第十二話 日常という名のほころび
ゴーレムが村に受け入れられてから、森の暮らしは少しずつ、これまでとは違う形になっていった。
毎朝、レオが来る。たまに他の子供たちも一緒に来る。村人が交代で食料を届けてくれるようになり、エリアーナが食事を抜く回数は目に見えて減った。エミールは相変わらず通い続け、研究の合間に資料を運んでくる。
平和、という言葉が、エリアーナにはまだ少し慣れなかった。
王宮にいた頃は、平穏な一日というものが存在しなかった。常に誰かの視線があり、常に立ち振る舞いを計算し、常に孤独だった。
ここには、それがない。
代わりに、賑やかで、雑然としていて、時々うるさくて、でも、不思議と心地よい時間があった。
◇
ある日の午後、エリアーナは古代語の解読をしながら、ふとエミールに尋ねた。
「エミールは、普段どこに住んでいるんですか」
文献から顔を上げず、何気なく聞いたつもりだった。
エミールの手が、一瞬止まった。
「……国境の近くです」
「具体的には」
「……町の中です」
「町の名前は」
「……忘れました」
エリアーナは顔を上げた。
「自分の住んでいる町の名前を、忘れるんですか」
「最近、引っ越したので」
「いつ」
「……最近」
エリアーナはしばらくエミールを見つめた。エミールは文献に視線を戻し、何事もなかったかのように頁をめくった。
「……怪しいです」
「気のせいです」
「気のせいで自分の住所を忘れる人はいません」
「珍しいタイプの人間なので」
その言い訳のあまりの苦しさに、エリアーナは思わず笑ってしまった。
「分かりました、もう聞きません」
「助かります」
手帳の「意図不明」欄が、また一行増えた。
◇
別の日には、もう少し際どい場面があった。
村の祝い事で、エリアーナとエミールとレオが揃って招かれたときのことだ。村長が酒の席で、何気なく言った。
「そういえば、坊ちゃんは、どこの貴族様のお抱えの学者なんだい」
エミールの動きが、一瞬止まった。
「……どこの貴族にも、属していません。独立した研究者です」
「ほう。それにしては、随分と羽振りがいいが」
「貯蓄が多いだけです」
「学者の貯蓄にしちゃ、桁が違いすぎる気もするがね」
その場にいた全員が、何となく不自然な沈黙を共有した。
エリアーナは横目でエミールを見た。
エミールは、表情を変えずに杯を傾けていた。だが、その仕草が、いつもより少しだけぎこちなかった。
「お酒、お強いんですね」
話題を変えるように、エリアーナが言った。
「……それなりに」
「飲み方が、貴族的というか」
「気のせいです」
「また気のせいですか」
「便利な言葉なので」
村長は何かを察したのか、それ以上は突っ込まずに、別の話題に移っていった。エリアーナは、その後もしばらく、エミールの仕草を観察し続けた。
杯の持ち方、姿勢、言葉の端々に滲む教養の深さ。これまで「ただの学者」として見過ごしてきたものが、今日は一つひとつ気になり始めていた。
夜、廃屋に戻ってから、エリアーナは手帳を開いた。
『エミール、貴族的な所作。資金源、不明瞭。学者としての説明に無理が生じ始めている』
書きながら、少し考えた。
正体を、知りたいとは思う。
でも、本人が話したがらないものを、無理に暴くのは違う気がした。
いつか、本人の口から聞けたら。
それでいい、とエリアーナは思っていた。
◇
その安穏とした空気に、最初に影が差したのは、十日ほど経ったある朝だった。
村に、見慣れない旅装の男が二人、現れた。
彼らは村人に何かを尋ねて回っていた。エリアーナが廃屋から出て水を汲みに行く途中、その様子を遠目に見かけた。
「……何の用だろう」
気にはなったが、特に近づく理由もなく、エリアーナはそのまま水場に向かった。
しかし戻ってきたとき、廃屋の前にエミールが、いつになく硬い表情で立っていた。
「どうかしましたか」
「……いえ」
エミールは、村の方角を見ていた。
「村に、旅人が来ているようですね」
「ええ。何か聞いて回っているみたいですけど」
「何を、聞いていましたか」
「分かりません。遠かったので」
エミールは、しばらく黙っていた。
「……少し、調べてきます」
「エミール?」
「すぐ戻ります」
いつものような飄々とした態度ではなかった。エミールは足早に村の方へ向かっていった。
エリアーナは、その後ろ姿を見送りながら、初めて、小さな不安を覚えた。
いつもと違う何かが、近づいてきている気がした。
手帳を開いて、何か書こうとして、ペンが止まった。
書くべき言葉が、見つからなかった。




