第4話 初めてできた普通のお友達が、なぜか民衆掌握扱いされました
翌日、リリアーナは朝食の席で、たいそう満ち足りた気分になっていた。
白鹿亭のパンは、やはりとても美味しかったのだ。
くるみ入りのパンは噛むほどに香ばしく、蜂蜜入りの丸パンは優しい甘さが口いっぱいに広がった。屋敷の料理人が作るパンももちろん一級品だが、街の店にはまた違う魅力がある。職人ごとの工夫や個性があって、同じ小麦でもこんなに表情が違うのだと知れたのが嬉しかった。
「そんなに気に入ったのか」
向かいに座る父――アルヴェイン公爵が、紅茶を置きながらそう言った。
四十代半ばの公爵は、厳めしい顔立ちと鍛え上げられた体格のせいで怖がられがちだが、娘に対しては驚くほど甘い。もっとも、その甘さを見せるのは家の中だけであり、外では一切崩さないのだが。
「ええ、とても」
リリアーナは素直に頷いた。
「白鹿亭というお店だったのだけれど、種類も多くて、お店の方も親切で……とても楽しかったわ」
その言葉を聞いて、公爵は一瞬だけ視線をミアへ向けた。
ミアは無言で目を逸らした。
昨夜、父には一通りの報告が行っている。街へお忍びで出かけたこと、白鹿亭の前で騒ぎがあったこと、ならず者が絡んできたこと、そして――リリアーナが少し動いただけで全部片づいたことも。
報告を受けた公爵は、長い沈黙のあとでただ一言、
「……まあ、お前が無事ならそれでいい」
と言った。
それだけだったが、長年仕える家令は「旦那様はかなり安心なさっていました」と後で小声で教えてくれた。
そして実際のところ、公爵は婚約破棄そのものについて、そこまで惜しんではいなかった。
王家との縁は確かに重い。だが、あの王子が娘に相応しいかと問われれば、以前から疑問はあった。表向きは粛々と処理するしかないとしても、家の中でまで残念がるつもりはない。
むしろ、娘が妙に晴れやかな顔をしている今となっては、
あの婚約がなくなってよかったのではないか、とすら思っている。
「街は楽しかったか」
「ええ。とても新鮮だったわ。皆それぞれに生活していて、働いていて、話していて……なんだか、世界が広がったみたいだったの」
「そうか」
公爵はわずかに口元を緩める。
その答えは本心だったのだろう。娘が屋敷の外を知り、喜んでいること自体は嬉しいに違いない。
ただし。
「しばらくは、護衛を増やせ」
やはりそこは外さなかった。
「昨日の件もある。王都は何が起きるか分からん」
「でも、本当に少し手を添えただけよ?」
「それが問題なんだ」
低く断言され、リリアーナは首を傾げた。
どうして問題なのか、やはり分からない。危ない状況を早く収めた方がよいのではないか。そう思うのだが、父もミアも、どうもそうは考えていないらしい。
「ともかく」
公爵は話を区切った。
「出歩くこと自体を止めるつもりはない。お前が街を見たいのなら見ればいい。だが、次はもっと周囲を使え」
「周囲を使う?」
「お前が自分で動くなということだ」
リリアーナは少しだけ唇を尖らせた。
「……善処するわ」
「善処で済ませるな」
そう言いながらも、公爵の声はどこか甘い。
厳しく叱っているようでいて、本気で外出を禁じる気はないのだと分かるから、リリアーナもあまり堅くならずにいられる。
もっとも、公爵の言う“周囲を使え”と、リリアーナの理解する“周囲に頼る”は、だいぶ意味が違っていたのだが。
昼前。
リリアーナは再び街へ出ていた。
もちろん、昨日の反省はある。今日はあまり目立たず、あまり長居せず、穏やかに歩こう。そう決めていた。ミアと私服護衛二人に加え、今日はさらに少し離れてもう一人ついている。父の譲歩の結果らしい。
リリアーナとしてはやや大袈裟に思えたが、皆が安心するならそれでいいか、と受け入れた。
「今日は花屋さんを見てみたいの」
そんな希望を口にしながら、昨日とは別の通りを歩く。
春の花が店先を彩る通りは、確かに見ていて楽しかった。黄色、白、青、淡い桃色。花瓶に活けられたものだけでなく、鉢植えや苗木まで並んでいて、足を止めるたびに新しい香りが漂ってくる。
「まあ、可愛い」
そう呟きながら、小さな白い花の鉢を覗き込む。
店主の老婦人は、そんなリリアーナを見て目を細めた。
「お嬢さん、お目が高いね。それは丈夫で育てやすいよ」
「そうなの?」
「ええ。日当たりと水やりさえ間違えなけりゃ、長く咲く」
「素敵ね」
