第十九話 馬車の窓
出発の朝が来た。
廃屋の前に、立派な馬車が停まっていた。
エリアーナは、荷物を鞄にまとめながら、廃屋をぐるりと見渡した。粗末な木箱、崩れかけた窓枠、解読ノートの山が積み上げられていた棚。最初の夜、漆黒のローブを着て叫んでいた場所。
全部、ここから始まった。
「……ありがとうございました」
誰もいない廃屋に向かって、小声で言った。
恥ずかしかったが、言わずには出られなかった。
◇
村人たちが、集まってきていた。
「また戻ってくるんだろうな」
「機会があれば、必ず」
「テツジンのこと、任せておけ」
「お願いします。何かあれば、連絡を」
「体に気をつけてな、魔女様」
「ちゃんと飯を食えよ」
口々に言葉をかけてくれる村人たちを見ながら、エリアーナは、王宮にいた十八年間のことを思った。
あの場所では、誰も、こんな顔で送り出してくれなかった。
心配してくれる人も、また来いと言ってくれる人も、体に気をつけろと言ってくれる人も、いなかった。
「魔女様」
レオの声がして、振り返った。
他の子供たちより少し離れた場所に立って、いつものように腕を組んでいた。
「元気でな」
「レオも」
「飯、ちゃんと食えよ」
「あなたに言われたくないですが、食べます」
「あと、眼鏡の人を信用しすぎるなよ」
隣に立っていたエミールが、「それはひどい」と言った。
「王子だからって信用しすぎるなってこと」レオは、エミールを一瞥してから、エリアーナに向き直った。「自分の頭で考えて動けよ」
「……はい」
エリアーナは、真剣な顔で頷いた。
レオらしい、言い方だった。心配の仕方が、真っ直ぐだった。
「また来ます」
「待ってる」
レオは、それ以上は言わなかった。ただ、まっすぐにこちらを見ていた。
エリアーナは、その目を、しばらく見つめ返した。
それから、馬車に乗り込んだ。
◇
馬車が動き出してから、しばらく、エリアーナは窓の外を見ていた。
レオが、最後まで腕を組んで立っていた。その姿が、遠くなっていった。小さくなっていった。それでも、見えなくなるまで、こちらを向いていた。
「……ちゃんと育ちますね、あの子は」
エリアーナは、ぽつりと言った。
「ええ」
エミールの答えは、短かったが、確信があった。
「いつか、本物の騎士になると思います」
エリアーナは、窓から目を離して、向かいに座るエミールを見た。
眼鏡のない顔が、馬車の中の光の中にあった。こうして正面から見るのも、まだ慣れなかった。
「……エミール」
「はい」
「ひとつ、聞いていいですか」
「何でも」
エリアーナは、少し間を置いた。
「最初に、廃屋に来たのは、本当に、ただの暇つぶしだったんですか」
エミールは、答えるまでに、少し間があった。
「最初は、そうでした」
「最初は」
「ええ。観察対象として、面白そうだと思っただけです」
エリアーナは、その言葉を聞いて、少し笑った。
「正直ですね」
「嘘をついても仕方ないので」
「今は、違うんですか」
エミールは、窓の外を見た。
流れていく景色を、少しの間、見ていた。
「今は、違います」
「どう違うんですか」
「それは」
エミールは、窓から視線を戻した。
「いつか、あなたの方から聞いてくれると思っています」
「……意味が分かりません」
「手帳の、最後の一行が埋まったとき、聞いてみてください」
エリアーナは、少し目を見開いた。
「見ていたんですか、手帳を」
「見てはいません。ですが、あなたが答えを保留したことくらいは、分かります」
「……なんで分かるんですか」
「あなたのことを、長いこと見ていたので」
エリアーナは、返す言葉が見つからなかった。
向かいの席で、エミールは、どこか満足そうな顔をしていた。
それがまた、少し腹立たしくて、少し嬉しかった。
◇
馬車は、街道をゆっくりと進んだ。
しばらくして、エリアーナはまた、窓の外を見た。
森を抜けると、開けた草原が広がっていた。
エルシオン王国との国境から、少しずつ離れていく。
「……私、ちゃんとやっていけると思いますか」
唐突に、そんなことを聞いていた。
「何が」
「全部、です。離宮での生活も、王都からの圧力も、これからのことも」
エミールは、少し考えてから答えた。
「あなたが十八年間、誰にも理解されない研究を続けられたなら、大抵のことはやっていけると思います」
「研究は、好きだったから続けられただけです」
「好きなことのためなら動ける、というのは、才能です」
エリアーナは、その言葉を、しばらく考えた。
「エミールは、そういうことがありますか。好きで、やめられないもの」
「最近できました」
「何ですか」
「それは、また今度」
「また今度が多いですね」
「少しずつ、話します」
エリアーナは、ため息をついた。それから、窓の外に視線を戻した。
草原の先に、白い建物の屋根が見え始めていた。
「……あれが、離宮ですか」
「ええ」
「大きいですね」
「慣れます」
「廃屋の方が、落ち着く気がします」
エミールは、少し間を置いてから言った。
「廃屋に似た部屋を用意することは、できませんが」
「要りません」
「書庫は、気に入っていただけると思います」
「……それは、楽しみにしています」
馬車が、離宮の門へと近づいていった。
エリアーナは、窓の外を見ながら、胸の中で小さく深呼吸をした。
新しい場所へ行く。
怖いといえば、怖い。
でも、隣に、守ると言った人がいる。
それで、十分な気がした。




