第一話 深淵の魔女、見参
「黒龍よ――」
深夜の森に、凛とした声が響いた。
月明かりだけが差し込む廃屋の中で、漆黒のローブを纏った少女が両腕を天に向かって広げている。銀色の髪がぼさぼさに乱れ、左目には黒い眼帯。しかしローブの裾からはみ出した泥だらけのブーツだけが、なぜかひどく所帯じみていた。
「――深淵の底より、我が呼び声に応えよ……!」
少女の瞳が、暗闇の中でぎらりと光る。
完璧だった。
完璧、のはずだった。
「……何をしているんですか」
背後から、低い声が降ってきた。
少女の動きが、ぴたりと止まった。
振り返れば、廃屋の入口に人影がひとつ。分厚い丸眼鏡をかけた、冴えない風体の青年だ。手に持ったランタンの橙色の光の中で、青年はただ無表情にこちらを見ていた。
目が合った。
沈黙が、たっぷり三秒続いた。
「―――――」
少女の顔が、見る見る耳の先まで赤く染まっていった。
そのことを語るには、少し時間を巻き戻す必要がある。
◇
三日前。王都エルシオン。王宮大舞踏場。
エリアーナ・バーンシュタインはそのとき、完璧な令嬢の顔をしていた。
十八年間、ずっとそうしてきた。公爵令嬢として生まれた瞬間からそれが自分の役目だと分かっていたから、微笑み方も、立ち居振る舞いも、言葉の選び方も、すべて鏡の前で何度も練習した。感情は表に出さない。動揺も、怒りも、悲しみも。
だから今夜も、エリアーナの顔は完璧に穏やかだった。
たとえ王太子殿下が、国中の貴族の前で自分を指差しながら高らかに宣言したとしても。
「エリアーナ・バーンシュタイン。お前との婚約を、ここに破棄する」
シャンデリアの光の下、華やかな衣装に包まれた貴族たちが一斉に息を呑んだ。
エリアーナは深く頭を垂れた。
(……来た!!!!)
膝が震えていた。
ただし、恐怖からではない。
(来たわ来たわ来たわ来たわ! 十八年待ったわよ、この瞬間を!!)
震えるほどの、喜びだった。
王太子はさらに言葉を続けていた。エリアーナが今まで孤独だったこと、友人もいなかったこと、変わり者だということ、まあ要するに王太子妃として相応しくないということを、丁寧に、念入りに、公衆の面前で説明してくれていた。ありがとうございます、と心の中でエリアーナは思った。これだけ理由を並べてもらえれば、こちらが反論する余地もない。
「……謹んで、お受けいたします」
顔を上げたエリアーナの表情は、悲しみをこらえる令嬢のそれだった。十八年間磨き上げた演技は、今この瞬間、存分に発揮されていた。
会場がざわめく中、ひとりも気づいた者はいなかっただろう。
俯いたエリアーナの唇が、かすかに、弧を描いていたことに。
◇
その夜のうちに、お達しが届いた。
追放先は、国境を越えたアルテシア王国の森。名を「迷わずの森」という。古くから不思議な魔獣が棲むと言われており、村人も近づかない場所だ。
「……最高じゃない」
与えられた荷物をまとめながら、エリアーナはぽつりと呟いた。
人が来ない。誰も来ない。干渉されない。王宮での作法も、令嬢としての義務も、王太子妃としての未来も、全部、全部関係ない。
それに、魔獣が出るなら。
古代文明の痕跡が、残っているかもしれない。
エリアーナの瞳が、静かに輝いた。
王宮にいた十八年間、エリアーナには一切の友人がいなかった。話しかけてくれる者もいなかった。それでも孤独を感じなかったのは、ただひとつ、古代文明の研究があったからだ。誰にも理解されない古代語の文献を読み解くとき、誰も使い方を知らない遺物の仕組みを解明するとき、エリアーナは本当に生きていると感じた。
けれど王太子妃として過ごす日々に、そんな時間はほとんどなかった。
それがこれからは、思う存分できる。
「自由だ……」
胸の中で、声にならない言葉が弾けた。
◇
そして三日後の深夜。迷わずの森の外れにあった廃屋に辿り着いたエリアーナは、荷解きをするよりも先に、旅の荷物の底からそっと取り出した布袋の中身を確認した。
漆黒のローブ。黒い眼帯。そして、王宮時代に密かに書き溜めた設定ノート。
エリアーナの頬に、じわりと朱が差した。
これを誰かに見られたことは、一度もない。ただのひとりにも。死んでも見せられないし、見られた瞬間に死ねる自信がある。
しかし、ここには誰もいない。
森には魔獣がいるらしいが、魔獣には見られても問題ない。たぶん。
「……少しくらい、いいわよね」
誰に許可を求めるでもなく、エリアーナはローブを羽織った。眼帯をつけた。胸の前で手を組んで、夜空を見上げた。
これは設定だ。ただの設定。
深淵の魔女エリアーナ・フォン・ダスクとして、古代の呪文を紡ぐだけ。誰も見ていないし、誰にも知られない。
「黒龍よ――」
声が出た。思ったより、よく出た。
