第四話 学者ごっこと、ほころび
エミールが廃屋に通い始めて十日が経った頃、エリアーナはある法則に気づいた。
エミールは毎回、必ず文献を持ってくる。
しかしその文献を、実際にはほとんど読んでいない。
「……見ていますよね、こっちを」
ある午後、エリアーナは解読ノートから顔を上げずに言った。
向かいの木箱でエミールが微かに動く気配があった。
「読んでいます」
「ページが三十分変わっていません」
「……熟考しています」
「読めない文字でもありましたか。古代語なら解読しますが」
「結構です」
エリアーナはそれ以上追及するのをやめた。観察されているのは分かっている。理由は分からない。ただし今のところ害はないので、保留にしていた。手帳の「意図不明」欄は、日に日に書き足されていた。
◇
その日の午後遅く、レオがやってきた。
森で集めた素材の入った袋を得意げに抱えて、廃屋に飛び込んで来た。
「魔女様! これ全部あったぞ!」
「ありがとうございます」エリアーナは袋の中身を確認した。「全種類ありますね。よく見つけられました」
「えっへん」
レオは胸を張った。それからエミールに気づいて、即座に目が据わった。
「また来てる」
「また来ています」とエミールは答えた。
「なんで毎日来るんだ」
「研究のパトロンなので」
「俺だって素材集めてる」
「それはそれ、これはこれです」
「なんか感じ悪いな」
「昨日も同じことを言っていましたね」
レオが「ぐ」と詰まった。エリアーナは素材を分類しながら、このやり取りが今日で三日連続だと思った。内容がほぼ同じなのに、両者とも飽きない。これは何かの現象だろうかと、一瞬本気で考えた。
「魔女様、俺のほうが役に立つだろ」
「どちらも役に立っています」
「どっちが上か決めろよ」
「研究に順位はありません」
「じゃあどっちが好きか」
「…………」
エリアーナは手を止めた。
「二択にする必要がないことを二択にするのは、論理的ではありません」
「は?」
「どちらも並行して存在できます。古代語の文法と似ていますね、A語族とB語族が互いを補完するように」
「わかんない」
「要するに、どちらも必要ということです」
レオは納得いかない顔をしたが、それ以上は言わなかった。エミールは文献に目を落としたまま、口元に薄い笑みが浮かんでいたが、エリアーナは気づかなかった。
◇
夕方、事件は起きた。
エリアーナが何週間も解読で行き詰まっていた、ある古代語の一節があった。
単語の意味は分かる。文法構造も分かる。なのに、前後の文脈とどうしても噛み合わない箇所で、エリアーナは何度も何度もノートを書き直していた。
「……駄目だ、また意味が通らない」
独り言が漏れた。
「どの箇所ですか」
エミールが、珍しく先に声をかけてきた。
エリアーナは少し迷ってから、ノートを傾けて見せた。
「この一節です。単語の意味を当てはめると、どう読んでも『太陽が地面の下から降ってくる』になってしまって、文脈に合わない。比喩表現かとも思ったのですが、前後が農業用語で統一されているので……」
エミールはノートを一瞥した。
「逆読みでは」
「……逆読み?」
「この時代の農業文書は、収穫の記録を時間の逆順で書く慣習があったはずです。つまり『地面の下から太陽が降ってくる』ではなく、播種から収穫に至るまでの工程を末尾から記述している。読む方向を逆にすると、意味が通るのでは」
エリアーナは固まった。
それからノートの該当箇所を逆向きに読み始めた。
「……通った」
声が出た。
三週間、詰まっていた一節が、たった三十秒で解けた。
「通りました! 逆読みです、そうか、そういうことか、この農業文書は全部逆で読むと……待ってください、じゃあ四章の記述も……」
エリアーナはノートを猛烈な勢いでめくり始めた。一節が解けると芋づる式に繋がっていく。三週間分の詰まりが一気に解消されていく感触があった。
夢中になって書き続けながら、ふと手が止まった。
「……エミール」
