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婚約破棄されたので普通の生活を目指します。なお私は剣聖らしいのですが自覚はありません  作者: 翡翠


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第8話 兄からの報告書が届いただけなのに、なぜか戦争前夜みたいな空気になりました

 その日の朝、公爵邸に届いた一通の書状は、見た目こそ何の変哲もないものだった。


 上質な封蝋。

 簡潔な差出人名。


 ――レオニード・アルヴェイン。


 長男からの正式な報告書である。


「来たか」


 執務室で封を切った公爵は、内容を一瞥して眉間に皺を寄せた。


 数行、読み進める。


 さらに皺が深くなる。


「……やはりそう来るか」


 机の向こうに控える家令は、静かに問いかけた。


「旦那様」


「読め」


 短く言って書状を渡す。


 家令は視線を落とし、整った筆致の文面を追った。


 内容は簡潔だった。


 だが、簡潔すぎるほどに明確だった。


――――――――――――


王都における一連の動きについて報告する。


アルヴェイン公爵令嬢の行動が、

市場・騎士団・貴族層に影響を及ぼしていることを確認。


現時点での評価は以下の通り。


・意図的行動の可能性:高

・影響範囲:拡大中

・放置リスク:中〜高


結論:

本件は私的行動の範囲を超えている。

早期に制御または方針確認が必要。


必要であれば王都へ出向く。


――レオニード


――――――――――――


 家令は読み終え、わずかに沈黙した。


「……ご子息らしいご判断でございます」


「真っ当だ」


 公爵は短く言った。


 真っ当。

 極めて合理的。

 そして、完全にズレている。


 問題はそこだった。


「旦那様は、どのようにご対応を」


「放っておけ」


 即答だった。


 家令は一瞬だけ目を瞬いたが、すぐに頷く。


「かしこまりました」


 そう言いながらも、内心では理解していた。


 これはもう、時間の問題だ。


 長男は“閾値”を越えたと判断している。

 つまり、近いうちに必ず動く。


 止めても来る。

 止めなければ、もっと早く来る。


 そしてその頃――


 当の原因であるリリアーナは、庭で穏やかに紅茶を飲んでいた。


「今日は風が気持ちいいわね」


 白い花の鉢が揺れる。


 ミアはその横で、ほんのわずかに緊張した面持ちだった。


「お嬢様」


「なあに?」


「本日、旦那様がお呼びになるかもしれません」


「そうなの?」


「……はい」


 理由は言わない。


 言っても意味がないからだ。


 リリアーナは素直に頷いた。


「分かったわ」


 そして本当に、それ以上は気にしなかった。


 ――数十分後。


「お父様?」


 執務室へ呼ばれたリリアーナは、いつも通り扉を開けた。


 中にいたのは父と家令だけだ。


「座れ」


「はい」


 向かいに腰かける。


 公爵は少しの間、娘を見ていた。


 いつもと同じだ。


 何も変わっていない顔。

 何も企んでいない目。


 だからこそ、外の状況との乖離が際立つ。


「お前に一つ聞く」


「なに?」


「最近、何をした」


 リリアーナは少し考えた。


「お茶会をしたわ」


「それ以外は」


「パン屋さんと花屋さんに行って、エマちゃんとお話しして……あと、商人ギルドの人とも少し」


 すべて事実だ。


 そしてそのすべてが、問題の核心でもある。


「それだけか」


「ええ」


 リリアーナは頷いた。


 公爵は一瞬だけ目を閉じた。


 嘘はない。

 だが説明としては致命的に足りない。


 いや、足りないのではない。

 これが“全部”なのだ。


「これを読め」


 書状を差し出す。


 リリアーナは受け取り、目を通した。


 数秒後。


「……え?」


 顔を上げた。


「なにこれ」


「お前の兄からの報告だ」


「どうしてこんなことになっているの?」


 素直な疑問だった。


 家令は内心で頷いた。


 ええ、本当にそうなりますよね。


「意図的行動って、なに?」

「影響範囲って?」

「制御って?」


 一つ一つ確認するように聞いてくる。


 公爵は短く答えた。


「全部、お前のことだ」


「どうして?」


 即答だった。


 公爵はしばらく沈黙した。


 説明が難しい。


 いや、説明自体はできる。

 だが納得させるのが難しい。


「外から見れば、そう見える」


 結局、それだけを言った。


 リリアーナは首を傾げる。


「でも、私はそんなつもりないわ」


「分かっている」


「なら、どうして?」


「人はそう解釈するからだ」


 それは非常に現実的な答えだった。


 だが、リリアーナには少しだけ遠い。


「……変なの」


 ぽつりと呟く。


 その言葉は、ある意味で核心だった。


 変なのだ。


 本人にとっては。


 だが世界は、そうは動かない。


「お前の兄は、近いうちに来る」


 公爵が言った。


「来るの?」


「ああ」


「どうして?」


「止めに来る」


「……私を?」


「そうだ」


 リリアーナは少しだけ考えた。


 止める。


 何を?


 自分は特に何かをしているつもりはないのに。


「……困るわね」


 小さく呟いた。


 その一言に、公爵は少しだけ眉を動かす。


「何がだ」


「お兄様に怒られるのは、あまり好きじゃないもの」


 その理由だった。


 政治でも、権力でも、責任でもない。


 ただ「怒られたくない」。


 家令は視線を伏せた。


 ええ、そうなりますよね。


 一方で、公爵は深く息を吐いた。


「いいか」


 低く言う。


「来たら、余計なことは言うな」


「余計なこと?」


「そうだ」


「例えば?」


「……」


 公爵は一瞬言葉に詰まった。


 何を言っても余計なことになる可能性がある。


 それが一番の問題だ。


「とにかく、話を合わせろ」


「分かったわ」


 リリアーナは素直に頷いた。


 だが。


 その“話を合わせる”の意味も、たぶん少しズレている。


 その頃、領地では。


 レオニード・アルヴェインが机に向かっていた。


 報告書は既に複数揃っている。


 騎士団からのもの。

 商人ギルドの動き。

 王都貴族の反応。


 すべてを統合した結論は一つだった。


「閾値を超えた」


 静かに言う。


 側近が緊張した面持ちで頷く。


「王都の均衡に影響が出始めております」


「分かっている」


 レオニードは迷わなかった。


 判断は早い。


 合理的であるがゆえに。


「王都へ行く」


「は」


「直接確認する」


 それが最適解だった。


 間接情報では限界がある。


 本人と話すしかない。


 だが、その“本人”が最も不確定要素であることを、彼はまだ完全には理解していなかった。


「準備を」


「は」


 側近が動く。


 レオニードは一人、窓の外を見た。


 風が吹いている。


 領地はいつも通りだ。


 安定している。


 制御されている。


 だからこそ、王都の“異常”が際立つ。


「……何をしている、リリアーナ」


 妹の名を、静かに呼んだ。


 その声には、わずかな苛立ちと、わずかな警戒が混じっていた。


 一方その頃、王都では。


 リリアーナがミアと一緒に花の水替えをしていた。


「この花、少し伸びた気がするわ」


「そうでございますね」


「ちゃんと育ってくれているのね」


 嬉しそうに笑う。


 その横顔は、何も変わっていない。


 だがその裏で。


 騎士団は警戒を強め、

 商人ギルドは対応を協議し、

 そして領地からは長男が動き出した。


 すべてが、少しずつ動き始めている。


 それでもリリアーナは、穏やかに言った。


「明日は、もう少し静かだといいのだけれど」


 その願いが叶うことは、たぶんない。

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