第二話 深淵の魔女、狩りをする
翌朝、目が覚めたとき、廃屋にエミールの姿はなかった。
雨が上がった頃に出て行ったのだろう。木箱の上に、小さな紙切れだけが残されていた。
『資金の手配ができたら、また来ます。 エミール』
几帳面な字だった。感情の起伏がそのまま文字になったような、整然とした字体だった。
「……来なくていいですけど」
エリアーナは紙切れを指でつまんで眺め、それからノートの栞代わりに挟んだ。
気が向いたら来ればいい。来なければ来ないで構わない。どちらでも研究は続けられる。そう思っていた。
思っていたのだが。
「……お腹が空いた」
現実は非情だった。
◇
持ち込んだ保存食は三日分しかなかった。
追放の準備にそれほど時間をかけてもらえなかったのだから、仕方がない。問題は、この「迷わずの森」の周辺には村ひとつあるきりで、追放令嬢がのこのこと食料を買いに行けるかどうかが、エリアーナには分からなかったことだ。
「食料調達。優先度、最高」
手帳に書き込んで、エリアーナは廃屋を出た。
朝の森は静かだった。鳥の声もなく、虫の音もなく、ただ青白い光が木々の間に差し込んでいた。村人が「魔獣が棲む」と恐れるのも、この静けさのせいかもしれない。
エリアーナは深呼吸をして、鞄から一冊の文献を取り出した。
ここ数年で解読を終えた古代語の写本の中に、この地方の動植物について記されたものがあった。内容はかなり詳しく、食用になる植物の見分け方から、魔獣の生態まで丁寧に記してある。
「古代黒豚……」
文献の一節を指でなぞりながら、エリアーナは呟いた。
正式名称は、古代語で「夜を駆ける黒牙の王」。体高は成体で一・五メートル、体重は三百キロを超える。漆黒の剛毛と、鋼のような牙を持つ巨大な猪の一種で、近年この森に多く棲息するとされている。
村人たちが怯えるのは、もっともな話だ。
ただしこの文献によれば、その肉は「神々への捧げ物に用いられるほど上等な味わい」を持ち、適切に処理されれば非常に美味とある。
「食べられる」
エリアーナはぱたんと文献を閉じた。
問題は、どう狩るかだ。体高一・五メートル、体重三百キロの魔獣を、十八歳の令嬢がどう仕留めるか。
鞄の底から、エリアーナはもう一本、細長いナイフを取り出した。柄の部分に古代語の刻印が刻まれた、一見するとただの解読道具に見えるそれを、彼女は真剣な目で眺めた。
超振動ナイフ。古代文明の遺物のひとつで、刃が高速振動することで、通常では切断不可能な素材すら容易に切り裂く。これをエリアーナが持っているのは、五年前に解読した文献の記述を元に廃材から自作したからだ。
研究者の本分は解読と考察だが、たまには実用も悪くない。
「行きましょうか」
エリアーナは文献を読み込んで頭に叩き込んでおいた、古代黒豚が好む水場の方角へと歩き出した。
◇
水場は、廃屋から歩いて二十分ほどの場所にあった。
文献通り、そこに古代黒豚はいた。
……いた、のだが。
「でか」
思わず声が出た。
文献で読んだ通りの数値だったのに、実物を前にすると話が違った。体高一・五メートルというのは、エリアーナの肩よりも高いということで、体重三百キロというのは、ぶつかられたら消し飛ぶということだ。漆黒の剛毛は朝の光を吸い込んで艶光りし、湾曲した牙は三十センチ以上あった。
古代黒豚はゆったりと水を飲んでいた。まだこちらに気づいていない。
エリアーナはゆっくりと呼吸を整えた。
古代語の文献には、狩りの手順も記されていた。まず、特定の古代ハーブを燃やして煙を立てる。古代黒豚はこの煙の成分に含まれる特定の物質に対して過敏に反応し、一時的に動きが鈍くなる。その隙に、急所である首元の皮膚の薄い部分を正確に切断する。
理屈は分かった。
実行できるかどうかは、別の話だ。
「……やるしかない」
エリアーナは腰を落として、鞄から乾燥させた古代ハーブの束を取り出した。火打ち石で火をつけ、煙を風上に流す。
古代黒豚が鼻をひくつかせた。
次の瞬間、巨体がぐらりと揺れた。
「今」
