第7話 商人ギルドに呼ばれたわけではないのに、なぜかこちらが上位者みたいになっていました
翌朝、アルヴェイン公爵邸の空気は、見た目には普段と変わらなかった。
使用人たちは静かに動き、庭師はいつも通り花壇を整え、廊下には磨かれた床が淡く朝の光を映している。だが、家の中で働く者たちは皆うっすら察していた。
今日は何かがある。
理由は簡単だ。
昨日の小さなお茶会のあと、商人ギルドから公爵家へ正式な面会依頼が入ったからである。
もちろん、リリアーナ本人はその“何かがある”の中心人物であるにもかかわらず、あまり深くは考えていなかった。
「お父様は、今日は朝から機嫌が少し悪いのかしら」
朝食の席で、パンへナイフを入れながらそう呟く。
向かいに座る公爵は、手元の書状から視線も上げずに答えた。
「悪くない」
「でも、眉間に皺があるわ」
「元からだ」
「そうだったかしら」
リリアーナは首を傾げる。
ミアは背後で、なるべく気配を消しながら心の中だけで頷いた。
元からではない。
明らかに、昨日の件からである。
商人ギルドというのは、王都の流通と取引を束ねる巨大な組織だ。公爵家に直接物申すこと自体は不可能ではないが、よほどの理由がなければそうしない。まして今回は、公爵その人ではなく、公爵令嬢の“ご意向”を伺いたいという形になっている。
穏やかで済む話ではない。
だが当の娘は、スープを口にしながら不思議そうだった。
「私、呼ばれるようなことをした覚えがないのだけれど」
「それはそうだろうな」
公爵が低く言う。
「お前は、いつもそうだ」
「どういう意味?」
「そのままの意味だ」
リリアーナは少し考えたが、結局よく分からなかった。
自分としては、昨日もお茶を飲みながら話を聞いただけである。粉の値段が上がっているとか、薬草の仕入れが厳しいとか、運ぶ人が足りないとか、そういう話を聞いて「それは大変ね」と思っただけだ。
どうしてそれで商人ギルドが出てくるのか、本気で分からない。
「とにかく」
公爵は書状を机に置いた。
「今日はギルドの代表がこちらへ来る」
「こちらへ?」
リリアーナは目を瞬いた。
「私たちが行くのではなくて?」
「行かん」
即答だった。
「向こうが聞きたいと言うのなら、向こうが来るのが筋だ」
その答えは公爵としては当然だった。家格も立場も、そして今回の申し入れの経緯も、すべて考えれば公爵家が出向く必要はない。
だがリリアーナとしては、そこまでのことかと思ってしまう。
「でも、お話をするだけでしょう?」
「その“お話”が面倒なんだ」
父の率直すぎる物言いに、リリアーナは少しだけ笑った。
「お父様、最近よく面倒って言うわね」
「お前の周りで起きることは、大体面倒だ」
「ひどいわ」
「事実だ」
そう言いつつも、公爵の声音はどこか甘かった。
本気で責めているわけではないのだと分かるから、リリアーナも深刻には受け取らない。
ただ、ミアは思った。
旦那様もだいぶ諦めておられる。
お嬢様の“普通にしたい”が普通に終わらないことを、もう前提で考えている。
昼前。
公爵邸の応接室には、重すぎず、かといって軽すぎもしない絶妙な緊張感が漂っていた。
来訪したのは、商人ギルド副会頭のロベルト・ヴァイス。五十代前半、痩せ型で、髪には少し白いものが混じっている。目は鋭いが、声は柔らかい。王都でも相当にやり手として知られる人物だった。
そのロベルトが、今は公爵の前で一分の隙もない礼を取っている。
「本日はお時間を賜り、誠にありがとうございます」
「構わん」
公爵は短く答えた。
その横にはリリアーナも座っている。
ロベルトは一瞬だけ彼女へ視線を向けた。
そして心の中で、昨日まで耳にしていた噂がまったく誇張ではなかったことを理解した。
美しい。
あまりに美しい。
ただ整っているというだけではない。座っているだけで場の空気がそちらへ寄っていくような、不思議な存在感がある。
しかも視線にはきつさがなく、むしろ穏やかだ。
穏やかであるはずなのに、こちらが勝手に姿勢を正したくなる。
これが、あのアルヴェイン公爵令嬢。
市場介入の疑い。
民心掌握の噂。
騎士団すら警戒する武。
そして、本人はおそらくそのどれも自覚していない。
噂の段階では笑い飛ばせる部分もあったが、こうして実際に対面すると、かえって笑えない。
「副会頭殿」
公爵が低く呼ぶ。
「今日は、何を聞きに来た」
ロベルトは意識を戻した。
「単刀直入に申し上げます。昨日の茶会にて、令嬢様が王都の流通、生活物資、庶民向け薬品の価格と供給について関心を示されたと伺いました」
「関心を示したというほどでは……」
リリアーナが思わず口を挟む。
「ただ、お話を聞いていただけよ」
ロベルトはその言葉に、逆に背筋が伸びた。
ただ話を聞いただけ。
だが、それでギルドがこうして動いている。
それがどれほどの重さを持つのか、この令嬢は本当に分かっていないのだろう。
「そのうえで」
ロベルトは慎重に続けた。
「公爵家として、今後、市場価格や流通経路に何らかのご関心、あるいはご意向がおありなのかを確認したく」
「ないわ」
リリアーナは即答した。
あまりに即答だったので、ロベルトは一瞬言葉を失った。
「……ない、のでしょうか」
「ええ」
リリアーナはきょとんとしている。
「私は、皆が困っているなら大変だと思っただけで、何かを動かしたいとか、そういうことではないもの」
ロベルトは内心で混乱した。
ない。
意向はない。
市場操作の意図も、何かの布石もない。
だが、ここでそれをそのまま信じてよいのか?
