第5話 騎士団長が会いに来たのに、なぜか求婚より重い空気になりました
リリアーナがエマと出会ってから二日後のことだった。
アルヴェイン公爵家の屋敷は、その日も朝から静かだった。
王都の中心部から少し離れた高台に建つ公爵邸は、広い庭と古い石造りの本館を備えた由緒ある屋敷である。使用人たちは無駄なく動き、廊下には余計な足音一つ響かない。外から見れば厳格そのものの名門貴族の家だ。
だが、その一角――南向きの陽当たりのよい一室だけは、わりと穏やかな空気に包まれていた。
窓辺には白い小花の鉢が置かれ、そのそばの長椅子ではリリアーナが本を読んでいる。
膝の上に開かれたのは、旅の記録をまとめた本だった。遠い地方の風習や食べ物、街道沿いの村の様子などが書かれていて、とても面白い。行ったことのない土地の話を読むたびに、世界は思っているよりずっと広いのだと実感できる。
ページをめくりながら、リリアーナは小さく息をついた。
「いつか、本当に行ってみたいわ」
その呟きに、傍らで紅茶を注いでいたミアが手を止める。
「王都の外、でございますか?」
「ええ。こうして読むだけでも楽しいけれど、やっぱり自分の目で見てみたいもの。地方の市場や、港町や、山の麓の村なんかも」
夢を見るような声音だった。
婚約者という立場で過ごしていた頃のリリアーナは、あまりこういう話を口にしなかった。王妃教育と社交で一日のほとんどが埋まり、自分のためだけの願望を言葉にする余裕がなかったからだ。
だが今は違う。
もちろん婚約破棄にまつわる家同士の調整や社交界の余波が消えたわけではない。けれど少なくとも、未来の王妃として“あるべき姿”に自分を押し込める必要はなくなった。
その変化は、本人が思う以上に大きかったのだろう。
ミアはやわらかく微笑んだ。
「お嬢様でしたら、どこへ行かれても歓迎されるかと存じます」
「そうかしら?」
「……歓迎、はされるでしょう」
その言い方に、リリアーナは少しだけ首を傾げた。
どうもミアは、最近なにか含みのある言い方をすることが増えた気がする。けれど問い返しても、たいていは「何でもございません」と返されてしまうので、深く考えないことにしていた。
その時、控えめなノックが響いた。
「お嬢様、旦那様がお呼びです」
執事の声だった。
リリアーナは本を閉じる。
「お父様が?」
「はい。客人がお見えでございます」
客人。
その言葉に、ミアの眉がわずかに動いた。
現在のアルヴェイン公爵家には、それなりに来客が多い。婚約破棄の件で探りを入れたい貴族もいれば、今後の王家との距離感を見極めたい者もいる。だが、公爵がわざわざ娘を呼ぶとなれば、ただの表敬訪問ではないだろう。
リリアーナ自身はあまり深く考えず、すっと立ち上がった。
「分かったわ」
数分後。
応接室の扉が開かれた瞬間、リリアーナは中の空気が少し張っていることに気づいた。
部屋の中央には父――アルヴェイン公爵が座り、その向かいには濃紺の軍装を纏った長身の男がいた。
王国騎士団長、レオンハルト・ヴァルツ。
夜会の場で、意味深な問いを投げかけてきたあの人物である。
灰色の瞳が、こちらを向いた。
その視線は鋭い。だが、敵意ではない。むしろ、ひどく真剣で、慎重で、何かを測ろうとするような目だった。
リリアーナは一礼する。
「ごきげんよう、レオンハルト卿」
「ごきげんよう、リリアーナ様」
立ち上がって礼を返す所作は、軍人らしく無駄がなく整っていた。
父が軽く顎をしゃくる。
「座れ」
「はい、お父様」
向かいの席へ腰かけると、レオンハルトが一瞬だけ視線を落とし、それから口を開いた。
「本日は突然の訪問、失礼いたしました」
「構わん」
答えたのは公爵だ。
「どうせお前は、書状で済ませる気はなかっただろう」
それはやや棘のある言い方だった。
だがレオンハルトも気を悪くした様子はない。
「ええ。私自身の目で確認したいことがありましたので」
その言葉に、リリアーナはまた少し首を傾げる。
確認したいこと。
自分に何かあっただろうか。
公爵は娘の反応を見て、内心で小さくため息をついた。
この娘は本当に、自分が人からどう見られているかに頓着がない。いや、頓着がないというより、そもそも基準がずれている。だからこうして騎士団長が直々に来たことの意味も、半分も分かっていないのだろう。
もっとも、それはレオンハルトの側もある程度察しているらしかった。
「まずは先日の夜会、そして街での件について」
レオンハルトは言った。
「お怪我がなかったことを、改めて安堵しております」
「ありがとう。でも、街のことは大したことではないわ」
素直にそう返した瞬間、応接室の空気がほんの少し止まった。
公爵は目を閉じたくなった。
レオンハルトは数秒の沈黙のあと、静かに問う。
「……どのあたりまでが、大したことではないのでしょうか」
「どのあたり?」
「荷車を止めた件と、ならず者三人をほぼ無傷で制圧した件です」
