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婚約破棄されたので普通の生活を目指します。なお私は剣聖らしいのですが自覚はありません  作者: 翡翠


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第6話 平穏にお茶会をしたいだけなのに、なぜか勢力均衡の話になりました

 騎士団長レオンハルトが屋敷を訪れてから三日後。


 アルヴェイン公爵邸では、珍しくリリアーナ自身の希望による小さなお茶会が開かれることになっていた。


 もっとも、社交界でよくあるような大仰なものではない。


 本当にごく内輪の、静かな席である。


 招かれたのは、花屋の老婦人から紹介を受けた薬師の女性と、その娘のエマ。そして白鹿亭の店主夫妻。要するに、ここ数日の街歩きで関わった人々だった。


 きっかけは単純だ。


 あの日、エマのことを思い出したリリアーナが、ふとこう言ったのである。


「せっかくなら、ゆっくりお話ししてみたいわ」


 その一言で、ミアは嫌な予感を覚えた。


 公爵は頭を抱えかけた。


 だが当の父親は、最終的には止めなかった。


 娘が本当に楽しそうに街の話をするのを聞いてしまえば、強く反対する気も失せる。しかも婚約破棄以降、リリアーナが以前よりずっと自然に笑うようになったのは、家の誰の目にも明らかだった。


 ならば、小規模で、安全を万全にしたうえでなら、と折れたのである。


「ただし、外へは漏らすな」


 それが公爵の出した条件だった。


「大々的な招待ではない。あくまで非公式だ。うちの庭で茶を飲む、それだけにしておけ」


「ありがとう、お父様」


 娘にそんな顔で微笑まれてしまえば、たいていの父親はもう勝てない。


 そして今、その“それだけ”のお茶会の準備が、庭の東屋で進んでいた。


 白いクロスのかかった丸卓。焼き菓子、小さな果実のタルト、茶葉の香りがよい紅茶。花屋の老婦人が見立てた季節の花まで飾られている。


 リリアーナはそれを眺めながら、満足そうに頷いた。


「これなら、きっと皆も緊張しないわよね」


「……そうでございますとよろしいのですが」


 ミアの返答は控えめだった。


 緊張するに決まっている。


 相手は公爵家だ。しかも招いたのは、最近王都で妙な噂になりつつある公爵令嬢その人である。白鹿亭の店主も、薬師の女性も、表向きは落ち着いて返事をしていたが、使者が行った際にはかなり動揺していたらしい。


 しかしリリアーナは、そこまで思い至っていない。


 自分としては、ただ知り合った人にもう少しゆっくり会いたい、それだけなのだ。


 しばらくすると、最初の客が到着した。


 薬師の女性――マルタと、その娘エマである。


 案内されて東屋へ来た親子は、やはりひどく緊張していた。マルタは簡素ながらきちんとした服を着ているし、エマも一番よそいきらしいワンピースを着せてもらっている。けれど、広い庭と整えられた生垣、公爵家の使用人たちの静かな動きに圧倒されているのは隠せなかった。


「あ……」


 エマが最初に気づいた。


「お姉さん」


 その呼び方に、傍らのマルタが青ざめる。


「エマ!」


「いいのよ」


 リリアーナは笑って手を振った。


「来てくれてありがとう、エマちゃん」


 その一言で、親子の肩の力がほんの少し抜けた。


 続いて白鹿亭の店主夫妻も現れる。こちらもまた、表情は強張っていた。招待の理由が分からないのだろう。高位貴族家から突然お茶に呼ばれれば、何かの意図を疑うのが普通だ。


