第三十話 国境を越える知らせ
翌朝、エリアーナは書庫に来た。
いつもと変わらない時間に、いつもと変わらない格好で、いつもと変わらない足取りで。
ただ、書庫の入口でエミールと目が合った瞬間だけ、一秒ほど、歩みが止まった。
「おはようございます」
「……おはようございます」
それだけだった。
それだけで、何かが確かに変わっていた。
エリアーナは、何事もなかったように書架に向かった。エミールも、椅子に戻って文献を開いた。
シオンが、お茶を二人分持ってきた。
「おはようございます」
「おはようございます」とエリアーナが答え、エミールは小さく頷いた。
「昨夜は遅くまで起きておられましたね」
二人とも、何も言わなかった。
シオンは、それ以上は何も言わず、静かに書庫を出た。
◇
その朝の平和は、昼前に終わった。
マリアが書庫に来て、「エルシオン王国からの使いが来ています」と言った。
エリアーナの手が止まった。
「正式な使節ですか」
「いいえ。それとは違う方で……バーンシュタイン公爵家の使者だそうです」
エリアーナは、エミールを見た。
エミールは、立ち上がっていた。
「会います」
◇
使者は、若い文官だった。
エルシオン王国の紋章ではなく、バーンシュタイン公爵家の紋章を身につけていた。旅の埃をまとったまま、それでも礼儀正しく頭を下げた。
「エリアーナ嬢にお伝えすることがございます。公爵閣下より、直接の言伝でございます」
「聞きます」
「エルシオン王国の状況が、急速に悪化しております。王太子殿下の政務上の混乱が限界を超え、今年の収穫が大きく落ち込みました。貴族院は正式に不信任を決議し、王太子殿下は事実上の退位を余儀なくされる見通しです」
エリアーナは、黙って聞いていた。
「この状況を受け、アルテシア王国との間で、両国の統合という案が、複数の貴族から提起されています。正式な交渉にはまだ至っていませんが、公爵閣下は、エリアーナ嬢にこの状況をお知らせすることが急務と判断されました」
「……父が、それを」
「はい。閣下は、エリアーナ嬢が今何をされているかをご存じです。その上で、判断はご本人に委ねると」
使者は、一礼して、部屋を出た。
静かになった部屋に、エリアーナとエミールだけが残った。
◇
「知っていましたか」
エリアーナは、エミールに聞いた。
「状況が動いていることは。詳細は、まだ把握していませんでした」
「そうですか」
エリアーナは、窓の外を見た。
王太子が、退位する。
エルシオン王国が、揺れている。
父が、判断をこちらに委ねた。
一つひとつは理解できた。それが全部繋がった先に何があるかも、おぼろげには分かった。ただ、自分がそこに関わるということが、まだ実感を持てなかった。
「エミール」
「はい」
「両国の統合が、本当に起きるとしたら。その先頭に立つのは、アルテシア王国側からは、あなたになるんですか」
エミールは、少し間を置いた。
「その可能性があります」
「……そうですか」
「ただ」
エミールは、エリアーナの方を向いた。
「私は、国を統治することには、興味がありません」
「それは、知っています」
「だから、辞退します」
「でも、あなた以外に」
「あなたがいます」
エリアーナは、エミールを見た。
「……私が」
「あなたの独創性に、新しい国の未来を懸けたいと思っています」
「……意味が」
「分かりにくかったですか」
「分かりにくいです」
エミールは、少し考えてから、もう少し直接的に言い直した。
「私は、国を統治することに向きません。判断を下すことより、答えのない問いを楽しめる人間の方が、新しい国には必要だと思っています」
「……それは」
「あなたです」
「……」
「私は王には向きません。ですが、あなたが立つ国なら、その隣で支えることならできます。もし両国が新しい形になるのなら、その国を託したいのは、あなたです」
エリアーナは、しばらく、何も言えなかった。
昨日、あなたのそばを離れたくないと言った。その言葉は本当だった。
ただ、まさかその翌日に、こういう意味でのそばを問われるとは、思っていなかった。
「……女王」
「はい」
「私が」
「はい」
「元王太子の婚約者で、追放された元公爵令嬢が」
「今は違います。古代ゴーレムを修復し、離宮の書庫を改造し、アルテシア王国の離宮に住んでいる研究者です」
「……それは」
「誰よりも、物事の本質を見ることができる人間だと思っています。政治の正解を出すことより、誰も思いつかない問いを立てることの方が、長い目で見たとき、国を豊かにします」
エリアーナは、しばらく黙っていた。
「……考えさせてください」
「もちろんです」
「すぐには、返事ができません」
「急ぎません」
エリアーナは、また窓の外を見た。
「一つだけ、聞いていいですか」
「何でも」
「女王になっても、研究は続けられますか」
エミールは、少し間を置いた。
「あなたが研究をやめる理由は、何もありません」
「……そうですか」
エリアーナは、小さく息をついた。
「分かりました。考えます」
手帳を取り出して、開いた。
新しいページに、一行書いた。
『女王。検討中』
◇
夜、エリアーナは書庫で一人、天井を見上げていた。
シオンが来た。
「管理者、何かお困りですか」
「困っているというより、整理が追いついていません」
「何を整理されていますか」
「色々と」
シオンは、少し間を置いた。
「エミール様から、本日の話を伺いました」
「……シオンはどう思いますか」
「私には、政治的な判断を評価する機能はありません。ただ」
「ただ?」
「管理者が女王になられた場合、研究環境の整備という観点では、現在より多くの可能性があります。古代文明の調査範囲も、大幅に広がります」
エリアーナは、シオンを見た。
「それは、なってほしいということですか」
「私には感情がありません。ただ、事実として申し上げました」
「そうですか」
エリアーナは、また天井を見た。
「シオン、あなたは、私が何をしても『当然です』と言いますよね」
「管理者の判断を、私が制限する権限はありません」
「エミールは、止めます。反対します。心配します」
「……はい」
「それが、面倒だと思ったことは、あります」
「はい」
「でも、それがなかったら、と考えると」
エリアーナは、少し笑った。
「寂しいと思いました。昨日、気づきました」
シオンは、何も言わなかった。
「おやすみなさい、シオン」
「おやすみなさいませ、管理者」
エリアーナは、手帳を閉じて、書庫を出た。
手帳の新しいページには、もう一行だけ追加されていた。
『女王。検討中』の下に。
『でも、たぶん、やる』




