ指を伸ばしている。


ほどけない糸から、短い返事が来た。


『妹さんです』


湊は画面を見つめた。


続けて、もう一通届く。


『名前、学校、通学路、生活圏』


『昔、晒されかけた時の書き込みの控えもあります』


背中が冷えた。


それは、妹が何かをしたという記録ではなかった。


何もしていない人間を、画面の外から引きずり出すための材料だった。


名前。


学校。


通学路。


生活圏。


それだけで、人は黙る。


榊は、その怖さを知っていた。


知っていたのに、今度は別の誰かに同じことをしようとしていた。


ほどけない糸は、そこを突いた。


正しいところを突いている。


たぶん、榊には刺さった。


でも、それは救いではない。


弱いところを、正しい言葉で押しただけだ。


『それを脅しと言います』


湊は送った。


既読。


返事は来ない。


湊はさらに打った。


『正しいことを言って黙らせても、やっていることは同じです』


送信。


今度は、しばらく既読もつかなかった。



◇ ◇ ◇



ミソラに連絡したのは、そのあとだった。


『榊の件で、何か知っていますか』


既読はすぐについた。


返事は少し遅い。


『配信が中止になったことだけです』


湊は画面を見つめた。


『ほどけない糸さんが、榊さんを止めるために何かを見せたようです』


送る前に、指が止まる。


告げ口のように見えた。


でも、そういう問題ではない。


送信した。


ミソラの返事は、さらに遅れた。


『何か、とは』


湊は息を吐いた。


『榊さんの妹さんを特定できる情報を見せたようです』


打ってから、数秒だけ迷い、続けた。


『名前、学校、通学路、生活圏です』


『昔、晒されかけた時の書き込みの控えもあるようでした』


送信。


既読。


しばらく返事が来なかった。


駅の外で、雨が降り始めている。


窓のない個室なのに、湊には雨の音が聞こえる気がした。


ミソラから返事が来た。


『夜明けノートに、榊さんの妹さんに関する情報はありません』


一文。


それだけだった。


湊はすぐに返した。


『本当に?』


既読。


『少なくとも、私の管理画面では見えません』


私の管理画面。


その言い方に、湊の指が止まった。


『他の人は?』


既読。


返事は来なかった。


湊は画面を見つめたまま待った。


一分。


二分。


短い時間のはずなのに、呼吸が浅くなる。


ミソラは、すぐ答えられない。


それはつまり、見える人がいるということなのか。


見えるかもしれない人がいるということなのか。


数分後、ミソラから別の文が届いた。


『真鍋さんに確認します』


湊はその文を見つめた。


真鍋。


また、その名前。


記録。


動線。


外部支援。


全部が少しずつ同じ場所へ寄っていく。


湊は真鍋との通話履歴を開いた。


番号は残っていない。


ミソラ経由の通話だったからだ。


残っているのは、短いメッセージだけ。


『結果としては良かったと思います』


湊はその文を見て、吐き気に近いものを感じスマホを伏せた。


結果として。


便利な言葉だと思った。


途中を見なくて済む。


何を使ったのか。


誰の名前が、誰かを黙らせるために差し出されたのか。


それを、最後の一枚で隠せる。



◇ ◇ ◇



その時、伏せていたスマホが震えた。


ほどけない糸とのDMに、ようやく既読がついていた。


湊が送った文が、画面に残っている。


『正しいことを言って黙らせても、やっていることは同じです』


その下に、新しい返信があった。


『榊さん本人にだけ見せました』


湊は返信しなかった。


続けて、もう一通届く。


『止めるためです』


見せただけ。


消しただけ。


止めただけ。


その言い方は、いつも少しだけきれいだった。


湊は返した。


『それで相手が止まると分かって見せたなら、脅しです』


既読。


すぐには返ってこない。


個室の換気扇が低い音を立てている。


隣の部屋で、誰かが小さく咳をした。


ほどけない糸から返事が来た。


『榊さんは、ヨルさんを傷つけようとしていました』


少し遅れて、もう一通。


『あの人たちのことも』


あの人たち。


湊はその言葉で、顔を知らない人たちを思い浮かべた。


屋上の少女。


青い傘。


夜泣き。


画面の向こうで、名前を隠したまま助けを求めてきた人たち。


そこに、雨の日の少女の横顔も混ざりかけた。


コンビニの庇の端で、男の足音に身を固くした肩。


夜に配信してますか、と聞いた声。


それらが、今になって引っかかっていた。


でも、ほどけない糸の文は続いた。


『名前が出たら、戻れなくなる人がいます』


その通りだった。


名前が出たら、戻れなくなる人がいる。


だからこそ、名前を出してはいけない。


だからこそ、名前を握ってはいけない。


