第二十五話 苛立つ天才
シオンが起動してから一週間が経つ頃には、離宮の日常は新しい形に落ち着いていた。
朝、エリアーナが書庫に来ると、シオンが既に当日分の参考資料を机に並べている。エリアーナが「これも調べたい」と言えば、シオンが「既に準備しております」と答える。エリアーナが食事を忘れると、シオンが「管理者、三時間が経過しました。栄養補給を推奨します」と無感情に言う。
「シオンは、食事を忘れることをどう思いますか」
「非効率です。しかし研究への集中を優先される場合は、合理的な判断とも言えます。その場合、私が時間を管理します」
「ありがとうございます」
「これが私の業務です」
マリアは、その会話を廊下で聞いて、小さくため息をついた。
「レオ様の苦労が、少し分かった気がします」
独り言だった。
◇
エミールは、書庫の入口から、その様子を見ていた。
シオンが、エリアーナの隣で文献を広げている。エリアーナが何かを指差して、シオンが答える。また指差して、また答える。二人の間には、これまでエミールが見たことのない種類の流暢さがあった。
エミールは、古代語の専門知識については「広く浅く」だ。エリアーナの解読の速度に、完全にはついていけない。時に追いつき、時に先回りできるが、全てを受け止めることはできなかった。
シオンは、違った。
十四世代分の言語データベース。エリアーナがどこへ飛んでも、シオンはそこに既にいる。
「この構文、九世代前特有の省略形ですね」
「はい。同時期の農業文書では常用されていました。関連資料を出しますか」
「お願いします」
「こちらです」
エリアーナが微笑んだ。
エミールは、その笑顔を見て、何かを飲み込んだ。
書庫に入るのをやめて、廊下を戻った。
◇
午後、エリアーナは地下で作業をしながら、ふと口にした。
「そういえば、エルシオン王国から手紙が来ていないんですよね」
シオンが、手を止めた。
「どなたへ宛てた手紙ですか」
「王宮で世話になった侍女に、出す前に連絡を取れると思っていたんですが。追放の前に、密かに文を送ると言ってくれていたので」
「エルシオン王国からアルテシア王国への郵便の通常所要日数は、三日から五日です」
「それは知っています。もう一ヶ月近く経つので」
シオンは、少し間を置いた。
「考えられる理由は三つあります。郵便の遅延、送り手側の事情、あるいは――」
「あるいは?」
「途中で何らかの理由により、届かなくなっている可能性です」
エリアーナは、シオンを見た。
「途中で届かなくなる、というのは、どういう場合ですか」
「検閲、差し押さえ、または意図的な遮断が考えられます」
「……誰かが、故意に止めているということですか」
「可能性としては、否定できません」
エリアーナは、しばらく黙っていた。
「シオン、あなたはどう思いますか」
「私には判断材料が不足しています。ただ、管理者が知るべき情報が管理者に届いていないとすれば、それは問題です」
「そうですね」
エリアーナは、立ち上がった。
「エミールに聞いてみます」
◇
その会話を、入口の外で、エミールは全部聞いていた。
足が、動かなかった。
シオンの声が、頭の中で繰り返された。
「途中で何らかの理由により、届かなくなっている可能性」
「検閲、差し押さえ、または意図的な遮断」
エリアーナの足音が、こちらに近づいてきた。
エミールは、廊下の柱の陰を離れた。
扉を開けてきたエリアーナが、エミールと目が合った。
「エミール、ちょうどよかったです。聞きたいことがあって」
「……何ですか」
「エルシオン王国からの手紙が届いていないんですが、アルテシア王国の郵便経路で、何か問題がありましたか」
「……確認してみます」
「シオンが、意図的な遮断の可能性もあると言っていました」
エミールは、答えるまでに、少し間があった。
「そうですか」
「心当たりはありますか」
「確認してみます」
「さっきも同じことを言いました」
「……もう少し、待ってもらえますか」
エリアーナは、エミールを見た。
これまでのやり取りで、「もう少し待ってほしい」はエミールが何かを知っているときの言い方だと、もう分かっていた。
「……分かりました」
エリアーナは、それ以上は聞かなかった。
廊下に、静かな空気が落ちた。
◇
夜、エミールは自室で窓の外を見ていた。
遮断は、続けている。
エルシオン王国からの接触を全て止めているのは、エリアーナを守るためだった。王太子からの使いが再び来れば、彼女の日常が乱される。それを防ぐために、動いている。
正しいことだと、今も思っている。
ただ。
シオンが、答えを言った。
「検閲、差し押さえ、または意図的な遮断」
事実を、ただそのまま、エリアーナに渡した。
感情も、配慮も、計算もなく。ただ、管理者が知るべきだから、伝えた。
そのシオンの在り方が、エミール自身の在り方と、鋭く対比された。
自分は、エリアーナに、何を隠しているのか。
守るため、と言えば聞こえはいい。だが、それは本当に、彼女のためだけなのか。
彼女を自分の手の届く場所に置いておくために、情報を制限していた部分が、なかったか。
エミールは、その問いに、すぐには答えられなかった。
廊下から、シオンの足音が聞こえた。
規則正しい、均一な足音だった。
エミールは、その音を聞きながら、自分の中に積もり始めているものの名前を、まだ探していた。




