第五話 退屈な天才の観察日記
エミール・フォン・グランヴェルには、最近気に食わないものがひとつあった。
十歳の少年だった。
「魔女様、これも採れたぞ」
レオと名乗るその少年は、今日も森から駆け戻ってきて、エリアーナの前に得意げに素材の包みを置いた。
「ありがとうございます。これは……薬草の根ですね、状態もいい」
「だろ」
エリアーナの顔が、わずかにほころんだ。レオは満足そうに胸を張った。
それを見ているだけで、エミールの中の何かが、わずかに引っかかった。
なぜだろう、と思った。
考えてみても、理由が出てこなかった。これまでエミールにとって「分からないこと」はほとんど存在しなかった。世界は大抵、観察すれば理解できた。人間の行動には大抵パターンがあり、感情には大抵原因があり、原因を特定すれば対処法も見えた。
だが今、自分の中に芽生えているこの「引っかかり」には、原因が見当たらなかった。
レオが何か悪いことをしたわけではない。むしろ純粋に、エリアーナの研究を手伝っている。素材の知識も、森の地理についての知識も、エミールよりレオの方が詳しいことが多々あった。能力的に劣っているわけでもない、年相応の優秀な少年だ。
それなのに、レオがエリアーナのそばで笑っているのを見ると、エミールの中で何かが小さく軋んだ。
「気に食わない」
というのが、今のところ一番近い表現だった。
ただし、なぜ気に食わないのかは、依然として分からなかった。
◇
エリアーナは今日も、エミールには理解できないことをしていた。
古代語の解読中、突然手を止めて「ああ!」と声を上げる。何か新しい発見があったのだろう。それからノートに猛烈な速さで書き込み始め、独り言が止まらなくなる。途中、自分が独り言を言っていることにすら気づいていない様子だった。
「この語尾変化、東方文献の用例と一致する、ということは交易があった証拠で、だとすると経済構造の記述も再解釈の余地が……」
誰に向けて話しているのかも定かではない。エミール自身、内容の半分も理解できていなかった。古代語の専門知識については、エミールはあくまで「広く浅く」だ。これほど深く沈み込んだ知識は持ち合わせていない。
けれど。
エリアーナの目を見ていると、不思議な感覚があった。
あの目は、何かを見つけたとき、本当に輝く。比喩ではなく、物理的にそう見える。瞳の奥に灯った何かが、周りの空気ごと変えてしまうような輝き方をする。
エミールはこれまで、たくさんの人間の目を見てきた。野心に燃える目、計算する目、媚びる目、怯える目。どれも理解できた。理解できるということは、対処できるということで、対処できるということは、退屈だということだった。
エリアーナの目は、エミールの知っているどの種類にも当てはまらなかった。
「楽しそうですね」
気づけば、声に出していた。
エリアーナが顔を上げた。「え?」
「いえ。何でもありません」
エリアーナはまた手元に視線を戻した。エミールはそれを横目で見ながら、自分が口にした言葉の意味を、自分自身に問い直した。
楽しそう。
それの何が、自分にとって重要なのか。
分からなかった。
分からないということが、ひどく久しぶりだった。
◇
昼過ぎ、レオがまた現れた。
「魔女様、これ見ろよ」
レオが持ってきたのは、森で見つけたという奇妙な形の木の実だった。エリアーナは目を輝かせて受け取り、表面の模様を観察し始めた。
「これは……外側の繊維の編み込み方が自然のものとは思えません。誰かが手を加えていますね。となると、ここに古代の植物加工技術が……」
「すごいだろ、俺、こういうの見つけるの得意なんだ」
「とても助かります」
レオが満足そうに笑った。エリアーナも笑った。
その光景を見ながら、エミールはまた、あの引っかかりを感じた。
今度はもう少し、輪郭がはっきりしていた。
自分はレオに対して、何かを「奪われている」と感じている。
奪われている、というのは正確ではないかもしれない。エリアーナの注意、エリアーナの笑顔、エリアーナの「ありがとうございます」という言葉――それらが、自分以外の誰かに向けられることに対して、エミールの中の何かが反応していた。
馬鹿げている、と思った。
エリアーナの注意がどこに向くかは、エミールには関係のないことだ。研究のパトロンとして関わっているだけで、それ以上の権利はない。レオが彼女の役に立つのなら、それは喜ばしいことであって、エミールが何かを感じる筋合いはない。
論理的には、そうだ。
なのに、レオがエリアーナの隣で笑うたびに、エミールの中の論理は、ほんの少しずつ機能を失っていった。
◇
