第三話 魔女様の食卓
翌日、昨日の少年は本当に来た。
しかも三人連れで。
「こいつら、信じなかったんだ」
少年――ようやく名前を聞いたレオは、同じくらいの年頃の子供たちをぞろぞろと引き連れて廃屋の前に立ち、胸を張った。「だから連れてきた」
「……昨日、食べたいだけ食べていきましたよね」
「腹減ってたから」
悪びれない。エリアーナは少し考えてから、まあいいかと思った。食材はまだある。古代文明の調理法には、昨日とは別のレシピも記されていた。試してみたかったのは本当だ。
「待っていてください」
エリアーナが鍋を火にかけると、子供たちが固まった。
「また紫になった」
「毒だろ絶対」
「レオ、本当に食ったのかよ」
「食った。めちゃくちゃうまかった」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
賑やかだった。エリアーナは背中でその声を聞きながら、無心でハーブを刻んだ。こういう、自分に向いていない喧騒は、正面から受け止めると疲れる。でも背中で聞いている分には、不思議と悪くなかった。
王宮では、誰かの声がこんなに近くにあったことはなかった。
「……できました」
振り返ると、子供たちが固唾を呑んでこちらを見ていた。
紫のスープを器によそって差し出すと、三人とも、それぞれ鼻を近づけた。匂いを嗅いだ瞬間に、顔が変わった。
一口飲んで、全員が黙った。
「……うまい」
「なんでこんな色なのに」
「なんか、体があったかくなる」
「もっとくれ」
エリアーナはおかわりをよそいながら、手帳に一行書き足した。
『古代黒豚のスープ、二日目。子供四名、全員完食。調理法の再現性、確認』
◇
その日の夕方、今度は大人がやってきた。
昨日逃げた村人の中の何人かが、こそこそと廃屋の周りをうろうろしていた。子供たちが「うまい」と言って帰ったのを聞きつけたのかもしれない。
エリアーナが目を向けると、全員が一斉に視線を逸らした。
「……食べますか」
しばらく間があって、一番体格の良い男が、恐る恐る近づいてきた。
「その、あの黒い化け物、本当に食えるのか」
「食べられます」
「毒はないか」
「ないです」
「なんで紫なんだ」
「ハーブの成分が反応するためです。味には関係ありません」
男は鍋を覗き込み、深呼吸をして、器を受け取った。
一口飲んで、固まった。
その表情を、エリアーナはじっと観察した。最初は警戒、次に驚き、そして困惑。困惑しているのは、たぶん「こんなに美味しいのに、なぜこんなに見た目が怖いのか」という感情が処理しきれていないからだろう。エリアーナにはよく分かった。自分もはじめて調理したとき、同じ顔をしたと思う。
「……うまい」
男は器を空にして、仲間たちを振り返った。
その後、廃屋の前に村人の小さな行列ができた。
◇
三日が過ぎ、五日が過ぎた。
気がつけば、エリアーナの廃屋には毎日誰かしかが来るようになっていた。
最初は子供たち。次に大人の男たち。やがて老人が来て、女たちが来て、赤ん坊を抱えた母親まで来た。誰もが最初は恐る恐るで、スープの見た目に怯えて、それでも匂いに負けて器を受け取り、飲んで黙った。
「魔女様、今日は何のスープじゃ」
「また古代黒豚です」
「昨日と違う味がするぞ」
「ハーブの配合を変えました。昨日は文献の基本レシピ、今日は応用版です」
「どっちもうまいな」
「それは良かったです」
会話が、少しずつ増えた。
最初は必要なことだけ話していたエリアーナが、いつの間にか古代文明の調理法について語り始め、誰も理解できない用語を並べて熱弁し、我に返って「あ、すみません、話が長くなりました」と赤くなる、という場面が毎日一回は発生するようになった。
「恐ろしい魔女」という噂は、いつの間にか「ご飯の魔女様」に変わっていた。
エリアーナ本人は、そのことに気づいていなかった。
◇
六日目の朝、廃屋の前の木の根元に見知らぬ荷物があった。
麻袋に入った食材と、小さな手紙。
『お約束の件、少し時間がかかりましたが、手配が整いました。近いうちにまた伺います。 エミール』
