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『貴様さえいなければ』と追放された悪役令嬢ですが、『深淵の魔女』は黒歴史の設定です。本当に伝説にしないでください。  作者: ましろゆきな
第二章 離宮の研究室

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第十六話 眼鏡を外す瞬間


 村の外れ、人気の途絶えた場所まで歩いてきてから、エミールは足を止めた。


 夕暮れの光が、草原を橙色に染めていた。


 「話というのは」


 エリアーナが聞いた。


 エミールは、しばらく黙っていた。


 どこから話すべきか。いや、何から話すべきかは、もう決まっていた。


 「最初に、謝らなければならないことがあります」


 「謝る?」


 「ずっと、嘘をついていました」


 エリアーナの表情が、わずかに変わった。


 「嘘、というのは」


 「学者です、と言っていたことです」


 エミールは、エリアーナをまっすぐに見た。


 「私の名前は、本当にエミール・フォン・グランヴェルです。その点は嘘ではありません。ただ」


 ゆっくりと、手を上げた。


 瓶底眼鏡の蔓に指をかける。


 外した。


 眼鏡の奥に隠れていた瞳が、初めて、まっすぐにエリアーナを見た。


 夕暮れの光の中で、その顔が、はっきりと現れた。


 冴えない学者の面影は、どこにもなかった。通った鼻筋、整った輪郭、深い色をした瞳。眼鏡と薄暗い廃屋に隠されてきたものが、今、ようやく、正しい姿で目の前に立っていた。


 「……だれ」


 エリアーナの声が、かすかに震えた。


 「アルテシア王国の第二王子です」


 「は」


 「兄が王位を継ぐ予定ですので、私自身に政治的な義務はほとんどありません。ですが、個人の名前で、あなたを保護することは十分に可能です」


 エリアーナは、言葉を失っていた。


 頭の中で、これまでのことが、すごい速さで繋がっていった。


 王宮の禁書庫に入れたこと。資金力。貴族的な所作。村長の指摘。「住所を忘れた」という苦しい言い訳。「遠くの古書店」。


 全部、嘘ではなく、ただ言わなかっただけだった。


 「……どうして、最初から言わなかったんですか」


 「言えば、あなたは態度を変えたでしょう」


 エミールの声は、静かだった。


 「学者として対等に接するのではなく、王子として接していたはずです。それは、私が望んでいたものではありませんでした」


 「望んでいたもの、というのは」


 エミールは、少し間を置いた。


 「あなたが、誰に対しても見せる、あの顔です」


 エリアーナは、眼鏡のない、まっすぐな瞳を見た。


 「身分も、立場も関係なく、ただ目の前のものにまっすぐに向かっていく顔。それを、王子として見ていたら、おそらく見せてはもらえなかった」


 「……」


 「廃屋で叫んでいた夜も」


 「それは」


 「ゴーレムの前で早口になっていたときも。スープを作っていたときも。レオと口げんかしていたときも。全部、私が見たかった顔でした」


 エリアーナの頬が、じわりと赤くなった。


 「だから、黙っていました。卑怯だったかもしれません」


 エミールの声に、初めて、自責の色があった。


 「ですが、後悔は、していません」


 少し間があった。


 「それから、もうひとつ」


 エミールは、続けた。


 「なぜ今日、話したのか、ということです」


 エリアーナは、黙って先を待った。


 「今日、使者の前に立つあなたを見ていました。手が震えていた。それでも、一歩も退かなかった」


 夕暮れの光が、草原を橙色に染めていた。


 「その隣に、ただの学者として立っていることが、できなくなりました。あなたを守れる立場だと、あなた自身に、伝えたかった。本当の意味で、あなたの隣に立てる人間だと」


 それは、告白ではなかった。


 けれど、告白よりも、もっと直接的な何かだった。


 エリアーナは、しばらく、エミールの顔を見ていた。眼鏡のない、夕暮れの光の中の顔を。


 「……そうですか」


 ようやく、エリアーナは言った。声が、わずかに掠れていた。


 ◇


 しばらく、沈黙が続いた。


 夕暮れの風が、草原を渡っていった。


 「怒っていますか」


 エミールが、静かに聞いた。


 エリアーナは、その問いに、すぐには答えなかった。


 怒るべきなのかもしれない、と思った。騙されていた、と。


 けれど、なぜか、その感情はあまり湧いてこなかった。


 代わりに浮かんだのは、別の記憶ばかりだった。


 禁書庫の資料を五日かけて持ってきてくれたこと。雨の夜、軒下で「怖いという感覚に馴染みがない」と漏らしたこと。ゴーレムが立ち上がった瞬間、誰よりも近くで見守ってくれていたこと。今日、使者の前で「彼女の意思を覆す権利は、誰にもない」と言い切ったこと。


 全部、王子としての義務や計算では、なかった気がした。


 「……怒っていません」


 ようやく、エリアーナは言った。


 「今はまだ、気持ちの整理がついていないだけです」


 「それは、当然だと思います」


 「少し、考えさせてください」


 「もちろんです」


 エミールは、それ以上は何も言わなかった。


 エリアーナも、何も言わなかった。


 二人は並んで、沈みゆく夕日を、しばらく見ていた。


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