第三十一話 戴冠式、そして彼の笑み
両国の統合が正式に決まるまで、三ヶ月かかった。
貴族院の承認、各領主への説明、新たな法整備の草案。エリアーナは、その全ての過程に関わった。古代文明の研究で培った「前提を疑う」習慣は、既存の制度の矛盾を見つけるのに、思いがけないほど役立った。
エミールは、影に徹した。
表に立つことはなかったが、必要な根回しは全て済ませていた。エリアーナが「これはどうすれば」と言う前に、動いていることが多かった。
シオンは、書類の整理と情報の管理を担った。
マリアは、エリアーナの体調管理を一手に引き受けた。「食事を忘れないでください」という言葉は、一日に最低三回は聞いた。
こうして、新しい国が、少しずつ形になっていった。
◇
戴冠式の朝、エリアーナは鏡の前に立っていた。
侍女たちが、丁寧に髪を整えてくれていた。三ヶ月前に採寸した服の、最も改まった一着を着ていた。
鏡に映る自分を、エリアーナは、少し不思議な気持ちで見ていた。
「似合っていますよ」
背後からマリアが言った。
「……そうでしょうか」
「殿下も、そうおっしゃっていました」
「エミールが?」
「朝、廊下で少しお話しました。『今日は特に似合うと思う』と」
エリアーナは、鏡の中の自分を見た。
頬が、少し赤くなっていた。
「……そうですか」
「準備ができましたら、お呼びします」
マリアは、微笑んで部屋を出た。
◇
式場は、両国の首都の中間に位置する城で行われた。
エルシオン王国とアルテシア王国、それぞれの貴族や重臣たちが集まっていた。エリアーナが入場したとき、広間は静まり返った。
それから、低いざわめきが起きた。
「あれが、エリアーナ嬢か」
「噂には聞いていたが」
「古代ゴーレムを修復したという」
「追放された公爵令嬢が、まさか」
エリアーナは、正面を見て歩いた。
王冠が、頭に載せられる瞬間、エリアーナは一瞬だけ目を閉じた。
廃屋の木箱。紫のスープ。ゴーレムの起動術式。夜明け前の森。
追放されたあの夜には、想像もしなかった場所に、今、立っている。
目を開くと、広間が静かにこちらを見ていた。
隣に、エミールがいた。
正装のエミールを見るのは、初めてだった。瓶底眼鏡も、くたびれた外套も、今日はなかった。アルテシア王国の第二王子として、完全な姿で立っていた。
「緊張していますか」
エミールが、小声で言った。
「しています」
「顔には出ていません」
「十八年間の訓練です」
「……頼もしいですね」
「今更です」
◇
式の途中、エリアーナは、広間の一角に、見知った顔を見つけた。
元・王太子だった。
かつての華やかさはなかった。地味な衣装を纏い、ひっそりと後列に立っていた。目が合うと、ゆっくりと視線を逸らした。
エリアーナは、特別な感情が湧いてくるかと思ったが、そうでもなかった。
ただ、遠い話のように感じた。
「エミール」
「はい」
「元・王太子殿下が来ていますね」
「ええ」
「あなたが招いたんですか」
「……式典の形式上、声をかけた方が良いと判断しました」
「そうですか。気が利きますね」
「……ありがとうございます」
エミールの返答が、わずかに間があった。
エリアーナは特に気にせず、正面に向き直った。
◇
式の最後に、エミールが近づいてきた。
「一つ、お願いがあります」
「何ですか」
「古来の儀礼として、締めの言葉を唱えてもらいたいのですが」
「締めの言葉」
「ええ。この国の記録に残っている、古い儀礼の言葉です」
エミールが、紙を差し出した。
エリアーナは受け取って、目を通した。
「……これ」
「はい」
「これは」
「古代語です」
「古代語なのは分かります。でも、この構文、これは」
エリアーナは、エミールを見た。
「……召喚術式の構文です」
「ええ」
「何を召喚するんですか」
「やってみれば分かります」
「信用できません」
「信用してください」
エリアーナは、紙と、エミールの顔を、交互に見た。
普段なら絶対に疑うところだったが、今日は何故か、エミールの目が、珍しく楽しそうだった。
「……分かりました」
エリアーナは、広間の中央に立った。
深呼吸をして、紙を見ずに、頭に入れていた言葉を口にした。
「黒龍よ――深淵の底より、我が呼び声に応えよ……!」
広間が、静まり返った。
次の瞬間。
城の外から、轟音が響いた。
夜空が、光に満ちた。
色とりどりの光が、次々と打ち上がっていった。赤、青、金、白。古代文明の技術で再現された壮大な花火が、夜空に咲いていった。
広間の窓から、貴族たちが一斉に外を見た。
「なんだ」「すごい」「あれは何の技術だ」
ざわめきが、歓声に変わっていった。
エリアーナは、口を開けたまま、夜空を見上げていた。
「……まさか」
隣に来たエミールが、静かに笑っていた。
「あなたが、最初にあの言葉を口にしたあの夜に、仕込んでいたわけではありませんが」
「いつ仕込んだんですか」
「少し前から」
「なぜ」
「あなたにとって、あの言葉は、ずっと恥ずかしいものだったでしょう。それが今夜、一番美しい場面の合図になりました」
エリアーナは、夜空と、エミールを、交互に見た。
「……性格が悪いです」
「そうかもしれません」
「でも」
「でも?」
エリアーナは、また空を見上げた。
花火が、まだ続いていた。
「……ありがとうございます」
声が、少し掠れていた。
恥ずかしかった夜が、美しい夜に変わっていた。
それが、泣きたいくらい、嬉しかった。
◇
広間の遠い隅で、一人の少年が夜空を見上げていた。
いや、少年ではなかった。
あの頃より背が伸びて、体格も変わっていた。騎士見習いの正装を纏っていた。十歳だったレオは、もう少し大人に近かった。
花火を見ながら、レオは小さく笑った。
「魔女様らしいな」
隣に立つ騎士団の先輩が、「知り合いか」と聞いた。
「まあ、そんなとこです」
レオは、それだけ答えた。
広間の正面で、花火に照らされて笑うエリアーナと、その隣に立つエミールが見えた。
遠かった。でも、幸せそうだった。
それで、十分だった。
◇
式が終わってから、エリアーナはエミールに聞いた。
「元・王太子殿下が来ていましたが」
「ええ」
「本当に、ただの形式上の招待ですか」
「……彼にも、役割があります」
「役割、というのは」
「明日、お話しします」
エリアーナは、今夜だけは、それ以上は聞かなかった。
夜空に、最後の花火が上がった。