『だから、榊さんにも分かってもらいました』


分かってもらいました。


やわらかい言葉だった。


中身は違う。


『誰かを守るために、別の誰かの弱いところを使わないでください』


湊は送った。


既読。


返事は来ない。


湊は画面を置いた。


それで終わりにしたかった。


でも、終わらない。


スマホがまた震えた。


今度は、ほどけない糸ではなかった。


真鍋からだった。


どうやって直接届いたのか、一瞬分からなかった。


表示名は、明け方の家。


『榊さんの件について、ミソラさんから確認を受けました』


続けて届く。


『こちらの記録管理について、確認中です』


記録管理。


文字だけで胃が重くなる。


湊は返信欄を開いた。


『記録は、誰が見られるんですか』


送信。


しばらくして、真鍋から返事が来た。


『原則として、関係者のみです』


原則。


また便利な言葉だった。


『ほどけない糸さんは関係者ですか』


既読。


返事は少し遅れた。


『夜明けノート側の整理協力者として、一部情報の確認をお願いすることはあります』


湊はスマホを持つ手に力を入れた。


『一部とは』


既読。


返事は来ない。


来ない時間が、そのまま答えになっていく。


湊はさらに打った。


『榊さんの妹さんの情報は、どこから出たんですか』


送信。


既読。


長い沈黙。


換気扇の音が、やけに大きく聞こえた。


真鍋から返事が来た。


『その件については確認中です』


確認中。


否定ではなかった。


湊は画面を閉じた。


閉じても、文字は残る。


原則。


一部。


確認中。


どれも、責任を少しだけ遠ざける言葉だった。



◇ ◇ ◇



夜は、配信しなかった。


待機画面は開いた。


でも、開始は押せなかった。


黒い画面のまま、何分も見ていた。


声を出せば、誰かが来る。


声を出さなければ、誰かは来ない。


それだけのことなのに、指が動かない。


湊はヘッドセットを机の端へ押した。


スマホの録音アプリを開く。


昨日の音声メモが、まだ残っている。


『守りたいものがある人間は、黙る』


再生はしなかった。


文字だけで十分だった。


その音声は、自分の中から出た。


出たことを、自分は覚えていない。


しかも、それはただ残っていたわけではない。


誰かに送るための形で残されていた。


ほどけない糸に。


送ったのか。


送る前に止まったのか。


湊には分からない。


でも、榊は止まった。


ほどけない糸は、止めた。


その二つが並んでいる以上、無関係だとは言えなかった。


湊は録音ファイルの詳細をもう一度開いた。


共有の履歴。


送信先の候補。


ほどけない糸の名前。


それだけで十分だった。


十分なのに、足りない。


本当に送ったのか。


聞いたのか。


その声を聞いたから、ほどけない糸は動いたのか。


それとも、動いたのはもっと前からなのか。


分からない。


分からないことが、少しずつ自分の形を削っていく。


榊は止まった。


救われた人たちは、たぶん守られた。


ヨルの正体も、まだ表に出ていない。


いいことだけを拾えば、結果は悪くない。


でも、その結果の下に、誰かの名前が敷かれている。


榊の妹。


夜泣きの子ども。


青い傘の加害者の妹。


何度も、妹という言葉が出てくる。


守るはずのものが、いつの間にか盾にされている。


名前は、ただの文字ではない。


名前は、その人へ続く入口になる。


守るために伏せることもできる。


黙らせるために握ることもできる。


同じ名前が、救命具にも刃にもなる。


湊はそれを知っていたはずだった。


配信で、何度も言ってきた。


ここに名前を書かないでください。


個人が分かることは出さないでください。


広げないでください。


その言葉を、自分は何度も使ってきた。


なのに、自分の中から出た声は、別のことを言った。


守りたいものがある人間は、黙る。


湊は両手で顔を覆った。


声が出なかった。


泣いているわけではない。


でも、息の仕方が少し分からなかった。


スマホが震えた。


ほどけない糸からだった。


『ヨルさん』


少し遅れて、もう一通。


『あなたは、まだ救う側にいてください』


湊は画面を見た。


返事はしなかった。


救う側。


その言葉が、ひどく遠かった。


自分は今、どちら側にいるのか。


声を出す側か。


黙らせる側か。


誰かの名前を守る側か。


誰かの名前を使う側か。


湊には、もう分からなかった。


代わりに、配信アプリを閉じた。


黒い画面が消える。


個室の白い壁が映った。


そこに、自分の顔は映らない。


映らないのに、見られている気がした。

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