 だがリリアーナは、本当に嬉しそうだった。


「お会いできてよかったわ。あの日のお礼もきちんと言いたかったの」


「お、お礼、でございますか?」


 白鹿亭の店主が目を白黒させる。


「ええ。とても美味しいパンだったもの」


 あまりにも素直にそう言われて、店主夫妻は返す言葉を失った。


 そこへさらに、花屋の老婦人までやってきたことで、東屋の空気は少しだけ和らいだ。顔見知りが増えれば、人は多少落ち着けるものだ。


 とはいえ、“公爵令嬢主催の非公式茶会”という事実の重さは消えない。


 席についた面々は、最初こそどこかぎこちなかった。


 だがリリアーナは、そうした空気すら不思議に思っているようだった。


「どうぞ、楽にしてくださいな」


 にこやかにそう言う。


 その言葉自体は優しい。だが、“楽にしてください”と言われて本当に楽にできる相手ではない、という根本的な問題がある。


 それでも、最初に場を崩したのはエマだった。


「これ、お花?」


 テーブルに飾られた小さな花へ目を向ける。


「そうよ」


 リリアーナが嬉しそうに答える。


「この前、花屋さんで見つけたの。丈夫で長く咲くんですって」


 すると花屋の老婦人が、少し誇らしげに胸を張った。


「世話もしやすいからねえ。お嬢さん、ちゃんと水やりしてるかい?」


「しているわ。毎朝見ているの」


 その会話を聞いていたマルタが、ようやく小さく笑った。


「……本当に、お好きなのですね」


「ええ。街で見つけたものって、なんだか特別に感じるの」


 その自然な言葉に、少しずつ周囲も返事をし始める。


 白鹿亭の店主は、新しく試している木の実入りの生地の話をした。マルタは薬草の乾かし方次第で香りが変わることを話した。花屋の老婦人は、今年は春先の陽気が早くて仕入れの花の開きも早いと教えてくれた。