「――深淵の底より、我が呼び声に応えよ……!」
「……何をしているんですか」
どこからか、声がした。
◇
三秒の沈黙の後、エリアーナは悟った。
ここに誰かがいる。
ランタンを持った、瓶底眼鏡の、冴えない青年が、廃屋の入口に立っている。
自分は今、漆黒のローブを着て、眼帯をつけて、両手を天に向かって広げて、黒龍を呼んでいた。
「あ」
と、エリアーナは言った。
「あの」
と、続けた。
「これは」
青年は動かなかった。ただ静かに、眼鏡の奥の瞳でこちらを見ていた。まるで珍しい標本でも観察するような目だった。
「…………」
「…………」
三秒の沈黙が、また訪れた。
エリアーナの脳裏に走馬灯のように浮かんだのは、十八年分の真面目に生きてきた記憶だった。
「――――――――ッ」
声にならない悲鳴が、心の中で炸裂した。
◇
青年はその後、廃屋に入ってきた。
招いてもいないのに、勝手に木箱に腰かけて、当然のようにランタンをテーブルに置いた。
「失礼な方ですね」とエリアーナが言えたなら良かったのだが、彼女はまだ顔を両手で覆ったまま、壁際で丸まっていた。恥というのはこういうことだと、生まれて初めて理解した。
「この廃屋を使っているのですか」
青年が問うた。声に感情の起伏がなかった。
エリアーナは指の隙間から、ちらりと相手を見た。
年は二十歳前後だろう。くたびれた外套に、ぼさぼさの黒髪。顔の大半を覆う丸眼鏡の奥の目は、暗くてよく見えない。学者か、あるいは行商人か。魔獣が出ると言われているこの森の近くを、夜中にひとりで歩いている理由が分からなかった。
「……先客です」
絞り出すように、エリアーナは答えた。
「そうですか」
青年はそれだけ言って、懐から一冊の文献を取り出し、読み始めた。
出て行く気が、まったくなかった。
「……出て、行かれないのですか」
「雨が降りそうなので」
見上げれば、廃屋の崩れた天井の隙間から、確かに雲が見えた。
沈黙が落ちた。気まずいを通り越して、ほとんど修行のような静寂だった。
エリアーナはそっとローブを脱いだ。眼帯も外した。それだけで多少、正気を取り戻せた気がした。
「……どちらから来られたのですか」
話さないわけにもいかないので、エリアーナは努めて平静に問うた。
「少し遠くから」
「学者の方、ですか? こんな夜中に」
「まあ、似たようなものです」
青年は文献から目を離さずに答えた。
そのとき、テーブルの上に広げたままになっていたエリアーナの解読ノートに、青年の視線が一瞬だけ止まった。
「……これは」
「見ないでください」
即座に手で覆う。
青年の口元が、かすかに動いた。笑ったのかどうか、眼鏡と暗がりのせいでよく分からなかった。
「古代語ですね」
「見ないでください」
「かなり深いところまで読み込んでいる。独学で?」
「…………見ないでください」
「八年かそこら、かけましたか」
エリアーナは顔を上げた。
青年が初めて、こちらをまっすぐに見ていた。眼鏡の奥の目が、じっとエリアーナの顔を見ていた。
「……どうして分かったのですか」
「ノートの最初の頁と最後の頁で、解読の精度が全然違う。長い年月をかけた独学の蓄積だ。それだけです」
平坦な声だった。褒めているのか、ただ観察結果を述べているのか、判断がつかない口調だった。
エリアーナは少し考えてから、ノートから手を離した。
「……八年と、三ヶ月です」
「なるほど」
青年はもう一度、ノートに目を落とした。今度はエリアーナも止めなかった。
外では、ぽつぽつと雨が降り始めていた。
「私はエミールと言います」
唐突に、青年が名乗った。
「エリアーナです」とエリアーナは答えた。
「研究の、パトロンを探しているとしたら」
青年は文献に目を落としたまま、続けた。
「一枚、噛ませてもらえませんか。資金の工面くらいなら、できますので」
エリアーナはしばらく、相手の横顔を見ていた。
怪しい。どう見ても怪しい。夜中に森の廃屋に現れる瓶底眼鏡の青年が怪しくなかったら、何が怪しいのか分からない。
それでも。
エリアーナの目が、テーブルの上の解読ノートに落ちた。
八年と三ヶ月。誰にも理解されなかった研究。誰にも話せなかった古代語の夢。
「……条件があります」
エリアーナは口を開いた。
「研究の方針には口を出さないこと。成果は私のものであること。それから」
一拍、置いた。
「先ほどのことは、見なかったことにしてください」
青年は二秒ほど沈黙した後、「分かりました」と答えた。
その口元が、確かに、ほんの少しだけ動いた。
エリアーナにはそれが笑みに見えた。しかし青年が眼鏡に手を当てて視線を文献に戻したとき、その表情はもう読み取れなかった。
廃屋の外で、雨音が強くなった。
これが、すべての始まりだった。




