第七話 天才、徹夜する
エミールが「材料を探してきます」と言って森を発った翌日から、エリアーナはいつも通り研究を続けた。
いつも通り、というのは語弊があるかもしれない。明らかに、いつもより根を詰めていた。
「魔女様、飯食ったか」
「食べました」
「いつ」
「……昨日の昼」
「食ってないじゃないか!」
レオが毎日通ってきて、食事の世話を焼くようになったのは、この頃からだった。なぜそんなことになったのか、エリアーナにもよく分からない。ただレオが「俺が来ないと死ぬだろこれ」と言い張るので、「そこまでは」と答えると、「絶対そうなる」と返された。実際、三日目の朝に気を失いかけたので、反論はできなかった。
「ちゃんと食べないと研究できないだろ」
「それは正しいです」
「じゃあ食え」
「分かりました」
パンをかじりながら、エリアーナはゴーレムの設計図を睨み続けた。部品の欠損箇所を一つひとつ確認し、複製に必要な工程を書き出していく。中枢部品の術式についても、解読できる範囲から少しずつ手をつけていた。
「眼鏡のやつ、どこ行ったんだ」
レオがゴーレムの足元――というのはまだ正確には森の奥まで行かないと見られないのだが、廃屋でも口癖のように聞いてきた。
「材料を探しに行っています」
「どこへ」
「遠くだそうです」
「ふうん」レオは少し考えてから言った。「魔女様、心配じゃないのか」
「心配というより」
エリアーナは少し考えた。
「戻ってくると思っています」
「なんで」
「あの人は、口にしたことを途中でやめない人だと思うので」
レオは「なんだそれ」と言ったが、エリアーナにもうまく説明できなかった。ただ、「材料の調達、当てがあるかもしれません」と言ったときのエミールの目には、これまで見たことのない真剣さがあった。それだけは確かだった。
だから待てる、とエリアーナは思っていた。
◇ ◇ ◇
王都エルシオンの王宮は、夜になると静かになる。
衛兵の足音、遠くの時計塔、風が石の廊下を抜ける音。それ以外は何もない。だからエミール・フォン・グランヴェルは夜に動くのが好きだった。昼間の王宮は騒がしすぎた。会議があり、謁見があり、兄への報告があり、大臣たちの思惑があった。全部、とうの昔に読めるものばかりだった。
「殿下、そろそろお戻りを」
「もう少し」
「夜明けまであと二時間しかございません」
「分かっている」
背後に控える従者に答えながら、エミールは禁書庫の棚をなぞった。
エミール・フォン・グランヴェル。アルテシア王国の第二王子。二十歳。
兄である第一王子が次代の王位を継ぐことは決まっているので、エミールには政治的な義務が少ない。少ない代わりに、特に何もなかった。生まれてからずっと、何もなかった。
頭は良かった。それは事実だった。
文献は読めば理解できた。言語は聞けば習得できた。数式は見れば解けた。人間は観察すれば行動が予測できた。世界は広いと言うが、エミールには早くから、どこへ行っても同じに見えた。解き終わったパズルが増えていくだけで、新しいパズルなどというものは、ずっと出てこなかった。
だから暇だった。
その暇つぶしのひとつとして、森の廃屋に通い始めた。最初はそのつもりだった。
今は違う。
「……あった」
棚の奥に、目当ての文献を見つけた。動力核の補助機構に使われている合金の成分記録だ。引き抜いて頁を開く。古代語で記された記録が並んでいる。エミールはざっと視線を走らせ、必要な情報を頭に入れた。
三分で終わった。
従者が「お調べになりましたか」と言うのが聞こえた。
「ええ」
「では参りましょう」
「……もう少し」
「殿下?」
エミールは文献を閉じて、棚に戻した。
それからなぜか、別の棚に向かった。古代農業文明の総覧が収められた区画だった。エリアーナが八年かけて独学で解読したのと、同じ時代の資料群だ。
手に取る。頁をめくる。
十分もかからずに内容を把握できた。エミールには常にそうだった。他者が年単位でかける作業を、彼は週単位でこなせる。それは事実だし、誰かに誇るようなことでもなかった。ただそういう頭の仕組みに生まれた、それだけのことだった。
問題は、それを分かった上で、なぜ今もここで頁をめくり続けているのか、だった。
必要な情報はもう得た。
帰れる。
なのに手が止まらなかった。
頭の中に、昨日の光景が浮かんだ。ゴーレムを見上げて「うわあああああ!!」と叫んだ、あの顔。部品の欠損が分かった瞬間も、諦めではなく、次の問いに頭を切り替えていた、あの目。