エリアーナは走った。足音を消すのは、王宮で夜中に文献を読みに行くために身につけたスキルだった。古代黒豚が膝をつく瞬間を見極めて、躊躇なく首元に超振動ナイフを当てる。
ぶん、という低い振動音。
それから、静寂。
「……倒れた」
エリアーナは膝が笑っているのを感じながら、その場に立ち尽くした。三百キロの巨体が、音を立てて横倒しになっていた。
文献の内容は、正しかった。
「よし」
小さく拳を握る。これだから古代文明の研究はやめられない。
◇
問題は、そこからだった。
三百キロの古代黒豚を、どうやって廃屋まで運ぶか。
エリアーナが悩んでいると、後ろから声がかかった。
「……何をしているんですか」
振り返れば、木陰に、村人らしき数人の男たちが立っていた。顔が青い。目が点になっている。三百キロの魔獣の前に、十八歳の小娘がひとりで立っているのを見て、何かの冗談だと思ったのかもしれない。
「狩りを」とエリアーナは答えた。「手を貸してもらえますか。重くて運べないので」
男たちは全員、もれなく固まった。
◇
廃屋に戻り、エリアーナは解体作業に取りかかった。
これも文献に手順が書いてある。古代黒豚の肉を美味しく食べるには、内臓を処理した後に特定のハーブで数時間漬け込む必要があるらしい。
「何をするつもりじゃ」
廃屋の入口から、村の年寄りらしき老人が覗いていた。魔獣を狩った令嬢が気になったのか、村人たちが数人、おそるおそる集まってきていた。
「スープを作ります」
「あの黒い化け物を?!」
「文献によると、味は極上とのことです。試してみる価値はあると思いますが」
老人が何か言いかけたとき、鍋に火が入った。
そこから数分後、廃屋の周辺に異変が起きた。
鍋の中身が、紫色に変わったのだ。
正確に言えば、ハーブの成分と肉汁が混ざった瞬間に、スープが深い紫色に変色した。同時に、ドス黒い煙がもうもうと立ち上り始めた。
「毒じゃ!!」
「逃げろ!!」
村人たちが逃げ始めた。
エリアーナはかき混ぜながら、首をかしげた。
文献には確かに「調理の際、煮汁が紫に変色するが問題ない」と書いてある。ただし、文献がこれほど派手な見た目になるとは記していなかった。
「問題ない、はず……」
一方で、漂う香りは本物だった。
肉の旨みが凝縮された、深くて豊かな匂いが、紫の煙と一緒に森中に広がり始めていた。逃げかけた村人の足が、ひとり、またひとりと、止まっていった。
「なんじゃ、この匂い」
老人が、恐る恐る鼻をひくつかせた。
エリアーナは一口、木匙でスープを味見した。
「……文献、正しかった」
呟いた声には、純粋な感動が滲んでいた。
◇
そのとき、村の方角から一人の少年が走ってきた。
十歳くらいだろうか。「お化けが出た」と聞いて、見に来たのかもしれない。
少年は紫色の煙を上げる鍋を一瞥して、それからエリアーナを見た。
「食えんの、それ」
「食べられます」
「うまいの」
「極上です」
少年はまた鍋を見た。紫色のドロドロしたスープが、ぐつぐつと煮えている。
どう見ても毒にしか見えなかった。
それでも少年は、「よこせ」と言った。
エリアーナは器にスープをよそって、差し出した。
少年は一口、飲んだ。
それから動かなくなった。
「……うまい」
ぽつりと、呟いた。
目が、丸くなっていた。もう一口飲んで、また固まった。
「うまい」
「そうでしょう」
「すごいうまい」
「古代文明の調理法ですから」
少年はそのままスープを飲み干し、器をエリアーナに返した。それから照れたように頭をかいて、「また来る」と宣言した。
「どうぞ」とエリアーナは答えた。
少年は走って帰って行った。その後ろ姿を見送りながら、エリアーナは思った。どうやら、ここでの生活はそれほど悪くないかもしれない、と。
空になった鍋を洗いながら、エリアーナは今日の成果を手帳に書き留めた。
『古代黒豚、狩猟成功。調理法、有効。スープ、極上。村人、困惑中』
一行だけ付け加えた。
『◯◯(少年の名前、後で聞く)、気に入った様子』
森の奥で、木の枝が揺れた。
エリアーナは振り返らなかったが、木陰に一瞬だけ見えたランタンの光には、気づかなかった。