夕方になって、エミールは自分の中の引っかかりについて、もう少し違う角度から検証を試みることにした。
観察対象は、十歳の少年。観察項目は、彼がエリアーナに向ける態度の特徴。
レオはエリアーナに対して、敬語を使わない。遠慮もない。「魔女様」と呼びながらも、対等な口の利き方をする。命令もする。「ちゃんと食え」「飯食ったか」と、まるで保護者のような物言いをすることもある。
それに対してエリアーナは、特に気にした様子もなく応じる。
エミール自身を振り返ってみる。自分はエリアーナに対して、常に丁寧な言葉を使っている。距離を保っている。観察者としての一線を、意図的に引いている。
その差が、何を意味するのか。
しばらく考えて、エミールはひとつの仮説に行き着いた。
レオはエリアーナに対して、最初から「対象」として近づいていない。
エミールは違う。最初から、彼女を「観察対象」として位置づけて近づいた。今でも、その枠組みを完全には外せていない。
その違いが、二人とエリアーナとの間に生まれる空気の違いを作っているのかもしれなかった。
「……」
仮説は立てられた。だが、その仮説に行き着いたところで、エミールの中の引っかかりは、何ひとつ解消されなかった。
むしろ、別の問いが生まれた。
自分は、レオのような近づき方を、したいと思っているのだろうか。
その問いに答えるのが、エミールには怖かった。
怖い、という感情自体、エミールにとっては久しく感じていなかったものだった。
◇
夜、焚き火の前で、エリアーナがノートに向かっていた。
エミールは少し離れた場所に座って、いつものように文献を開いていた。だが文字は、頭に入ってこなかった。
視線が、何度もエリアーナの方へ流れた。
火に照らされた横顔。鉛筆を持つ手の動き。たまに眉根を寄せて、すぐにまた何かに気づいたようにペンを走らせる、その一連の所作。
もっと見たい、と思った。
自分でも驚くほど、はっきりとそう思った。
もっと、彼女が何を見て、何を考え、何にあれほどの熱を注げるのか、その内側を見てみたい。
これまでエミールが何かに対して抱いてきた興味とは、明らかに種類が違った。文献への興味は、知識を得たいという欲求だった。エリアーナへのこの感情は、知識を得たいというより、彼女という存在そのものの仕組みを、もっと近くで見ていたいという、もっと根の深いものに思えた。
観察対象、という言葉が、自分の中でひどく薄っぺらく感じられた。
「エミール?」
エリアーナの声で、我に返った。
「何か」
「さっきから、ずっとこっちを見ています」
「……すみません」
「いえ。何か用事があるなら」
「特にありません」
「そうですか」
エリアーナはそれ以上追及せず、ノートに戻った。エミールは文献に視線を落としたが、内容はやはり頭に入ってこなかった。
ふと、頭の中に小さな問いが浮かんだ。
自分は、レオのようになりたいのだろうか。
その答えを考えることを、エミールは無意識に避けた。これまでの自分なら、どんな問いも正面から検証してきたはずだった。分からないことがあれば調べ、調べれば大抵は分かった。怖いと思ったことなど、ほとんどなかった。
なのに今だけは、この問いを奥にしまい込みたかった。
検証する側に留まっている限り、何も失わずに済む。観察者の席に座っている限り、安全だった。
自分がその席から、もう半分ほど立ち上がりかけていることに、エミールはまだ気づいていなかった。
◇
そのとき、森の奥からレオが走ってきた。
息を切らして、廃屋の前で立ち止まる。
「魔女様!」
「どうしましたか」
「森の奥で、すごいもの見たんだ!」
「すごいもの?」
「でっかい、鉄の……なんかよく分からないけど、でかかった!」
エリアーナが立ち上がった。ノートが膝から滑り落ちたことにも、気づいていない様子だった。
「どこですか!?」
声が一段、高くなっていた。目が、あの輝きを帯び始めていた。
「明日になったら案内できる、もう暗いから」
「分かりました、では明日の朝一番に。準備をしておきます、計測道具と……」
エリアーナの声は、もう独り言の領域に入っていた。今夜のうちに準備できる道具を頭の中で並べ始めているのが、傍から見ても分かった。
エミールはその様子を、少し離れた場所から見ていた。
また、あの顔をしている。
何かに向かって、何の打算もなく、まっすぐに駆け出していく顔。
怖いほど、まっすぐな顔。
(また、変な顔をしている)
そう思いながら、エミールは自分の口元が、わずかに緩んでいることに気づかなかった。
ただ、もっと見ていたいと思った。
明日、彼女が何を見つけるのか。
その瞬間の顔を、誰よりも近くで見ていたいと、エミールは初めて、はっきりと自覚した。