本当に?
商人という生き物は、“何も考えていません”を額面通りには受け取らない。なぜなら、何も考えていないように見せかける者ほど時に危険だからだ。
しかし目の前の令嬢は、少なくとも表情だけを見れば本当にそう言っているようにしか見えない。
「では」
ロベルトは慎重に言葉を選ぶ。
「昨日、商人や薬師の話を聞かれたのは、純粋なご興味から、ということで……?」
「そうよ?」
また即答だった。
「だって、知らなかったの。皆が毎日どういうことで困るのかとか、どういう工夫をしているのかとか。知っていた方が、街でお買い物をする時にも見え方が変わるでしょう?」
応接室が、しんと静まる。
その理由は二つあった。
一つは、その発想があまりにも率直だったこと。
もう一つは、その率直さが妙に本質を突いていたことだ。
市場や流通というのは、結局のところ誰かの生活そのものにつながっている。数字や取引高だけを見ても、本当に何が必要かは見えにくい。だから現場の話を聞くのは、理屈の上では正しい。
しかもこの令嬢は、それを“街での見え方が変わる”という柔らかい言葉で言った。
あまりにも自然に。
あまりにも綺麗に。
ロベルトは数秒遅れて口を開いた。
「……なるほど」
声が少し低くなる。
「生活者の目線、ということですか」
「せいかつしゃ?」
「日々を暮らす者としての視点、という意味でございます」
「そうね。たぶん、それに近いわ」
リリアーナは素直に頷いた。
そのやり取りを横で聞いていた公爵は、内心で遠い目になっていた。
違う。
そういう立派な話にする気は、この娘にはまったくない。
今のは本当に、「知った方が買い物が楽しいでしょう?」くらいの感覚でしかないのだ。
だが、ロベルトはもう別の段階へ入りつつあった。
「令嬢様」
彼は少しだけ身を乗り出した。
「差し支えなければ、お考えをもう一つだけ伺ってもよろしいでしょうか」
「なに?」
「仮に、日々必要なもの――たとえばパンや薬のように、毎日の暮らしに直結するものが値上がりし、民の負担が増え続ける場合、どうあるのが望ましいとお思いになりますか」
それは商人ギルド副会頭としての問いだった。
単なる雑談ではない。
相手の思想、価値基準、優先順位を測る問いである。
ミアは小さく息を詰めた。
公爵は止めなかった。止めたところで、今さら流れは変わらないと知っているからだ。
リリアーナは少しだけ考えた。
難しい問いだった。
自分は商人ではないし、国を預かる立場でもない。だから軽々しく断じるべきではないとも思う。
それでも、もし“どうあるのが望ましいか”と聞かれたなら。
「皆が、ちゃんと買えるのが一番いいと思うわ」
静かな声で、そう答えた。
「お店の人も無理をしすぎず、買う人も我慢しすぎなくて、それで続いていくのがいいでしょう?」
また、静寂。
ロベルトは完全に言葉を失った。
それは理想論だ。
綺麗事だ。
商売の現場ではそんなに簡単ではない。
そう言おうと思えば言える。
だが同時に、それ以上なく正しい“方向”でもあった。
結局のところ、流通も価格も、続かなければ意味がない。売る側が潰れても駄目で、買う側が買えなくなっても駄目だ。その均衡の上にしか市場は成り立たない。
そしてこの令嬢は、そこを感覚的に言い当てた。
しかも一切の構えなく。
「……令嬢様」
ロベルトは、知らず声を低くしていた。
「それは、非常に難しい均衡でございます」
「そうでしょうね」
リリアーナは素直に頷く。
「だから皆、大変なのだと思うわ」
その返しがあまりにもまっすぐで、ロベルトは一瞬だけ目を閉じた。
敵わない、と思った。
交渉の場ではない。
圧迫されてもいない。
それなのに、自分の方が勝手に誠実であらねばならない気持ちにさせられている。
この方の前で、小細工をするのはひどく浅ましいことに思えてしまう。
それは美貌のせいか、家格のせいか、それとも噂通り、人の心を動かす何かを本当に持っているのか。
ロベルトには分からなかった。
ただ一つ分かったのは、ここで曖昧な返しをして帰るべきではない、ということだ。
「承知いたしました」
彼は背筋を正した。
「本日は、ギルドとして令嬢様のお考えを確認したく参りましたが……十分に伺えました」
「そう?」
「はい」
ロベルトは深く一礼した。
「少なくとも、王都の商いが誰かの暮らしの上に成り立っていることを、あらためて考える必要があると理解いたしました」
「それなら、よかったわ」
リリアーナは少しだけほっとしたように微笑んだ。
その笑みに、ロベルトはまた奇妙な圧を感じた。