 リリアーナは、それらを一つ一つ本当に楽しそうに聞いた。


「まあ」

「それは知らなかったわ」

「どうしてそうなるの?」

「すごいのね」


 相槌に嘘がない。


 興味そのものがまっすぐだ。


 だから、語る側もつい言葉が増える。


 白鹿亭の店主は気づけば、普段なら商売相手にしか話さない粉の仕入れの苦労まで話していたし、マルタも薬草の質が年によって変わる難しさを語っていた。


 そして、それがまずかった。


 正確には、まずくはないのだが、後で解釈する者たちにとってはあまりに都合がよすぎたのである。


 というのも。


 この茶会には、公爵家として当然ながら最低限の警備が敷かれていた。庭の周囲には視線を通しにくい位置取りで護衛が配置され、来客の出入りも記録されている。


 さらに、公爵本人は姿を見せていないものの、屋敷の別棟から様子を確認していた。


 つまり、情報が全く漏れないわけではない。


「旦那様」


 家令が低く声をかける。


 別棟の窓辺に立つ公爵は、遠目に娘の様子を見ていた。


「なんだ」


「今のところ、特に問題はございません」


「そうか」


 答えつつ、公爵はわずかに目を細める。


 問題があるとすれば、娘が楽しそうすぎることだろうか。


 庭の東屋で、平民相手にあそこまで自然に笑う高位令嬢など、そうそういない。いや、いないからこそ困るのだ。


「旦那様は、お止めにならなくてよろしかったのですか」


「止めてもどうせやる」


「左様で」


「それに……」


 公爵はそこで言葉を切った。


 娘が笑っている。

 それだけで、今は十分だった。


 その頃、東屋ではエマがクッキーを前に目を輝かせていた。


「これ、食べてもいいの?」


「もちろんよ」


 リリアーナが勧める。


「気に入ったら、帰りにも少し持っていって」


 エマはぱあっと顔を明るくした。


 それを見たマルタが、慌てて頭を下げる。


「そんな、とんでもないです」


「とんでもなくないわ」


 リリアーナは首を傾げる。


「美味しいものは、分けた方が嬉しいでしょう?」


 あまりに真っ直ぐな言い方だった。


 マルタは一瞬だけ目を潤ませ、それから小さく「……ありがとうございます」と答える。


 白鹿亭の店主夫妻も、花屋の老婦人も、そのやり取りを見ていた。


 この令嬢は本当に、そう思っているのだ。


 恩を売るでもなく、立場を示すでもなく、ただ“分けた方が嬉しい”という理由でそう言う。


 その無垢さに近い感覚が、逆に恐ろしいほど人の心へ入ってくる。


「そうだわ」


 リリアーナはふと思いついたように顔を上げた。


「皆さんのお話、もっと色々聞きたいの。街のことも、お仕事のことも」


 白鹿亭の店主が、反射的に居住まいを正す。


「……私どもの、話をですか」


「ええ」


「なぜ、また」


「だって、面白いもの」


 答えは即座だった。


「私は今まで、知らないことが多かったの。街でどういうものが売れているのか、どういうことで皆が困るのか、どんなふうに工夫して毎日を回しているのか……そういうの、ちゃんと知りたいわ」


 それはリリアーナにとって、ごく自然な欲求だった。


 普通の日常を知りたい。

 だから普通に暮らしている人の話が聞きたい。


 その程度の意味しかない。


 だが。


 店主夫妻とマルタは、一瞬だけ互いに視線を交わした。


 花屋の老婦人だけは「この子は本当にそういう子なんだろうねえ」とでも言いたげな顔をしていたが、商いをしている者と、日々の暮らしの綱渡りを知る者はそう簡単に受け取れない。


