第十六話 眼鏡を外す瞬間
村の外れ、人気の途絶えた場所まで歩いてきてから、エミールは足を止めた。
夕暮れの光が、草原を橙色に染めていた。
「話というのは」
エリアーナが聞いた。
エミールは、しばらく黙っていた。
どこから話すべきか。いや、何から話すべきかは、もう決まっていた。
「最初に、謝らなければならないことがあります」
「謝る?」
「ずっと、嘘をついていました」
エリアーナの表情が、わずかに変わった。
「嘘、というのは」
「学者です、と言っていたことです」
エミールは、エリアーナをまっすぐに見た。
「私の名前は、本当にエミール・フォン・グランヴェルです。その点は嘘ではありません。ただ」
ゆっくりと、手を上げた。
瓶底眼鏡の蔓に指をかける。
外した。
眼鏡の奥に隠れていた瞳が、初めて、まっすぐにエリアーナを見た。
夕暮れの光の中で、その顔が、はっきりと現れた。
冴えない学者の面影は、どこにもなかった。通った鼻筋、整った輪郭、深い色をした瞳。眼鏡と薄暗い廃屋に隠されてきたものが、今、ようやく、正しい姿で目の前に立っていた。
「……だれ」
エリアーナの声が、かすかに震えた。
「アルテシア王国の第二王子です」
「は」
「兄が王位を継ぐ予定ですので、私自身に政治的な義務はほとんどありません。ですが、個人の名前で、あなたを保護することは十分に可能です」
エリアーナは、言葉を失っていた。
頭の中で、これまでのことが、すごい速さで繋がっていった。
王宮の禁書庫に入れたこと。資金力。貴族的な所作。村長の指摘。「住所を忘れた」という苦しい言い訳。「遠くの古書店」。
全部、嘘ではなく、ただ言わなかっただけだった。
「……どうして、最初から言わなかったんですか」
「言えば、あなたは態度を変えたでしょう」
エミールの声は、静かだった。
「学者として対等に接するのではなく、王子として接していたはずです。それは、私が望んでいたものではありませんでした」
「望んでいたもの、というのは」
エミールは、少し間を置いた。
「あなたが、誰に対しても見せる、あの顔です」
エリアーナは、眼鏡のない、まっすぐな瞳を見た。
「身分も、立場も関係なく、ただ目の前のものにまっすぐに向かっていく顔。それを、王子として見ていたら、おそらく見せてはもらえなかった」
「……」
「廃屋で叫んでいた夜も」
「それは」
「ゴーレムの前で早口になっていたときも。スープを作っていたときも。レオと口げんかしていたときも。全部、私が見たかった顔でした」
エリアーナの頬が、じわりと赤くなった。
「だから、黙っていました。卑怯だったかもしれません」
エミールの声に、初めて、自責の色があった。
「ですが、後悔は、していません」
少し間があった。
「それから、もうひとつ」
エミールは、続けた。
「なぜ今日、話したのか、ということです」
エリアーナは、黙って先を待った。
「今日、使者の前に立つあなたを見ていました。手が震えていた。それでも、一歩も退かなかった」
夕暮れの光が、草原を橙色に染めていた。
「その隣に、ただの学者として立っていることが、できなくなりました。あなたを守れる立場だと、あなた自身に、伝えたかった。本当の意味で、あなたの隣に立てる人間だと」
それは、告白ではなかった。
けれど、告白よりも、もっと直接的な何かだった。
エリアーナは、しばらく、エミールの顔を見ていた。眼鏡のない、夕暮れの光の中の顔を。
「……そうですか」
ようやく、エリアーナは言った。声が、わずかに掠れていた。
◇
しばらく、沈黙が続いた。
夕暮れの風が、草原を渡っていった。
「怒っていますか」
エミールが、静かに聞いた。
エリアーナは、その問いに、すぐには答えなかった。
怒るべきなのかもしれない、と思った。騙されていた、と。
けれど、なぜか、その感情はあまり湧いてこなかった。
代わりに浮かんだのは、別の記憶ばかりだった。
禁書庫の資料を五日かけて持ってきてくれたこと。雨の夜、軒下で「怖いという感覚に馴染みがない」と漏らしたこと。ゴーレムが立ち上がった瞬間、誰よりも近くで見守ってくれていたこと。今日、使者の前で「彼女の意思を覆す権利は、誰にもない」と言い切ったこと。
全部、王子としての義務や計算では、なかった気がした。
「……怒っていません」
ようやく、エリアーナは言った。
「今はまだ、気持ちの整理がついていないだけです」
「それは、当然だと思います」
「少し、考えさせてください」
「もちろんです」
エミールは、それ以上は何も言わなかった。
エリアーナも、何も言わなかった。
二人は並んで、沈みゆく夕日を、しばらく見ていた。




