第二十話 天才、離宮に着く
離宮の門をくぐった瞬間、エリアーナは言葉を失った。
白亜の建物が、夕暮れの光を受けて輝いていた。広大な庭園、幾何学的に整えられた生垣、噴水。
「……立派ですね」
「研究には不便な点も多いかもしれませんが、できる限り整えます」
「いえ、十分すぎるくらいです」
馬車が停まると、整列した使用人たちが、深々と一礼した。
エリアーナは、その中に立って、少し居心地悪そうにしていた。
◇
使用人たちの中で、年配の侍女頭であるマリアは、内心で静かに身構えていた。
殿下が女性を連れてくるのは、初めてのことだった。それだけで、察するものがあった。
どんな方だろうか。
令嬢としての品格は十分か。殿下にふさわしい教養と立ち振る舞いを持っているか。いずれ王妃となる方ならば、相応の――
「あの、書庫はどちらですか」
馬車を降りてから三秒。
荷物を持ったままの客人が、玄関先で立ち止まって、真っ先にそう聞いた。
挨拶よりも先に。部屋の案内よりも先に。
「は」
「書庫です。図書室というか、資料室というか。エミールが、古代文明の資料があると言っていたので」
マリアは、エミールを見た。
エミールは、特に困った様子もなく言った。「案内してあげてください」
「……かしこまりました」
マリアは、困惑を飲み込んで、廊下を歩き始めた。
◇
書庫の扉を開けた瞬間、背後で「うわあああああ!!」という声がした。
マリアは、思わず振り返った。
客人が、荷物を廊下に置いたまま、書架に向かって走り込んでいた。
「これ全部読んでいいんですか!? この『七世代前様式・建築術式集』、王宮にもなかった文献です、どこで手に入れたんですか、こっちの『失われた合金技術』も初版本じゃないですか――」
一息で言い切って、次の棚に移動していた。
マリアは、エミールを見た。
エミールは、書架の前を走り回る客人を見ながら、どこか満足そうな顔をしていた。
「あの、殿下」
「はい」
「あちらの方は、いつも、ああいった……」
「ええ」
「その……品格という観点からは」
「あれが、彼女です」
迷いのない、短い答えだった。
マリアは、もう一度、書架の前で両手を広げている客人を見た。
この方は、婚約者候補として来たのではない。
直感的に、そう思った。
殿下がこれほど迷いなく答えられるということは、初めから、全部分かった上で連れてきた、ということだ。
「……承知いたしました」
マリアは、静かに一礼した。
自分の中の「婚約者候補」という先入観を、そっと棚の奥にしまった。
◇
その夜、使用人たちの間で、静かな議論があった。
「王子殿下がお連れになった方、どういうご関係なんでしょう」
「さあ。研究のご関係だとは聞きましたが」
「書庫で三時間出てこられませんでしたよ、夕食の時間になっても」
「お呼びしたら、『もう少し』と言われました」
「殿下は?」
「扉の外でお待ちでした」
「……殿下が、待っていた?」
その事実が、一番雄弁だった。
「どうやら、只者ではないようです」
マリアが、まとめるように言った。
「婚約者候補という枠で考えない方がいいと思います。殿下が連れてきた研究者の方、と認識しておきましょう」
「でも、殿下があれほど気にかけていらっしゃるなら」
「それとこれとは、別の話です」
マリアは、それ以上は言わなかった。
ただ、殿下が書庫の扉の外で待っていたという話は、長年仕えてきた自分にも、初めて見る光景だった。
◇
翌朝、エリアーナは書庫の机に積み上げた文献の前で、既に起きていた。
いつ寝たのか、マリアには分からなかった。
「おはようございます、朝食のご準備ができております」
「ありがとうございます、少し待ってください、今ちょうど――」
「エリアーナ様」
「はい」
「まず、朝食をお召し上がりください」
「でも今、七世代前の術式の系譜が――」
「術式より先に、食事です」
しばらく間があった。
「……レオみたいなことを言いますね」
「存じませんが、正しいことを言っているのだと思います」
エリアーナは、観念したように立ち上がった。
「分かりました。ただ、食事の後で続きをやりたいので、今どこまでやったか書き留めていいですか」
「もちろんでございます」
エリアーナは、ノートに素早く走り書きをした。それから、机の上に広げた文献を丁寧に並べ直して、出口に向かった。
「この棚、少し並び順を変えてもいいですか」
「並び順を?」
「年代順ではなく、内容の関連性で並べた方が、調べるときに効率がいいんです。この区画の資料だけでも」
マリアは、少し考えた。
「殿下にご確認を取りましてから、であれば」
「分かりました。お昼頃に聞いてみます」
エリアーナは、廊下を歩きながら、既に次の段取りを考えているようだった。
マリアは、その後ろ姿を見ながら、昨夜の結論を改めて確認した。
只者ではない。
そして、殿下がこの方を連れてきた理由が、少しずつ、分かってきた気がした。
◇
エミールに書庫の棚の並び替えについて聞いたのは、昼食の後だった。
「構いません」
「部屋の一部を作業場にしてもいいですか。計測道具と素材を広げる場所が必要で」
「どの部屋でも」
「地下に何かありますか。古い建物なので、何か眠っていないかと思って」
エミールの手が、一瞬止まった。
「地下は、あまり入らない方がいいかもしれません」
「なぜですか」
「古いものが、色々と眠っているので」
「古いものが色々と眠っているなら、むしろ調べたいんですが」
「……少し待ってください」
エミールは、どこか慎重な顔をしていた。
エリアーナには、その理由が分からなかった。
「危ないものがありますか」
「危ないというより」
「何があるんですか」
「……おいおい、話します」
エリアーナは、また「また今度」の亜種が来たと思った。
手帳を開いて、「地下に何かある、要確認」と書き留めた。
エミールは、その様子を見ながら、静かに思っていた。
早かれ遅かれ、見つけてしまうだろう。
この人が相手では、隠し通せるものなど、何もない。