「両方とも、少し手を添えただけよ」
リリアーナは本気でそう言った。
レオンハルトのこめかみが、ごくわずかに引きつる。
その反応を見て、公爵は逆に少しだけ溜飲が下がった。
そうだろう。そうなるだろう。いつもそうなのだ。
「……少し」
レオンハルトが低く繰り返す。
「はい」
「荷車は成人男性でも受け止め損ねれば骨を折ります」
「だから、止めたの」
「ならず者の短剣を傷一つなく弾くのは、熟練の騎士でも容易ではありません」
「でも、手を切らせたくなかったでしょう?」
あまりにも自然な返答だった。
レオンハルトは、しばし言葉を失った。
理屈は通っている。
通っているが、前提がおかしい。
怪我をさせたくないから、短剣だけを弾く。
危ないから、荷車を止める。
どちらも結果だけを見れば合理的だ。だが、それを無意識に実行できる者がどれほどいるのか。
いや、いない。
少なくともレオンハルトの知る範囲では。
その沈黙を破ったのは、公爵だった。
「だから言っただろう。確認したところで、こうなる」
やや投げやりな声である。
レオンハルトは深く息を吐き、改めて姿勢を正した。
「失礼しました。質問を変えます」
「ええ」
「リリアーナ様。あなたは、ご自身の剣の技量をどの程度だと認識しておられますか」
今度は、リリアーナも少し考えた。
どの程度。
難しい問いだ。
幼い頃から剣は好きだった。淑女教育の合間に身体を動かすのが楽しくて、気づけば木剣や細剣を握る時間が増えていた。指南役にはよく呆れられたし、父からは人前で本気を出すなと何度も言われた。
だが、自分の技量を客観的に測る機会はあまりなかったのだ。
「……分からないわ」
結局、そう答えるしかない。
「ただ、危ないと思った時に、一番早くて安全な動きがこれかな、とは思うの」
レオンハルトは無言でその言葉を受け止めた。
一番早くて安全な動き。
それは戦場であれば、どれだけ磨いても届くかどうか分からない境地だ。無駄を削ぎ、最短で最小被害の結果を出す。それは技術だけではなく、判断そのものが洗練されていなければ辿り着けない。
そして彼女は、それを“分からない”と言う。
理解が追いつかない、という感覚を、レオンハルトは久しぶりに味わっていた。
「よければ」
彼は静かに続けた。
「一度、手合わせをお願いしたい」
応接室の空気が変わる。
ミアが扉のそばで小さく目を見開き、公爵は片眉を上げた。
リリアーナも驚いていた。
「私と?」
「はい」
「どうして?」
その問いは純粋な疑問だった。
レオンハルトは真顔で答える。
「あなたの力量を、正確に知りたいからです」
「正確に……」
「私は騎士団を預かる立場にあります。王都であれほどの技を見せられ、何も知らぬままにしておくわけにはいきません」
言っていることはもっともだった。
だが、リリアーナは少し困ってしまう。
手合わせそのものは嫌ではない。むしろ剣を交えるのは好きだ。だが相手は騎士団長であり、公の立場を持つ人物だ。そんな人と軽々しく剣を交えてよいものか、少し判断に迷う。
すると公爵が腕を組み、低く言った。
「やめておけ」
レオンハルトの視線が父へ向く。
「公爵閣下」
「お前は確認したいだけだろうが、うちの娘は加減を知らん」
「知っているわ」
リリアーナがすかさず抗議する。
「知っていない」
父は即答した。
その返しがあまりにも早くて、リリアーナは思わず口を閉じた。
レオンハルトは、そのやり取りを見ながら内心で驚いていた。
アルヴェイン公爵は、娘の力量を当然のように把握している。
しかもその上で、“騎士団長相手でも危うい”と判断しているのだ。
それは過保護というだけでは説明がつかない。
「閣下」
レオンハルトは慎重に言葉を選ぶ。
「私は本気でやり合うつもりはありません。あくまで技量の確認を――」
「お前が本気でなくても、周りが本気になる」
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
公爵は娘にちらりと視線を向けたあと、やや面倒そうに続ける。
「仮に手合わせをして、リリアーナが少しでもお前を上回る動きを見せたとしよう。そうなれば、騎士団はどう思う?」
レオンハルトはすぐには答えなかった。
だが答えは明白だった。
騎士団長を超えるかもしれない存在。
それも、公爵令嬢。
その事実は、ただの武芸の話では済まない。軍事的な意味を持つ。王家、貴族派閥、騎士団、すべてがその情報に反応するだろう。
「だから言っている」
公爵の声は低く、重かった。
「うちの娘を面白半分で測るな」
「面白半分ではありません」
「分かっている。だから厄介なんだ」
そこで初めて、レオンハルトは完全に理解した。
この公爵は、娘を隠しているのではない。
守っているのだ。
規格外の力を、政争や権力争いの道具にさせないために。
そしてその守られている本人は、おそらくそんな父の意図を半分も分かっていない。
