第二十六話 衝突
シオンが離宮に来て十日目の朝、エルシオン王国の情勢について、エリアーナは初めて正確な情報を得た。
教えたのは、シオンだった。
◇
きっかけは、些細なことだった。
エリアーナが地下の文書を整理していると、エルシオン王国の貴族院に関する古い記録が出てきた。現代のものではなく、百年以上前の資料だったが、当時の政治構造を読み解く上では参考になった。
「シオン、今のエルシオン王国の貴族院は、当時と比べてどう変わっていますか」
「現在の情報は、私のデータベースには含まれていません。ただ」
「ただ?」
「エミール様が従者と話されていた内容に、関連する情報がありました」
エリアーナの手が止まった。
「……聞いていたんですか」
「意図的に聞いたわけではありません。音声データは常時記録されています。管理者に必要と判断した情報は、開示することが私の業務です」
「……何を、話していましたか」
シオンは、淡々と答えた。
「エルシオン王国の王太子殿下の政務上の混乱が表面化しており、貴族院での不信任の声が強まっている。バーンシュタイン公爵家は沈黙を保ちつつ、複数の貴族と接触している。エミール様は、管理者への報告を、まだ早いと判断されていた」
「……」
「以上が、私が把握している情報です。管理者が知るべき情報だと判断しました」
エリアーナは、しばらく動かなかった。
◇
書庫でエミールに会ったのは、それから一時間後だった。
「シオンから、聞きました」
エリアーナは、それだけ言った。
エミールは、文献を閉じた。
「……そうですか」
「エルシオン王国の情勢が、動いているということ。手紙が届いていないのも、偶然ではないということ。そして、あなたが、私に伝えていなかったということ」
エミールは、立ち上がった。
「怒っていますか」
「怒っているというより」
エリアーナは、真っ直ぐにエミールを見た。
「なぜ、言わなかったのか、理由を聞きたいです」
エミールは、少し間を置いた。
「あなたに、余計な心配をさせたくなかった」
「余計な、ですか」
「王都の政治的な混乱は、今のところあなたに直接影響はありません。知らせることで、研究の妨げになると思った」
「それは、あなたが決めることですか」
エミールの口が、一瞬止まった。
「……」
「私が何を知るべきか、何を知らなくていいか。それを、あなたが決めていたんですか」
声は、責めていなかった。ただ、確認していた。
「……結果として、そうなっていました」
エミールは、認めた。
「それは、守る、という言葉で正当化できることではなかったかもしれません」
エリアーナは、しばらく黙っていた。
「私が怒れる立場かどうか、分かりません。あなたが離宮に連れてきてくれたことも、王都からの圧力を防いでくれていたことも、全部、事実だから」
「ですが」
「でも、知りたかった、とは思います。自分のことなので」
「……そうですね」
「シオンは、間違っていると思いますか。私に情報を教えたことが」
エミールは、答えられなかった。
間違っていない。それは分かっていた。シオンは正しいことをした。管理者に必要な情報を、淡々と渡した。
では、自分は。
「……間違っていません」
「そうですか」
エリアーナは、少しだけ目を伏せた。
「エミール、私はあなたを信頼しています。でも、信頼というのは、情報を選んでもらうことではないと思います。一緒に考えることだと思うので」
その言葉が、エミールの胸に、静かに、深く、刺さった。
◇
エリアーナが書庫を出た後、エミールはしばらくそこに立っていた。
廊下に、シオンが来た。
「エミール様」
「……何ですか」
「管理者が、書庫に戻られました。作業を再開されているようです」
「そうですか」
「エミール様は、管理者に何かを伝えることを、躊躇われることがあるようですね」
エミールは、シオンを見た。
「あなたに関係のないことです」
「管理者の状態に影響する可能性がある場合、私の業務に関係します」
「管理者の状態は、問題ありません」
「現在は。ただ、情報の遮断が続けば、いずれ管理者との信頼関係に影響が出る可能性があります。それは私の業務範囲の問題です」
「……」
「私には感情がありません。だから、正しいことを正しいと言えます」
シオンは、静かに続けた。
「ですがエミール様には、感情があります。だから、正しいことを正しいと言えない場面がある。それが管理者との関係にどう影響するかを、私は把握することができません」
エミールは、何も言わなかった。
「私は、管理者に必要な存在です。ですがエミール様が管理者に必要な存在かどうかは、私には判断できません。それは管理者が決めることです」
「……分かっています」
「エミール様が私に対して、何かを感じていることも、私には分かりません。ただ、エミール様の魔力が不安定になっているのは、観測できます」
エミールは、思わず自分の手を見た。
指先に、僅かな熱があった。
「……気のせいです」
「違います。感情による魔力の揺らぎです。この程度であれば問題ありません。ただ」
「ただ?」
「私の内部システムは、外部の魔力干渉に敏感です。念のため、お伝えしておきます」
シオンは、それだけ言って、廊下を歩いていった。
エミールは、指先を見つめていた。
熱が、まだそこにあった。
◇
夜、エリアーナは手帳を開いた。
「確認要」の欄に、次々とチェックを入れていった。
『エルシオン王国情勢→確認済み(シオンより)』
『手紙の未着→確認済み(遮断の可能性、エミールが関与の可能性)』
それから、少し考えてから書いた。
『エミールに、一緒に考えたいと伝えた』
最後に、一行。
『信頼は、情報を選んでもらうことではない。一緒に考えることだ』
書きながら、これが自分の言葉だと気づいた。
王宮にいた頃は、こんな言葉は出てこなかった。誰かと一緒に考える必要も、機会も、なかったから。
「意図不明」欄の最後の一行は、まだ空白だった。
その空白が、以前よりも、少しだけ小さく見えた気がした。




