第二十七話 軋む
二十六話の翌日から、エミールは少し変わった。
具体的に何が変わったかを言葉にするのは難しかった。ただ、書庫にいる時間が増えた。エリアーナとシオンの研究の様子を、以前より近い距離で見るようになった。
エリアーナは、気づいていた。
気づいていたが、何も言わなかった。
「一緒に考えたい」と言った翌日から、エミールがそこにいる時間が増えたのだから、それはたぶん、良いことだと思っていた。
◇
ある午前、書庫でエミールが文献を読んでいると、エリアーナとシオンが隣の机で話していた。
「この紋様の解釈、私は動力分配の記述だと思っていたんですが」
「正確には、動力分配の最適化アルゴリズムです。単純な分配ではなく、負荷に応じて動的に比率を変える設計です」
「ああ、だからここの数式が複雑になっているんですね」
「はい。管理者の解釈は七割正確でした」
「七割ですか」
「残りの三割は、私の方が詳しい部分です。補足します」
「お願いします」
エリアーナが、真剣な顔でノートを取っている。シオンが、淡々と説明を続けている。
エミールは、その様子を横目で見ながら、文献に視線を戻した。
頁が、なかなか進まなかった。
七割、と言ったシオンの言葉が、頭の中で繰り返されていた。
残りの三割は、私の方が詳しい。
自分は、何割だろうか。
そういう考え方は馬鹿げている、とエミールは思った。研究の補助をする機能を持つ存在と、自分を同じ軸で比べることは、意味がない。
分かっていても、文献の字が頭に入ってこなかった。
◇
昼食の時間、エリアーナがシオンに言った。
「食事の間も、少し話せますか」
「もちろんです」
「昨日の術式の続きを考えていたんですが」
「食事中でも業務に支障はありません」
エミールは、向かいの席に座りながら、その会話を聞いていた。
食事の時間は、これまで、エリアーナとの数少ない「研究以外の時間」だった。
今日からは、そうでもないらしかった。
「エリアーナ」
エミールは、声をかけた。
「はい?」
「食事の間くらい、研究の話を休みませんか」
エリアーナは、少し驚いた顔をした。
「どうしてですか」
「……頭を休める時間も必要だと思うので」
「私は大丈夫ですが」
「シオン、どう思いますか」
エミールは、珍しくシオンに話を振った。
シオンは、少し間を置いた。
「管理者の脳への休息という観点では、エミール様の意見は正しいです。ただ、管理者の場合、研究について話しているときの方が食事量が増える傾向があります。効率という観点では、どちらとも言えません」
エリアーナが、「それは分かります」と頷いた。
エミールは、シオンを見た。
シオンは、何も感じていない顔をしていた。当然だった。感情がないのだから。
「……そうですか」
エミールは、それ以上は言わなかった。
◇
夕方、エミールは庭に出た。
ひとりで、少し歩いた。
昨日、シオンに「魔力が不安定になっている」と言われた。気のせいだと答えたが、嘘だった。自分でも分かっていた。感情が揺れると、魔力が連動する。それは子供の頃から知っていた。ただ、大人になってから、感情が揺れることはほとんどなかった。
今は、違った。
「シオンが気に入らない」という感情は、最初からあった。ただ、それは単純な苛立ちではなかった。
シオンは、完璧だった。エリアーナが必要とするものを、先回りして揃える。反対しない。止めない。ただ、管理者の望む方向に、完全に沿っていく。
それが、エミールには、怖かった。
怖い、というのは変な言葉だと思った。なぜシオンが怖いのか。
答えは、出ていた。
シオンは、エリアーナに何も求めない。感謝も、信頼も、感情の返しも。ただ業務として、完璧に動く。
それに対して、エミールは。
守りたかった。隣にいたかった。彼女の目が、自分以外のものを向くたびに、何かが軋んだ。
これは何だ。
保護者の感情ではない、ということだけは、もう分かっていた。
「エミール様」
背後から声がして、振り返った。
シオンが立っていた。
「少し、お話ししてもよいですか」
「……何ですか」
「先日申し上げた、魔力の件です」
エミールは、黙って先を促した。
「今日の午後から、干渉が強くなっています」
「問題のない範囲でしょう」
「現状はそうです。ただ、私の内部システムに対する外部魔力の影響は、蓄積します。一定以上になると、制御に支障が出る可能性があります」
「それは、どの程度の蓄積で」
「想定より早いペースで進んでいます。エミール様の魔力は、通常の人間より出力が高い。感情との連動も強い」
エミールは、しばらく黙っていた。
「制御できます」
「できると思います。ただ、感情の乱れが続く場合は、注意が必要です」
「感情の乱れ、ですか」
「私には感情がありません。だから、エミール様が何を感じているかは分かりません。ただ、観測できる事実として、エミール様の魔力は、管理者と私が研究の話をしているとき、特に揺れています」
シオンは、淡々と言った。
「それが何を意味するかは、私には判断できません」
エミールは、しばらく庭の先を見ていた。
夕暮れの光が、離宮の白い壁を橙色に染めていた。
「……分かりました。気をつけます」
「はい。管理者は今、書庫で夕食を忘れています。お声がけいただけますか」
「……それは私に言う仕事ですか」
「エミール様の方が、管理者に届きやすいと思われます」
エミールは、シオンを見た。
シオンの表情は、何も変わらなかった。感情がない顔は、読めない。皮肉なのか、本気なのか、判断がつかなかった。
「……行きます」
エミールは、離宮の中に向かって歩き始めた。
◇
書庫のドアを開けると、エリアーナが文献の山に囲まれていた。案の定、食事を忘れていた。
「エリアーナ」
「はい」
「夕食の時間が過ぎています」
「あ。もう少しだけ」
「今すぐです」
「でもここの続きが」
「後でできます」
エリアーナは、少しだけ不満そうな顔をして、しかし立ち上がった。
「シオンに言われましたか」
「シオンに言われました」
「そうですか」
エリアーナは、ノートに栞を挟みながら言った。
「エミール」
「はい」
「昨日、ちゃんと話してくれてありがとうございました。一緒に考えたいという話」
エミールは、少し驚いた。
「謝るべきはこちらです」
「謝らなくていいです。ただ、ありがとうと言いたかったので」
エリアーナは、ノートを抱えて、書庫の外に向かった。
ドアのところで、少し立ち止まった。
「シオンは便利ですが、シオンじゃなくてあなたが来てくれて、良かったと思いました」
それだけ言って、廊下に出ていった。
エミールは、しばらく書庫の入口に立っていた。
胸の中の、名前の分からない何かが、さっきより少し、静かになっていた。
指先の熱も、少しだけ、落ち着いていた。
◇
その夜、シオンは地下の保管室で、自身の内部診断を行っていた。
外部魔力の干渉値が、また上昇していた。
現状は、制御の範囲内だった。
ただ、このペースが続けば、いつかは限界が来る。
シオンには、感情がなかった。だから、これが問題だと感じることも、心配することも、できなかった。
ただ、観測して、記録した。
『外部魔力干渉値:上昇継続。発生源:エミール・フォン・グランヴェル。感情的要因との相関:高。制御限界までの推定時間:未定』
記録を閉じた。
廊下の方から、エリアーナの足音が聞こえてきた。
軽い足取りだった。