レオンハルトの口元に、ごくわずかな苦笑が浮かんだ。
「……なるほど」
「分かったなら、今日は茶でも飲んで帰れ」
「随分な扱いですね」
「娘に会いたいと言って押しかけてきた男への扱いとしては、まだ穏当だ」
その一言で、室内の空気がまた少し変わった。
リリアーナはきょとんとする。
ミアは目を伏せている。
レオンハルトは一瞬だけ、本当に言葉に詰まった。
娘に会いたいと言って押しかけてきた男。
表現としては間違っていない。だがそれを父親に言われると、妙に別の意味を帯びる。
「お父様」
リリアーナが小さく呼ぶ。
「何だ」
「その言い方だと、なんだか変な感じがするわ」
「変ではない」
「そうかしら……」
本人だけが少しずれている。
レオンハルトはその様子を見て、胸の内に奇妙な感覚が広がるのを覚えた。
美しい。
強い。
しかも、人を惑わせるほど無自覚だ。
夜会で見た時も印象的だったが、こうして近くで話すと余計によく分かる。彼女の言葉や仕草には作為がない。だからこそ余計に、周囲の側が意味を見出してしまう。
この人は危うい。
敵としてではなく、存在そのものが。
「では」
レオンハルトは姿勢を正した。
「本日のところは、手合わせの件は取り下げます」
「助かる」
公爵はあっさり言う。
「ですが」
レオンハルトの視線がリリアーナへ向く。
「今後、もし王都で何か危険があれば、騎士団としても動きます。どうか遠慮なくお申し付けください」
「ありがとう」
リリアーナは素直に微笑んだ。
「でも、大丈夫よ。そんなに頻繁に危ないことは起きないでしょうし」
その言葉に、レオンハルトとミアと公爵の三人が、それぞれ違う意味で遠い目をした。
起きる。
あなたが出れば、なぜか起きる。
そう口に出した者はいなかったが、全員が同じことを思っていた。
やがて面会は終わり、レオンハルトは立ち上がった。
帰り際、扉の前で一度だけ振り返る。
「リリアーナ様」
「なに?」
「……あなたは、あまりご自身を軽く見ない方がいい」
唐突なその言葉に、リリアーナは瞬きをした。
「軽く?」
「はい。あなたが思っている以上に、あなたは重い存在です」
それだけ言い残し、騎士団長は去っていった。
扉が閉まる。
しばしの静寂。
そしてリリアーナは、父を見た。
「私、重いの?」
公爵は数秒黙ったあと、深く息を吐いた。
「そういう意味じゃない」
「でも、今――」
「気にするな」
父は即座に切った。
それから少しだけ柔らかい声になる。
「お前はそのままでいい。余計なことは考えなくていい」
「……そう?」
「そうだ」
その断言には、不思議な安心感があった。
リリアーナは素直に頷く。
「分かったわ」
その様子を見て、公爵は内心で苦笑した。
本当に、この娘は。
何も分かっていないようでいて、人の核心にだけは自然に触れていく。だから周囲が勝手に深読みし、警戒し、時に惹かれてしまうのだ。
レオンハルトも、その一人になるのかもしれない。
そう思うと少し面倒だった。
「リリアーナ」
「なあに、お父様」
「しばらく騎士団長とは二人きりで話すな」
「どうして?」
「面倒だからだ」
あまりに率直な理由に、リリアーナは思わず笑ってしまった。
「分かったわ」
その頃、屋敷を後にしたレオンハルトは、馬上でひどく難しい顔をしていた。
副官が不安そうに声をかける。
「団長、いかがでしたか」
「……想像以上だった」
「武、ですか?」
「全部だ」
短い答えだった。
武だけではない。
存在感も、言葉も、危うさも。
そして何より、それらすべてに本人が無自覚なことが厄介だった。
副官は困惑しつつも、次の問いを口にする。
「では、報告はどうなさいます」
レオンハルトは少し考えたあと、低く答えた。
「簡単だ」
「はい」
「『アルヴェイン公爵令嬢は、引き続き要注意人物である』」
副官は目を瞬く。
「敵性、という意味で?」
「違う」
レオンハルトは前を向いたまま言った。
「周囲が勝手に動かされる、という意味でだ」
その報告が後に騎士団内部で妙な緊張を生み、さらには一部でこう解釈されることになる。
――騎士団長自らが、公爵令嬢を特別視している。
――やはりあの方は、王国の均衡に関わる存在なのだ。
もちろん、そんなことになっているとは知らず。
その日の午後、リリアーナは窓辺の白い花へ水をやりながら、ぽつりと呟いていた。
「騎士団長って、思っていたより真面目な人だったのね」
ミアは返事に少し迷ってから、静かに言う。
「……そうでございますね」
「でも、なんだか変な空気だったわ」
「それは、まあ……そうでしょうね」
「どうして?」
いつもの問いだった。
そしてミアの答えも、やはりいつも通りだった。
「何でもございません」
リリアーナは少しだけ首を傾げ、それから深くは考えないことにした。
窓の外では風がやわらかく庭を揺らしている。
今日も平穏だ。
少なくとも、彼女にとっては。




