第二十九話 傷の手当てと、歪んだ告白
エリアーナは、救急箱を持ってきた。
離宮に来てから、薬草の知識を活かして自分なりの応急処置セットを作っていた。古代文明の医療文献から学んだ調合もいくつか加えてある。エミールには過剰だと言われたが、「あって困るものではない」と言い張って置いておいた。
今日、それが役に立った。
「座ってください」
エミールは、大人しく椅子に座った。
保管室の床に腰を下ろして手当てをするわけにもいかないので、場所を上の階の小部屋に移していた。シオンは地下に残り、自己診断を続けていた。マリアは遠巻きに心配そうな顔をしていたが、エリアーナが「大丈夫なので下がっていてください」と言ったので、廊下で待機していた。
二人きりになった。
「腕を見せてください」
エミールが、袖をまくった。
裂傷は、思っていたより深かった。エリアーナは、手当ての手順を頭の中で組み立てながら、丁寧に傷を確認した。
「痛いですか」
「大丈夫です」
「それは答えになっていません」
「……多少は」
「正直に言ってください」
エリアーナは、傷を洗いながら言った。
「これだけのことをしておいて、大丈夫とか問題ないとか、そういうことを言う人だとは思っていませんでした」
「そうですか」
「そうです」
薬草を調合した軟膏を、慎重に塗った。
エミールは、黙っていた。
エリアーナも、しばらく、手元だけを見ていた。
◇
「なぜ、かばったんですか」
包帯を巻きながら、エリアーナは聞いた。
「シオンが振り下ろしたとき、私の前に出てきましたよね」
「あなたが危なかったので」
「間に合わなかった可能性もありました」
「間に合いました」
「でも」
「間に合ったので、問題ありません」
エリアーナは、包帯を巻く手を止めた。
「問題あります」
「エリアーナ」
「問題あります」
エミールは、エリアーナの手元を見ていた。
包帯を持つ手が、わずかに震えていた。
「……怖かったですか」
「怖かったです」
エリアーナは、包帯を巻き続けながら答えた。
「シオンが暴走したことより、あなたが怪我をしたことの方が、ずっと怖かったです。なぜそういうことをするんですか」
「あなたを守るために」
「分かっています」エリアーナは言った。「でも、守ってもらうために、あなたに怪我をさせたくはありません」
包帯を結んで、手を離した。
二人の間に、静かな間があった。
◇
「エミール」
エリアーナが、顔を上げた。
「手帳の、最後の一行を、まだ埋めていません」
エミールは、エリアーナを見た。
「廃屋で叫んでいた夜も、全部、見たかった顔だったと言った。理由、不明。ずっとそのままです」
「……そうですか」
「でも、今日、少し分かった気がします」
エリアーナは、自分の手元を見た。
「あなたが間に合ったとき、良かったと思いました。あなたが怪我をしたとき、怖かった。それは、私が、あなたのことを大切に思っているからだと思います」
「……」
「だから聞きます。今なら、聞けると思うので」
エリアーナは、エミールを見た。
「あなたが、廃屋で叫んでいた夜の顔を見たかったと言ったのは、なぜですか」
エミールは、しばらく動かなかった。
窓の外の光が、ゆっくりと変わっていった。
「……正直に、話していいですか」
「はい」
「歪んだ話になります」
「聞きます」
◇
「最初は、観察対象でした」
エミールは、静かに話し始めた。
「理解できない人間として、興味を持った。それだけでした」
「知っています。本人に聞きました」
「そこから、もっと見たいと思うようになった。近くにいたいと思うようになった。王都からの圧力が来たとき、誰にも渡したくないと思った」
「……」
「あなたに近づこうとしたものは、全て処理しました。エルシオン王国からの手紙も、使者も、全部」
エリアーナは、黙って聞いていた。
「離宮に来てもらったのは、あなたを守るためでした。それは本当です。ただ同時に、自分の手の届く場所に置いておきたかった。それも、本当のことです」
エミールは、エリアーナから目を逸らさなかった。
「最初から、逃がすつもりがありませんでした。保護という名目で、あなたの逃げ道を、先に全部塞いでいた。それが正確なところです」
「……」
エリアーナは、しばらく何も言わなかった。
窓の外の光が、ゆっくりと動いていた。
「……そうですね」
ようやく、口を開いた。
「確かに、歪んでいます」
「ええ」
「でも」
エリアーナは、包帯を巻いたエミールの腕を、少しだけ見た。
「その歪みだけを見ていたら、私は離宮には来ていません。手帳に書いてきた全部を、ずっと見てきたから、来ました」
「……」
「怒っていますか」は、エミールではなくエリアーナが言うべき問いではなかった。
「怒っていません」
エリアーナは、静かに言った。
「よりも?」
「一つだけ、聞いていいですか」
「何でも」
「シオンを起動させたとき。私が間に合わなかった可能性があると言ったとき、あなたは『間に合ったので問題ない』と言いました。あれは本心ですか」
エミールは、少し意外な顔をした。
「……本心です」
「なぜ、間に合えたんですか」
「あなたのそばを、離れたくなかったから」
エリアーナは、その言葉を、しばらく静かに聞いていた。
「……そうですか」
「怒っていませんか」
「怒っていません」
「なぜ」
エリアーナは、少し間を置いた。
「歪んでいるのは知っています。でも、あなたが私のことを大切に思っていることは、最初から行動で見えていました。手帳にも、全部書いてあります」
エミールは、目を細めた。
「では」
「それと」
エリアーナは、包帯を巻いたエミールの腕を、少しだけ見た。
「私も、あなたのそばを、離れたくないと思っています」
「……」
「それが、手帳の最後の一行の答えです」
静かな言葉だった。
告白と呼ぶには、あまりにも淡々としていた。ただ、それがエリアーナらしかった。感情を言葉に変えるのが得意ではない人間が、それでも確かに届けようとした言葉だった。
エミールは、しばらく何も言わなかった。
それから、エリアーナの手に、自分の手を重ねた。
「……ありがとうございます」
「お礼を言われることではありません」
「言わせてください」
「そうですか」
窓の外で、風が庭の木を揺らした。
二人は、しばらく、そのまま、静かにいた。
◇
廊下で待っていたマリアは、小部屋の扉がなかなか開かないことに気づいていた。
隣に立っていたシオンが、静かに言った。
「現在、重要な会話が行われています」
「……そうですか」
「もうしばらく、そのままにしておいた方が良いかと思われます」
マリアは、ため息をついた。
それから、小さく微笑んだ。
「そうですね」
第三章は、二人が互いの存在を選ぶまでの物語でした。
お互いを選んだ二人がどんな道を歩み始めるのか。
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