第十話 巨人、立つ
古代語の術式が、森に流れ続けていた。
エリアーナの声は、最初の一節から最後まで、一度も揺れなかった。八年と三ヶ月、頭の中で何度も組み立て直してきた言葉が、今やっと正しい順番で、正しい相手に届けられている。そんな声だった。
胸部の紋様が、淡く光り始めた。
光は最初、本当にかすかだった。見間違いかと思うほどの輝きが、術式の進行と共に、少しずつ強くなっていく。
レオが息を呑んだ。
「……動いて、る」
光は胴体から腕へ、腕から指先へ、首から頭部へと、ゆっくり広がっていった。確かめるような速度だった。何百年もの眠りから目覚める者が、最初の一歩を恐る恐る踏み出すような。
エミールは、その光をほとんど見ていなかった。
視線は、ずっとエリアーナの横顔に向いていた。
彼女の目が、見開かれていく。唇が、わずかに震えている。両手は胸部の紋様に添えられたまま、指先まで力が入っているのが分かった。
起動の最終段階が近づいていた。
エミールには分かっていた。ここまでの工程は、全て正しく進んでいる。失敗する要素は、もうほとんど残されていない。
それでもエリアーナの表情からは、確信よりも、祈りに近いものが滲んでいた。
頭部が、動いた。
うつむいていた顔が、ゆっくりと上を向く。
両腕が、地面から持ち上がっていく。
そして。
五メートルの巨体が、静かに、立ち上がった。
◇
木々が揺れた。地面が、わずかに震えた。
レオが「うわっ」と声を上げて、後ろに尻もちをついた。
ゴーレムは、ゆっくりと首を巡らせて、周囲を見回した。視線が、エリアーナの上で止まった。
目が、柔らかい光を帯びた。
次の瞬間、巨人はゆっくりと片膝をついた。明らかに、礼の仕草だった。
「……起動者への認識、完了」
低い、古代語の声が響いた。
エリアーナは、しばらく動かなかった。
ゴーレムを見上げたまま、口元が、わなわなと震えていた。何かを言おうとして、声にならない。両手が、胸の前で、何かを抱きしめるように握りしめられていた。
そして。
「――うわあああああああ!!」
森中に響き渡るような声が、はじけた。
エリアーナは両手を天に突き上げ、その場で跳ねるように飛び上がった。何度も、何度も。涙が、頬を伝っていた。喜びなのか、安堵なのか、八年分の何かが一気にあふれ出したのか、本人にも判別がついていないようだった。
「動いた、動きました、本当に動いた……!」
声が震えていた。
「八年、八年と三ヶ月、ずっとずっと、誰にも理解されなくて、でも諦めずに、ずっと文献と向き合って、それで、今、ここで、本当に……」
言葉が途中で崩れた。
エリアーナはその場にしゃがみ込んで、両手で顔を覆った。声を殺さずに、泣いていた。
◇
その一部始終を、エミールは、ただ見ていた。
ゴーレムが立ち上がった瞬間も。
巨人が膝をついた瞬間も。
全部、見てはいた。
だが、その全てが、エミールの中では、ただの背景になっていた。
今、自分が見ているのは、たった一人の人間が、八年間ひとりで抱え続けてきたものが、ようやく報われた瞬間だった。
計算では、ない。
予測でも、ない。
たった一人の人間の、純粋な、混じり気のない喜びだった。
エミールはこれまで、多くの「成功」を見てきた。戦の勝利、政治の駆け引きの成立、商談のまとまり。どれも結果としては「成功」だったが、そこに付随する感情には、必ず何かしらの計算や、駆け引きや、次への布石が混じっていた。
純度百パーセントの喜びというものを、エミールは、おそらく今、初めて目の当たりにしていた。
巨人が動いたこと。
それ自体は、確かに偉業だった。七世代前の遺物を、独学の研究者がたった一人の力で蘇らせた。歴史に残してもいいくらいの成果だった。
けれど。
目の前でしゃがみ込んで泣いているエリアーナの顔の方が、エミールにとっては、よほど奇跡だった。
巨人が立つことは、術式が正しければ起こる。物理現象だ。
しかし、この顔は違う。
これは、誰かが、何の見返りもなく、何の計算もなく、ただ純粋に何かを愛し続けた末にしか、たどり着けない顔だった。
再現性のない奇跡だった。
エミールの足が、ゆっくりと、エリアーナの方へ向かっていた。
自分でも、いつ動き出したのか分からなかった。
◇
「エリアーナ」
しゃがみ込んだままの彼女の前に、エミールは膝をついた。
エリアーナが、涙で濡れた顔を上げた。
「……すみません、こんな、取り乱して」
「いえ」
「八年分が、一気に出てきてしまって」
「分かります」
エミールは、自分でも驚くほど、自然にそう言っていた。
分かるはずがない、と少し前の自分なら思っただろう。八年間、誰にも理解されない研究を独学で続けるという感覚を、エミールは経験したことがない。そんなものは、理解の範疇を超えている。
それでも、今は「分かります」という言葉が、嘘ではなく出てきた。
彼女の隣で過ごしたこの数ヶ月で、何かが少しずつ、自分の中に積み重なっていた。
「お疲れ様でした」
エミールは、そう言った。
他に、何を言えばいいのか分からなかった。八年分の重みを、自分の言葉のレパートリーでは、うまく掬い上げられる気がしなかった。
それでもエリアーナは、その短い言葉に、もう一度泣いた。
◇
少し離れた場所で、レオがその様子を見ていた。
ゴーレムよりも、エリアーナの涙よりも、レオの目は、もっと別のものに釘付けになっていた。
膝をついて、彼女と同じ高さで、彼女の顔を見ているエミールの姿だった。
いつもの、皮肉っぽい余裕は、そこになかった。
ただ、彼女のために、何か言葉を探している、それだけの男の顔だった。
レオは、なんとなく、それを見ていられなかった。
目を逸らして、ゴーレムを見上げた。
巨人は、まだ片膝をついたままだった。エリアーナが立ち上がるのを、静かに待っているようだった。
「……すげえな」
レオは、誰にともなく呟いた。
ゴーレムに向けた言葉なのか、それとも別の何かに向けた言葉なのか、レオ自身にも、よく分からなかった。
◇
涙が止まった頃、エリアーナはゆっくりと立ち上がった。
目元はまだ赤かったが、表情には、晴れやかな光が戻っていた。
「ありがとうございます、二人とも」
「俺は何もしてないけど」とレオが言った。
「素材を集めてくれました。それに、ずっとそばにいてくれました」
「……まあ、それくらいなら」
レオは照れたように頭をかいた。
エリアーナは、エミールの方を見た。
「エミールも、ありがとうございます」
「私も、特には」
「材料の調達がなければ、今日はありませんでした」
「……役に立てたなら、良かったです」
エミールは、それだけ言った。
本当はもっと、何か言いたいことがあった気がした。だが、それを言葉にする方法を、まだ持っていなかった。
ゴーレムが、ゆっくりと立ち上がった。
五メートルの巨体が、もう一度、三人を見下ろした。
「畑へ、案内していただけますか」
古代語の問いかけに、エリアーナは涙の跡が残る顔のまま、笑った。
「はい。案内します」
森の外へ向かって、四人――三人と一体の巨人が、歩き始めた。