「……来なくていいですけど」
呟いて、しかしエリアーナは荷物を受け取った。麻袋の中を確認すると、この辺りでは手に入らないはずの希少な保存食と、調理用の道具一式が入っていた。
「……気が利く」
認めたくはないが、事実だった。
手帳の端に、小さく書き留めた。
『エミール、荷物を届ける。資金の手配とは別。意図不明』
◇
その日の午後、エミールは本当にやってきた。
相変わらずの瓶底眼鏡に、くたびれた外套。手には分厚い文献を一冊。どこからどう見ても冴えない学者の格好で、廃屋の前に立っていた。
「先日はどうも」
「……いらっしゃいませ」
エリアーナは微妙な気持ちで出迎えた。歓迎する理由もないが、追い返す理由もない。それに昨日の荷物はありがたかった。
エミールは廃屋に入って、いつもの木箱に腰を下ろし、文献を開いた。
「研究の邪魔はしません。ただの作業場として使わせてもらえれば」
「……どうぞ」
こうしてエミールの廃屋通いが始まった。
特別なことは何もない。エリアーナが古代語の文献を解読し、エミールが自分の文献を読む。たまに「この古代語の語源、どう解釈していますか」と問われて、エリアーナが二時間ほど喋り続けるということが起きた。エミールは途中で口を挟まず、ただ静かに聞いていた。
「……あの、なんでそんな真剣に聞いているんですか」
我に返ったエリアーナが問うと、エミールは少し間を置いてから答えた。
「面白いので」
「古代語の語源の話が?」
「あなたの解釈が」
エリアーナには、その言葉の意味が今ひとつよく分からなかった。
◇
問題が起きたのは、翌日だった。
レオがやってきたのと、エミールが廃屋にいたのが、ほぼ同時だった。
レオは廃屋の入口で足を止め、エミールを見て、目を細めた。
「誰」
「学者です」とエミールは言った。
「なんで魔女様のとこにいるんだ」
「研究の支援者、パトロンです」
「なんでそいつがパトロンなんだ」と、今度はエリアーナに向いた。
「なんとなく」
「なんとなく?」
「資金の手配をしてもらえると言っていたので」
「俺だって手伝えるぞ」
エリアーナは少し考えた。十歳の少年に何が手伝えるかは置いておくとして、この申し出は素直にありがたかった。
「では森で素材を集めてもらえますか。図解を描きます」
「おう!」
レオは即座に胸を張った。それからエミールを見て、「俺の方が役に立つからな」と言った。
エミールは文献から目を上げず、「そうですね」とだけ答えた。
それがまた気に障ったのか、レオは「なんか感じ悪いな」と言い捨てて、素材の図解を受け取るためにエリアーナのそばに寄っていった。
エリアーナはふたりの様子を見比べて、それから図解を描くことに集中した。
自分には関係のない話だと思っていた。
少なくとも、そのときは。
◇
その夜、エミールが帰り際に廃屋の入口で立ち止まった。
「今日のスープ、村人たちが並んでいましたね」
「気づいていたんですか」
「遠くから見ていました」
エリアーナは片付けの手を止めて、エミールを見た。
「誰も最初から並んでいたわけじゃないんです」エリアーナは言った。「最初は怖がって逃げていたのに、今は毎日来る。不思議ですよね、人というのは」
「不思議、ですか」
「ええ。合理的に考えれば、見た目が危険なものには近づかない方がいいはずなのに」
「美味しかったからでしょう」
「それは分かります。でも最初の一口を飲む前から、怖いのに来ていた人もいました。あれは何だったんでしょう」
エミールは少し黙った。
「匂いに引き寄せられたのでは」
「匂い」
「論理より先に、体が動いた。そういうことが、あるんでしょう」
エミールはそれだけ言って、外に出て行った。
エリアーナはしばらく、その言葉を反芻した。
論理より先に、体が動く。
それは自分には、少しだけ分かるような気がした。十八年間、誰にも話せなかった古代文明への熱が、まさしくそういうものだったから。
しかし、なぜエミールがその話をしたのかは、よく分からなかった。
手帳を開いて、エリアーナはまた一行書き加えた。
『エミール、意図不明。ただし観察継続』




