第十七話 王子ぃぃぃぃ!?
翌朝、廃屋の前にレオが来たのは、日が昇りきる前だった。
顔を見た瞬間に、エリアーナは「ああ、もう知っているのか」と察した。村は狭い。昨日の今日で、噂が広まらないはずがなかった。
「魔女様」
レオの声が、若干裏返っていた。
「眼鏡の人、王子だったのか」
「そうだそうです」
「……マジで?」
「マジです」
レオは、しばらく、廃屋の入口に立ったまま動かなかった。
「いや、なんか、そんな気はしてたけど」
「してたんですか」
「してたけど、まさかな、と思ってたけど、でも、やっぱりそうだったのか」
「そうだったんです」
「……え、じゃあ俺、王子に『なんか感じ悪いな』って何回も言ってたのか」
「十七回ほどだと思います」
「数えてたのか!?」
「数えていました」
レオは、顔を両手で覆った。
「死にたい」
「大丈夫です。エミールも気にしていないと思います」
「気にしてなかったらそれはそれで困る! 王子だぞ!?」
◇
その日のうちに、村中に知れ渡った。
「魔女様のパトロン、王子だったって本当か」
「本当です」
「あの眼鏡が……?」
「眼鏡は変装でした」
「変装って。なんでそんな……」
「研究の邪魔をしたくなかったそうです」
村人たちは、一様に困惑した顔をした後、それぞれの理解の及ぶ範囲で「まあ、魔女様だしな」という結論に辿り着いていた。
「王子様が変装してまで会いに来るような人だってことじゃないか」
老人が、しみじみとした声で言った。
「魔女様は、そういう人だよ」
エリアーナには、その言葉の意味が、半分しか分からなかった。
「そういう人、というのは、どういう人ですか」
「放っておけない人だよ」
老人は、それだけ言って笑った。
◇
昼過ぎ、エミールが廃屋に来た。
眼鏡はなかった。外套はいつものくたびれた一着だったが、眼鏡のない顔で、森の廃屋の前に立っているのは、どう見ても「学者」には見えなかった。
村人たちが、遠巻きに注目しているのが、エリアーナにも分かった。
「おい、王子だ」と誰かが言った。
「思ってたよりずっといい顔してるな」と誰かが言った。
「魔女様、目が高いな」と誰かが言った。
「違います」エリアーナは、反射的に答えた。「私は別にそういう意味では」
「おや、否定するのか」
「違います、そうではなく、研究のパトロンとして」
「顔が赤いぞ」
「暑いんです」
「今日は涼しいけどな」
エリアーナは、廃屋の中に引っ込んだ。
◇
エミールが入ってきて、いつもの椅子に腰を下ろした。
エリアーナは、解読ノートを広げていたが、文字が頭に入ってこなかった。
昨日まで、この距離感が当たり前だった。向かいに座っていて、たまに文献の話をして、たまに古代語の用例について議論して、それが自然だった。
なのに今日は、何かが、違った。
「……顔が赤いですが」
エミールが、静かに言った。
「暑いんです」
「昨日より気温は低いですが」
「体温が高いんです」
「風邪ですか」
「違います」
エリアーナは、ノートに視線を落としたまま答えた。
「王子様と向かいに座っているから動揺しているとか、そういうことは一切ありません」
「言っていませんが」
「念のため言っておきます」
エミールは、しばらく黙っていた。
「今まで通りで構いません」
「分かっています」
「私は何も変わっていません」
「分かっています」
「昨日と同じ人間です」
「……分かっているんですが」
エリアーナは、ノートの余白に、無意識に丸をぐるぐると書いていた。
「頭では分かっているんですが、なんか、その」
言葉が出てこなかった。
「昨日、あなたが言ったことを、考えていました」
「どのことを」
「あなたを守れる立場だと、伝えたかった、というところを」
エミールは、何も言わなかった。
「それが、昨日から、頭の中でまだ、ぐるぐるしていて」
「ぐるぐる」
「ぐるぐるしています」
エリアーナは、ノートに書いた丸を指で示した。
「こんな感じで」
エミールの口元が、かすかに動いた。笑ったのかどうか、判断がつかなかった。
「焦らなくていいです」
「焦っていません」
「焦っていても、いいですが」
「焦っていません」
「分かりました」
エミールは、それ以上は言わずに、文献を開いた。
エリアーナも、ノートに向き直った。
しばらく、静かな時間が続いた。
ペンが動き始めたのは、それから少しの間があってからだった。文字が、ゆっくりと、いつもの速さに戻っていった。
◇
夕方、レオがまた来た。
入ってきて、エミールを見て、微妙な表情をした。
「……王子様」
「レオ」
「怒ってないか、今まで散々失礼なこと言ったけど」
エミールは、少し考えた。
「一つだけ聞かせてください」
「な、何だ」
「あなたが最初に私を怪しいと思ったのは、いつですか」
レオは、考えた。
「最初に来た日。眼鏡は変だったけど、目が学者じゃなかった」
「目が、学者じゃない」
「もっとこう、全部計算してる感じの目だった。魔女様を見てるときだけ違ったけど」
エミールは、それを聞いて、一瞬黙った。
「……鋭いですね」
「だから言っただろ、怪しいって」
「ええ。あなたが正しかった」
レオは、少し照れたような、それでも少し悔しそうな顔をした。
「別に、謝らなくていいから。魔女様のこと、ちゃんと守ってくれれば、それでいい」
「守ります」
「約束したからな」
「覚えています」
レオは、それ以上は何も言わずに、エリアーナの隣に座った。
「魔女様、今日の飯は」
「食べました、ちゃんと」
「本当に?」
「本当に」
「何を食べたか言ってみろ」
「……パンと、スープと」
「スープは何のスープだ」
「……古代ハーブの」
「ちゃんと食ってるじゃないか」
そのやり取りを聞きながら、エミールは、静かに文献を読み続けた。
何も変わっていない。
昨日から、何も変わっていない。
それが、エミールには、今日だけは、少しだけ、嬉しかった。
◇
夜、一人になってから、エリアーナは手帳を開いた。
「意図不明」欄は、もうほとんど埋まっていた。
残っているのは、最後の一行だけだった。
『廃屋で叫んでいた夜も、全部、見たかった顔だったと言った。理由、不明』
エリアーナは、その一行をしばらく見ていた。
昨日、「答えを聞く準備ができていない」と言った。
今日も、まだ準備はできていない。
でも、ひとつだけ分かったことがあった。
これまでの人生で、エリアーナは、自分の「素の顔」を見せることを、ずっと恐れていた。王宮では、計算された顔しか見せられなかった。変わり者の自分を、そのまま見せたら、どこへも居場所がなくなると思っていた。
それなのに。
廃屋で叫んでいた夜の顔が、見たかった顔だったと、言われた。
誰にも見せたくなかった顔が、誰かにとっての、一番の顔だったと。
エリアーナは、手帳を閉じた。
「意図不明」欄の最後の一行は、まだ空白のままだった。
でも今夜は、それでいいと思えた。
答えを探す必要が、まだある。それはつまり、まだ、この先があるということだから。




