第九話 明日への前夜
雨は、夜半過ぎに本降りになった。
廃屋の屋根を叩く音を聞きながら、エリアーナはノートを最終確認していた。起動術式、全ての工程、暴走防止機構の動作条件。何度も読み返した箇所を、もう一度だけなぞる。
間違いはない。
はずだった。
それでも手が止まらないのは、確認しているのが術式ではなく、自分自身の覚悟のような気がした。
八年と三ヶ月。
誰にも理解されなかった研究が、明日、初めて現実の形を取る。
失敗したら。
その可能性が、頭の片隅をかすめた。術式の解釈を誤っていたら。暴走防止機構が正しく機能しなかったら。レオやエミールを危険に晒すことになったら。
エリアーナはノートを閉じた。
今さら考えても仕方がない。やれることは全部やった。あとは、信じるしかない。
八年間、ずっとそうしてきたように。
◇
外套を羽織って廃屋の外に出ると、エミールが軒下に立っていた。
雨宿りをしているにしては、傘も持たず、ただ降る雨を見ていた。
「眠れないんですか」
声をかけると、エミールは少し驚いたようにこちらを見た。
「あなたも」
「同じです」
エリアーナは隣に立った。雨音が、二人の間の沈黙を埋めていた。
「怖いですか」
唐突に、エミールが聞いた。
エリアーナは少し考えた。
「怖い、というより」
言葉を探した。
「楽しみで、怖くて、両方です。たぶん、どちらか片方だけということは、ないんだと思います。本当に大事なものに向かうときは」
エミールは何も言わなかった。ただ、雨を見ていた目を、少しだけエリアーナの方へ向けた。
「エミールは」
「私は」
短い沈黙があった。
「私には、よく分かりません。怖いという感覚に、あまり馴染みがないので」
「そうなんですか」
「ほとんどのことは、結果が予測できました。予測できないことに、これまで出会ったことがなかった」
エリアーナは少し驚いて、隣の横顔を見た。
「今は?」
「……今は、分かりません」
その答えに、何か含みがあるように聞こえたが、エリアーナは追及しなかった。雨が、少しずつ弱まっていくのを、二人並んで聞いていた。
◇
夜が明ける頃には、雨は止んでいた。
雲の切れ間から、朝の光が差し込んでいた。
「いい天気になりましたね」
エリアーナが空を見上げて言った。
「ええ」
とエミールは答えたが、彼が見ていたのは空ではなかった。
朝日を受けて、エリアーナの銀色の髪がわずかに光っていた。寝不足のはずなのに、目だけは、これまで見たどの朝よりも澄んでいた。
今日、この目が何を見るのか。
エミールは、それを誰よりも近くで見届けたいと思っていた。
◇
日が高くなる前に、レオが息を切らして駆けてきた。
「魔女様! 今日だよな!」
「今日です」
「俺も行く!」
「もちろんです」
三人は、いつもの道を歩いた。森の奥へ、ゴーレムの眠る場所へ。
道中、誰もあまり話さなかった。レオでさえ、いつもの軽口を控えていた。空気の中に、何か特別なものが満ちているのを、十歳の少年も感じ取っているようだった。
開けた場所に出ると、ゴーレムは昨日と変わらない姿で、そこに立っていた。うつむいた頭部、苔の生えた肩、刻まれた紋様。だが今日は、その紋様にどんな光が灯るのか、三人とも知っていた。
エリアーナは、ゆっくりとゴーレムの前に立った。
胸部の装甲に、そっと手を当てる。
「……いきます」
声に、震えはなかった。
覚悟だけが、その声に乗っていた。
レオが息を呑む音がした。エミールは一歩、前に出た。
エリアーナが、両手を胸部の紋様に添えた。
古代語の最初の一節が、静かな森に響き始めた。




