第十三話 影、近づく
エミールが戻ってきたのは、夕暮れ近くだった。
いつもと変わらない足取りで廃屋に入ってきたが、エリアーナはすぐに気づいた。表情の作り方が、いつもより慎重だった。
「何か分かりましたか」
「……少し」
エミールは木箱に腰を下ろした。すぐには話さなかった。
「教えてもらえますか」
エリアーナが重ねて聞くと、エミールはようやく口を開いた。
「あの旅人たちは、エルシオン王国から来たようです」
息が、止まった。
「エルシオン王国から……バーンシュタイン公爵領、ですか」
「いいえ。王都です。王宮からの使いだと、村人に名乗っていたようです」
エリアーナの手が、無意識に膝の上で握りしめられた。
「目的は」
「……はっきりとは分かりませんでした。ただ、追放された公爵令嬢の動向を確認している、というようなことを、村の何人かに尋ねていたようです」
「私の」
「ええ」
エリアーナは、しばらく黙っていた。
追放されてから、もう何ヶ月も経っている。あれほど自分を厄介払いしたがっていた王宮が、今さら何の用があるというのか。
「……心当たりが、ないわけではありません」
ぽつりと、エリアーナは言った。
「王太子殿下は、私との婚約破棄後、新しい婚約者を立てたと聞いています。でも、その後の評判は、あまり芳しくないとも」
「評判というのは」
「政務の判断ミスが続いている、という噂です。直接確認したわけではありませんが」
エミールは、何も言わなかった。ただ、静かに聞いていた。
「もし、また何か、私に関係のある話だとしたら」
エリアーナの声が、少しだけ小さくなった。
「正直に言うと、戻りたくありません。あの場所には」
「……戻る必要はありません」
エミールの声が、いつになくはっきりとしていた。
エリアーナは顔を上げた。
「あなたが望まない限り、誰にも、あなたをここから連れ戻させはしません」
その言葉には、いつもの飄々とした調子がなかった。確信に満ちた、低い声だった。
「……エミール?」
「すみません」エミールは、少し我に返ったように言った。「言いすぎました」
「いえ」
エリアーナは、首を振った。
「ありがとうございます」
ふたりの間に、しばらく沈黙が流れた。
◇
その夜、レオが事情を聞きつけて、慌てて駆けてきた。
「魔女様、誰か来てるって聞いたんだけど」
「ええ。でも、もう村を出たそうです」
エミールが補足した。
「何の用だったんだ」
「エルシオン王国の様子を、確認しに来たようです」
「魔女様を連れ戻しに来たのか!?」
レオの声が、一段大きくなった。
「そうとは限りません。今のところ、ただの様子見だったようです」
「でも、また来るかもしれないだろ」
「……可能性はあります」
レオは、エリアーナの方を見た。
「魔女様、もし誰か連れ戻しに来たら、俺が追い払ってやるからな」
その言葉に、エリアーナは思わず笑ってしまった。
「ありがとうございます。十歳の騎士様」
「ばかにしてるだろ」
「していません。本当に、心強いです」
レオは少し照れたように、それでも胸を張った。
エミールは、その様子を見ながら、何も言わなかった。
ただ、内心では、別のことを考えていた。
レオの言葉は、子供らしい純粋な決意だった。だが、現実的に、十歳の少年に何ができるわけでもない。もし本当に王宮が彼女を連れ戻そうとするなら、必要なのは、もっと別の力だった。
権力。財力。それから、合法的に動かせる立場。
自分には、その全てがある。
使う気は、これまでなかった。使う理由が、なかったから。
今は、違った。
エミールは静かに、自分の中で何かを決めていた。
もしこの先、彼女を連れ戻そうとする動きが本格化したら、自分はその全てを使う。躊躇なく。
それが正しい判断なのか、それとも単なる独占欲なのか、エミール自身にも、もう判別がつかなかった。
ただ、彼女がここで、この場所で、これからも笑っていられるなら。
それだけで、十分だった。
◇
夜が更けて、レオが帰っていった後、エリアーナは廃屋の前で星を見上げていた。
「眠れませんか」
エミールが、隣に来た。
「少し、考え事をしていました」
「エルシオン王国のことですか」
「……それもありますが」
エリアーナは、少し迷ってから続けた。
「私、あの場所に戻りたくないと言いましたが、それは、ここでの生活が、それだけ大事になったということなんだと、今気づきました」
「……そうですか」
「最初は、ただ自由になりたかっただけでした。誰にも干渉されない場所で、好きなことだけしていられれば、それでいいと思っていました」
星明かりの下、エリアーナの横顔は、穏やかだった。
「今は、違います。レオがいて、村の皆がいて……あなたがいる。それが、いつの間にか、手放したくないものになっていました」
エミールは、しばらく何も言えなかった。
「私も」
ようやく、声を絞り出した。
「同じです」
その短い言葉に、どれほどの意味を込めたのか、エミール自身にも測りかねていた。
エリアーナは、何も言わずに、ただ小さく頷いた。
夜風が、二人の間を静かに通り過ぎていった。