あの目をもう一度見るためなら、夜通し棚をめくり続けることくらい、惜しくはなかった。
その事実が、自分でも少し意外だった。
「殿下、今回はどちらまで?」
従者の声で我に返った。
「もう少し調べてから」
「……承知いたしました」
従者は何も言わなかった。長年仕えてきた従者には、全部お見通しだった。ただ口には出さなかった。
◇
二日かけて、エミールは必要な情報のほとんどを集めた。
補助機構と駆動系の材料については、王都の東にある採掘場で調達できることが分かった。財力に物を言わせれば、難しくはない。むしろこの程度の手配は、エミールにとって退屈なほど簡単な作業だった。
問題は中枢部品だった。
複製には、術式の完全な解読と、古代金属の加工技術が必要になる。加工技術については、王宮の工房に当てがあった。腕のいい職人を、密かに動かせばいい。
術式の解読は。
「……彼女なら、できる」
声に出ていたらしく、従者が「はい?」と言った。
「独り言です」
「そうでございますか」
エミールは窓の外を見た。夜明け前の空が、遠くから白くなり始めていた。
国境を越えた先の森で、今頃エリアーナはまだゴーレムの図面を描いているだろうか。レオが食事の管理をしていなければ、飯も忘れているだろうか。
そういえば、と思った。
いつかエリアーナは「ゼロよりいい」と言った。保証がなくても、可能性がゼロよりいいなら動く価値があると言った。
エミールには、その論理が長い間理解できなかった。
しかし今、必要な情報を得た後もなぜか頁をめくり続けていた自分は、それと同じことをしていたのかもしれなかった。
「参りましょう」とエミールは言った。「準備ができたら、また国境の確認に行く」
「かしこまりました」と従者は言った。
口元が少しだけ緩んでいたが、エミールは気づかなかった。
◇ ◇ ◇
エミールが戻ってきたのは、五日ぶりだった。
相変わらず瓶底眼鏡にくたびれた外套。ただ、手に持っているものが違った。いつもの文献一冊ではなく、分厚い書類の束だった。
「おかえりなさい」とエリアーナは言った。
「ただいま」とエミールは言った。
二人とも、それが自然なやり取りであることに気づかなかった。
「これを」
エミールが書類の束を差し出した。エリアーナが受け取って広げると、欠損部品の材料成分一覧と、調達先の候補が綿密にまとめられていた。
「……すごい」
思わず声が出た。
「補助機構と駆動系の材料は、王都の東にある採掘場で手に入ります。中枢部品の複製については」
「術式の解読が要りますね」
「ええ。ですがここに元の設計図の写しが」
「これは……一般的な書店で手に入るものでは、なさそうですね」
「……似たような資料が、遠くの古書店にありました」
エリアーナはしばらくエミールを見た。
それからノートを開いて、書類の内容を書き写し始めた。
「ありがとうございます」
「役に立てましたか」
「非常に」
「……そうですか」
エミールは木箱に腰を下ろした。
エリアーナはノートに向かいながら言った。「五日間どこにいたんですか、本当に」
「材料の調達です」
「遠くの古書店への調達」
「……かなり遠い古書店でした」
「そうですか」
エリアーナはそれ以上聞かなかった。手帳の「意図不明」欄に、今日もまた書き足した。
『エミール、五日で禁書庫レベルの資料を調達。正体、ほぼ確定。でも今は聞かない』
最後に小さく付け足した。
『ゼロより、だいぶいい』
そばで様子を窺っていたレオが、書類の束を覗き込んで、「すげえ量だな」と呟いた。それから疑わしげな目でエミールを見て、「お前、本当にただの学者か」と尋ねた。
「学者です」
「絶対嘘だ」
「事実です」
「魔女様もそう思うだろ」
エリアーナは少し考えてから、「分かりません」と正直に答えた。「ただ、害はないので、今は気にしていません」
レオは納得いかない顔をしたが、それ以上は追及しなかった。代わりに、書類の山から欠損部品の一覧を手に取って、「俺も手伝う」と言った。
「材料の運搬なら、村の大人たちにも頼めます」
「俺が指揮を執る」
「指揮、ですか」
「子供だからって舐めるなよ」
エリアーナは小さく笑った。「分かりました。お願いします」
レオは満足げに頷いて、村へ駆けていった。
残された廃屋で、エリアーナとエミールは、しばらく無言で書類を整理し続けた。
夕暮れの光が、窓から差し込んでいた。