 高位貴族家の令嬢が、

 街の流通、

 庶民の困りごと、

 日々の工夫に関心を示す。


 その意味を、どうしても考えてしまう。


 市場の実態把握。

 民の困窮の把握。

 生活基盤の観察。


 そんな言葉が、頭のどこかに浮かぶ。


「……なるほど」


 白鹿亭の店主が、つい呟いた。


「やはり、そういうことでしたか」


「え?」


 リリアーナが首を傾げる。


 店主ははっとしたが、もう遅かった。


「い、いえ! その……お嬢様は、街の実情をお知りになりたいのかと」


「ええ、そうよ?」


 にこやかに肯定される。


 その瞬間、マルタの背筋が伸びた。


 白鹿亭の店主夫妻も、花屋の老婦人すら目を丸くする。


 あっさり認めた。

 街の実情を知りたいと。

 しかも公爵家の庭で、非公式に、自分たちを呼んだうえで。


 リリアーナはもちろん、まったく別の意味で言っている。


 だが聞く側はもう違った。


「でしたら」


 マルタが慎重に口を開く。


「もし、お耳に入れてよろしいのでしたら……この春は薬草の仕入れ値が少し上がっておりまして」


 そこから先は早かった。


 白鹿亭の店主が粉の値上がりを話し、花屋の老婦人が運び手不足を話し、マルタが庶民向けの薬の値付けの苦しさを話し始める。


 リリアーナはそれを「なるほど」「そんなことが」「大変なのね」と真剣に聞く。


 そして時折、ぽつりと感想を漏らす。


「毎日使うものが高くなるのは困るわね」

「運ぶ人が足りないなら、届くのも遅れるのね」

「必要な薬が高いと、我慢してしまう人もいるのかしら」


 どれも、ただの感想だった。


 ただの感想のはずなのに、東屋の空気はだんだん妙な熱を帯びていく。


 この方は、本気で聞いている。


 そして聞くだけでなく、ちゃんと困りごとの本質を拾っている。


 そんな確信めいたものが、場に広がり始めていた。


 ミアはその様子を見ながら、静かに頭痛を覚えていた。


 ああ、これは駄目だ。

 完全に駄目な流れだ。


 お嬢様はたぶん、心から楽しく会話しているだけだ。


 でも相手はもう、“楽しい雑談”として受け取っていない。


 これはたぶん、

 お茶会ではなく、

 非公式の意見聴取会になっている。


「お嬢様」


 ミアがそっと声を挟もうとした、その時だった。


 東屋の外から、家令が足早に近づいてくる。


「失礼いたします」


 その声で、場が少し引き締まる。


 リリアーナが振り返る。


「どうしたの?」


「旦那様より、お伝えすることがございます」


 家令は一礼しつつ、しかしその視線はわずかに困惑していた。


「……商人ギルドより、公爵家へ面会の申し入れがございました」


 一同が固まる。


「商人ギルド?」


 リリアーナだけが不思議そうに聞き返した。


「はい」


 家令は淡々と続ける。


「本日のお茶会の件を受け、王都における流通と物価について、ぜひ一度ご意向を伺いたい、と」


 沈黙。


 重い沈黙だった。


 白鹿亭の店主の顔から血の気が引き、マルタはカップを持つ手を固め、花屋の老婦人だけが「ほら見たことか」というように目を細めた。


 ミアは目を閉じた。


 やはり来た。

 最悪ではないが、かなり面倒な方向へ来た。


 別棟の窓辺で話を聞いていた公爵は、とうとう片手で額を押さえていた。


 一方、リリアーナはと言えば。


「……どうして?」


 本気で分かっていなかった。


 なぜお茶を飲んでいただけで、流通と物価の話になるのか。


 エマが不安そうにリリアーナを見上げる。


「お姉さん、まずいことしちゃった?」


「いいえ、全然」


 リリアーナはすぐに微笑んで、エマを安心させた。


「大丈夫よ。ちょっと皆が考えすぎているだけだわ」


 その台詞に、その場にいた大人たち全員が、同時に別方向を見た。


 誰も反論できなかったのである。


 なぜなら、たぶんそれが一番正しいからだ。


 ただし。

 正しいからといって、

 世の中がそのまま通ってくれるとは限らない。


 家令が控えめに続ける。


「旦那様は、お茶会をそのまま続けるようにと仰せです」


「そう」


 リリアーナは少し安心した。


「なら、よかったわ」


 その反応を見て、店主夫妻とマルタは改めて理解した。


 この令嬢は、今の報告の意味を本当に分かっていない。


 いや、分かっていないというより、関心の重心が違うのだ。


 ギルドが動いた。

 貴族家が注目される。

 そんなことより、今ここで皆が楽しくお茶を飲めるかの方が大事なのだろう。


 それがひどくおかしくて、そして恐ろしいほど強い。


「……続けましょう?」


 リリアーナがそう言うと、エマがほっとして頷いた。


 その無邪気さに、場も少しだけ和らぐ。


 けれど、この日の出来事はもう、ただの小さなお茶会では済まなくなっていた。


 夕方には王都のいくつかの場所で、こう囁かれることになる。


 ――アルヴェイン公爵令嬢が、商人と薬師を私的に招いた。

 ――生活必需品の流通と価格について、非公式に聞き取りを行ったらしい。

 ――しかも商人ギルドが即日反応した。

 ――あれはもう、ただの令嬢の遊びではない。


 そして騎士団の詰所でも、報告を聞いた若い騎士が呆然としていた。


「また、あの方ですか……」


 同僚が苦い顔で頷く。


「今度はお茶会だ」

「お茶会で、どうして商人ギルドが動くんです」

「知らん。だが動いた」


 若い騎士は頭を抱えた。


 武で騒がれ、

 市場で誤解され、

 民衆に好かれ、

 今度は経済にまで触れ始めた。


「……本当に、何者なんですか」


 その問いに、同僚は小さく肩をすくめた。


「本人だけが、一番知らないんじゃないか」


 その推測は、たぶん正しかった。


 なぜならその日の夜、リリアーナは父に向かって真剣な顔でこう尋ねていたからである。


「お父様」


「なんだ」


「私、本当に平穏に暮らせるのかしら」


 公爵は数秒黙ったあと、低く答えた。


「お前が諦めなければ、たぶんな」


「それ、少し怪しい言い方だわ」


「気のせいだ」


 気のせいではなかったが、公爵はそれ以上言わなかった。


 娘が目指しているのが、ただの平穏だということは分かっている。


 そして、その“ただの平穏”がどういうわけか王都の均衡を揺らし始めていることも、また分かっていた。


 リリアーナは納得しきれない顔をしつつも、窓辺の白い花へ水をやった。


 今日も花は静かに揺れている。


 その揺れだけを見れば、確かに平和だった。


 少なくとも、彼女の部屋の中では。

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