話はまとまった。
いや、まとまったというより、こちらが勝手に持ち帰るべきものを持ち帰ったという方が正しい。
なのに、まるで上位者から静かに許されたような気分になるのはなぜなのか。
リリアーナは何もしていない。
むしろただ話しているだけだ。
それなのに。
応接室を出たあと、ロベルトは廊下で待っていた家令に案内されながら、思わず小さく息を吐いた。
「副会頭殿」
家令が何気なく声をかける。
「本日はありがとうございました」
「……いえ」
ロベルトは少しだけ苦笑した。
「むしろ、こちらが学ばせていただきました」
その言葉は半ば本心だった。
家令は表情を崩さなかったが、内心では深く頷いていた。
ええ、皆さまそうおっしゃいます。
そしてお嬢様は、その意味を一番分かっておられません。
一方その頃、応接室に残されたリリアーナは、父を見ていた。
「終わったわね」
「ああ」
「思っていたより普通のお話だったわ」
公爵はしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「お前にとってはな」
「……またそういう言い方」
「事実だ」
リリアーナは少しだけ唇を尖らせる。
「私、何か変なことを言ったかしら」
「言っていない」
公爵は即座に否定した。
「そこが厄介なんだ」
「どうして?」
「正しいことを、変に飾らず言うからだ」
それは珍しく、かなり本音に近い言葉だった。
リリアーナは目を瞬く。
「褒めているの?」
「半分はな」
「残り半分は?」
「面倒を呼ぶな、という話だ」
結局そこへ戻るのか、とリリアーナは少しだけ笑ってしまった。
その日の午後。
商人ギルド本部では、ロベルト・ヴァイスが幹部たちを前に報告を行っていた。
「結論から申し上げる」
彼は机の上に書簡を置いた。
「アルヴェイン公爵令嬢に、市場介入の明確な意図は見られない」
幹部の一人がほっとしたように息を吐く。
だがロベルトは続けた。
「ただし」
その一言で、場が引き締まった。
「意図がないことは、軽視してよいという意味ではない」
「どういうことだ」
「ご本人にそのつもりがなくとも、周囲は動く」
ロベルトは静かに言い切った。
「しかも、かなり大きく、だ」
それはまさに今起きていることだった。
白鹿亭での買い物。
薬師の娘への対応。
小規模な茶会。
どれも本来なら小さな出来事でしかない。
だが相手がアルヴェイン公爵令嬢であるというだけで、市場は意味を探し始め、人は意図を読み取り始め、組織は反応し始める。
つまり、存在そのものが影響力になっている。
「では、どう対応すべきだ」
別の幹部が問う。
ロベルトは迷わず答えた。
「注視する。ただし、過剰に警戒して敵を作るな」
「……要人扱いか」
「それに近い」
誰かが小さく呟く。
「まるで、公爵令嬢がもう一つの勢力だな」
その言葉に、誰もすぐには否定できなかった。
一方その頃、騎士団の詰所でも似たような会話が交わされていた。
「商人ギルドが、公爵令嬢を“注視対象”にしたらしい」
若い騎士が絶句する。
「またですか」
「まただ」
「今度は何をなさったんです」
「普通に話しただけらしい」
「……もうその“普通”が信用できません」
その感想は、たぶん正しい。
そしてその日の夕方、リリアーナ本人は庭を散歩しながら、ミアへこう言っていた。
「商人ギルドの人、思っていたより話しやすい人だったわ」
「左様でございますか」
「ええ。もっと怖い人かと思っていたのだけれど」
ミアは少しだけ迷ってから答える。
「向こうも、たぶん同じことを思われたかと」
「同じこと?」
「思っていたより……お嬢様が話しやすい方だと」
それは半分だけ正しかった。
話しやすい。
だが、怖くないわけではない。
むしろ、話しやすいのに深く刺さるから余計に怖い。
そういう手合いだと、会った者から順に気づいていく。
「それなら、よかったわ」
リリアーナは本当に安心したように微笑んだ。
今日もまた、自分は平穏に一日を終えられた、と思っている顔だった。
だが王都では、すでにこんな噂が流れ始めている。
――アルヴェイン公爵令嬢と商人ギルドが接触した。
――しかもギルド側が、一歩引いたらしい。
――市場も騎士団も、あの方を無視できなくなっている。
――いよいよ、王都の勢力均衡が変わるのではないか。
もちろん、そんなことになっているとは、リリアーナは知らない。
彼女はただ、窓辺の白い花を見て、小さく呟いただけだった。
「明日は、もう少し静かな一日だといいのだけれど」




