第十八話 甘い罠
使者が帰ってから三日が過ぎたが、エリアーナは普段通り研究を続けていた。
普段通り、というのは半分だけ正確だった。
手は動いていた。文献も読めていた。古代語の解読も、滞りなく進んでいた。ただ、ふとした拍子に向かいの席を見てしまって、眼鏡のないエミールの顔と目が合って、慌てて視線を戻す、ということが、一日に何度か起きていた。
「……顔が赤いですが」
「暑いんです」
「三日連続で同じことを言っていますね」
「体質なんです」
「なるほど」
エミールは、特に追及しなかった。
それがまた、困った。
◇
四日目の朝、エミールが、少し改まった様子で廃屋に入ってきた。
「話があります」
「はい」
「今後のことについて」
エリアーナは、ノートを閉じた。
「使者が戻ったということは、王都に報告が届いた、ということです。次は、もっと強硬な手段で来るかもしれない」
「……そうですね」
「今のここでは、私の名前があっても、法的な保護力に限界があります。隣国の王子として庇護を宣言したとしても、この村はあなたのエルシオン王国との国境に近すぎる」
エリアーナは、黙って聞いていた。
「私の離宮に、移ってもらえませんか」
「離宮」
「アルテシア王国の領内にある、私の屋敷です。そこであれば、法的に完全な保護が可能になります。研究設備も、ここよりずっと整っています」
エリアーナは、少し間を置いた。
「研究設備というのは」
「古代文明関連の資料を、可能な限り収集してあります。あなたが今まで探していたような文献が、相当数あると思います」
「……相当数、というのは」
「王宮の禁書庫に近い規模、と言えば、分かりやすいでしょうか」
しばらく、沈黙があった。
エリアーナの目が、わずかに遠くなった。
禁書庫に近い規模。
その言葉が、頭の中で反響し続けた。
「……ずるいです」
「何が」
「そこで資料の話を出すのが」
エミールの口元が、かすかに動いた。
「事実ですが」
「事実だから困るんです」
◇
問題は、資料の話だけではなかった。
「村を、離れることになりますね」
エリアーナは、静かに言った。
「距離は、半日ほどです。来られなくなるわけではありません」
「でも、レオは毎日は来られなくなります」
「それは、そうです」
エリアーナは、窓の外を見た。
遠くに、村の畑が見えた。ゴーレムが、今日も静かに動いている。
「ここに来て、初めて、人と関わることが怖くなくなりました。村の皆さんも、レオも。あの廃屋も、ゴーレムも、全部、私の最初の場所です」
「それは変わりません」
「でも、離れることになる」
エミールは、すぐには答えなかった。
「離れることと、失うことは、違います」
少し間を置いて、続けた。
「レオは、あなたが思っているより、ずっと強い子供です。それに、あなたを守るために動けない環境に、あなたを置いておきたくない」
エリアーナは、エミールを見た。
「守るために、というのは」
「王都からの圧力が続く限り、ここでは限界があります。私が守れる場所に、いてほしい」
その言葉の、どこかに、「守りたい」という気持ち以上の何かが滲んでいた。
エリアーナには、それがなんなのか、まだ言葉にできなかった。ただ、頬が少し熱くなるのを感じて、視線を窓の外に逃がした。
◇
昼過ぎに、レオが来た。
事情を話すと、レオは、しばらく黙って聞いていた。
「……そうか」
「嫌ですか」
「嫌じゃない。嫌じゃないけど」
レオは、膝の上で拳を握った。
「魔女様が安全な方がいい。それは分かってる」
「ありがとうございます」
「でも」
レオは、エミールの方を向いた。
「魔女様のこと、本当に守れるんだろうな」
「守ります」
「約束したからな」
「覚えています」
レオは、しばらくエミールを見ていた。それから、ため息をついた。
「……お前のこと、もう怪しいとは思ってないから」
「それは良かったです」
「褒めてないからな」
「分かっています」
レオはまた、エリアーナの方を向いた。
「魔女様、俺、強くなるから」
「え?」
「もっと強くなって、いつか、ちゃんと守れる人間になるから」
エリアーナは、少し驚いた顔をして、それからゆっくりと微笑んだ。
「レオはもう、十分強いですよ」
「まだ足りない」
「そうですか」
「騎士になる。本物の騎士に」
エミールが、その言葉を聞いて、静かにレオを見た。
十歳の少年が、まっすぐな目で言った言葉だった。
恋慕が、いつの間にか、別の形へ変わり始めているのを、エミールは静かに見ていた。
◇
夜、エリアーナは手帳を開いた。
今日のことを、整理しなければならなかった。
『エミール、離宮への移住を提案。理由、法的保護と研究環境』
そこまで書いて、少し止まった。
それだけではない、と思った。
エミールが言った言葉の中に、法的保護や研究環境とは別の何かが、確かにあった。
「守れる場所に、いてほしい」
守れる場所に、いてほしい。
それは、義務ではなく、願いの言葉だった。
エリアーナは、その続きを書こうとして、やめた。
まだ、うまく言葉にならない。
「意図不明」欄の最後の一行は、今日も、空白のままだった。
手帳を閉じて、エリアーナは天井を見上げた。
離宮へ行こう、と思っていた。
資料のことも、保護のことも、全部、理由としては正しかった。
でも、一番正直に言うなら。
「守れる場所に、いてほしい」という言葉が、思っていたよりずっと、嬉しかったから。
それが、一番の理由かもしれなかった。
ここまで第二章を読んで頂きありがとうございます。
古代ゴーレムとの出会いをきっかけに、エリアーナの研究生活はさらに広がっていきます。
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