「はい」
「農業文書の逆順記述の慣習、どこで知りましたか」
一拍の間があった。
「以前、似たような文献を読んだことがあって」
「どの文献ですか」
「少し古い資料です」
「どこで読めますか」
「……閲覧が難しい場所にあります」
エリアーナは顔を上げた。エミールはどこか遠くを見るような目をしていた。
「閲覧が難しい、というのは」
「王宮の書庫のような場所です」
「それは一般の学者には入れない場所では」
「…………」
「エミール」
「似たような構造の文献が、別の場所にもある可能性があります」
「それは答えになっていません」
エミールは文献のページを一枚、めくった。
「良かったですね、解読が進んで」
話を変えられた。エリアーナはしばらくエミールの横顔を見てから、手帳を開いた。
『農業文書、逆読み。三週間の詰まり解消。エミール、王宮の書庫を知っている可能性。意図不明欄に追記』
何かが引っかかっていた。ただの学者が、なぜ王宮の書庫を知っているのか。
王宮の書庫に自由に入れるのは、限られた人間だけのはずだ。
◇
一部始終を見ていたレオが、エリアーナが書き物に集中し始めた隙に、エミールのそばに来た。
「お前、なんか怪しい」
小声で言った。
エミールは文献を読んだまま、答えた。
「何が怪しいですか」
「なんか全部知ってる感じがする。学者のくせに」
「学者は物を知っているものでは」
「そういうことじゃない」
レオは細い目でエミールを見た。十歳の直感は、時として大人の論理より鋭い。
「魔女様に変なことしたら、ただじゃおかないから」
「肝に銘じます」
「絶対だぞ」
「ええ」
エミールは、そこで初めて文献から目を上げてレオを見た。
「あなたは」エミールは言った。「彼女の、最初の友人ですね」
レオは一瞬、きょとんとした。
「友達かどうかは知らない。でも魔女様のスープは最初に俺が飲んだ」
「それは誇っていい」
エミールの声に、珍しく皮肉ではない、ただ静かな何かがあった。レオはそれが少し気に入らなかった。気に入らないというより、言い返しにくかった。
「……やっぱりなんか感じ悪い」
「それもいつも言っていますね」
「うるさい」
エリアーナが「レオ、少し静かにしてください、計算が合わない」と言ったので、レオは口を閉じた。エミールは文献に目を戻した。
廃屋の外で、夕暮れの風が木々を揺らした。
◇
エミールが帰った後、レオだけが残った。
エリアーナが計算を終えてノートを閉じると、レオがいつになく真剣な顔をしていた。
「魔女様」
「なんですか」
「あの眼鏡の人、本当に学者か?」
エリアーナは少し考えた。
「……分かりません」
「魔女様もそう思うか」
「思います。でも今のところ、害はないので」
「俺は嫌いだ」
「そうですか」
「でも、魔女様の役に立ってるなら……まあ」
レオは言いかけて、口をつぐんだ。悔しそうな顔をして、それから話を変えた。
「魔女様、森の奥って行ったことあるか」
「あります。素材の採取で何度か」
「俺、この前すごいもの見た気がするんだ」
「すごいもの?」
「でっかい、鉄の……なんかよく分からないけど、でかかった」
エリアーナの手が止まった。
「鉄の、何ですか」
「分からない。もう暗くなりかけてたし、木の陰で半分しか見えなかったし」
「……場所を教えてもらえますか」
エリアーナの声が、一段低くなった。
古代文明の遺物は、大型のものほど深い場所に眠っている傾向がある。「でっかい鉄の何か」という描写が、頭から離れなかった。
「明日、連れて行ってもらえますか」
「おう」とレオは言った。
「ありがとうございます」
エリアーナは手帳を開いて、今日最後の一行を書いた。
『森の奥、大型金属製遺物の可能性。明日確認』
それだけ書いて、それから少しだけ迷って、もう一行付け足した。
『レオ、最初の発見者かもしれない。記録に残す』
本日より連載開始しました。
明日より毎日一話づつ朝7時に更新しますので、よろしくお願いします。