リリアーナは心からそう思った。
豪奢な薔薇や珍しい蘭ももちろん美しい。けれど、こうして日々の暮らしに寄り添う花にも惹かれる。長く咲く、丈夫、育てやすい。そういう言葉には、どこか日常の実感があって好きだった。
「ひとついただいてもいいかしら」
「もちろんさ」
老婦人が笑う。
その様子を見ながら、ミアは少しだけ安堵していた。
今日は昨日より穏やかだ。騒ぎもないし、お嬢様も静かに買い物を楽しまれている。このまま何事もなく帰れれば――。
そう思った時だった。
通りの向こうで、小さな泣き声が聞こえたのである。
「……っ、うぅ……」
しゃくりあげるような、幼い女の子の声だった。
リリアーナはぴたりと足を止めた。
泣き声は路地の入口から聞こえてくる。大通りから一本入っただけの細道だ。通行人はそれなりにいるのに、皆、ちらりと見るだけで通り過ぎていく。
忙しいのか、関わりたくないのか、それとも家族がすぐ来るだろうと思っているのか。
けれど、リリアーナはそのままにはできなかった。
「少し見てくるわ」
「お嬢様」
ミアが制止しかける。
だがリリアーナは柔らかく振り返り、困ったように微笑んだ。
「泣いている子がいるもの」
それだけで十分だった。
彼女にとっては、ごく当たり前の判断である。
路地へ足を向けると、そこには七つか八つほどの女の子がいた。薄茶色の髪をおさげにして、擦り切れたワンピースを着ている。手には小さな籠を抱え、その中には少しだけ薬草らしき葉が入っていた。
だが、その籠の一部はひっくり返って、葉が石畳に散っている。
「どうしたの?」
リリアーナがしゃがみ込んで目線を合わせると、女の子はびくりと肩を震わせた。
大きな蒼い瞳と目が合って、息を呑む。
綺麗なお姉さんだ、とまず思った。
それから、自分が泣いているのを見られた恥ずかしさで、余計に涙がにじむ。
「や、薬草……落ちちゃって……」
「そう」
リリアーナは石畳に散らばった葉を見た。
通り道だから、踏まれれば駄目になるだろう。急いで拾わないといけない。
「誰かにぶつかられたの?」
女の子はこくりと頷く。
「でも、平気……。わたしが、ちゃんと持ってなかったから……」
言いながら、また涙が落ちる。
その健気さに、リリアーナの胸がきゅうと痛んだ。
「平気じゃないわ」
自然にそう言っていた。
「泣きたくなるほど困っているのなら、それはちゃんと困っているということよ」
女の子はぽかんとした。
そんなふうに言われたことがなかったのだろう。困っても、迷惑をかけるな、我慢しろ、自分で何とかしろ。そういう言葉には慣れていても、“困っていい”とは言われ慣れていない顔だった。
リリアーナはそのまま、石畳へ散った薬草を一つずつ拾い始めた。
「あ、お、お嬢さん、汚れます……!」
「これくらい平気よ。ミア、袋はある?」
「ございます」
すぐに紙袋が差し出される。
護衛たちも周囲に目を配りつつ、何も言わずに拾うのを手伝った。公爵家の私服護衛が道端で薬草を拾っている光景はなかなか珍妙だったが、誰も止められない。
通りの人々が、少しずつ足を止め始めていた。
高位貴族らしき美しい令嬢が、泣いている平民の子どもにしゃがみ込んで話し、散った薬草を自ら拾っている。
その絵面は、あまりにも印象的だった。
「これで全部かしら」
紙袋へ葉を入れ終え、リリアーナが女の子へ笑いかける。
「お名前は?」
「……エマ」
「エマちゃん。お家の方に届けるの?」
「うん。お母さんが、お薬つくるのに使うの」
「そうなのね」
なるほど、だから困っていたのだ。
リリアーナは少し考えたあと、花屋で買ったばかりの小さな白い花の鉢をミアに預け、自分のハンカチを取り出した。やわらかな刺繍入りのものだが、そんなことは気にしない。
女の子の目元をそっと拭う。
「もう大丈夫よ」
その声はあまりに優しく、あまりに自然だった。
エマはしばらく瞬きを繰り返し、それから、おずおずと聞いた。
「……お姉さん、貴族さま?」
その問いに、リリアーナは少しだけ考える。
否定はできない。けれど、そう身構えられるのも違う気がした。
「今日は、ただ街を歩いているだけの人よ」
そう答えると、エマは何故か真剣な顔になった。
「すごい……」
「何が?」
「なんか、すごい」
語彙が追いついていないだけで、感動しているのは分かった。
リリアーナは思わず小さく笑った。
「それなら、エマちゃんもすごいわ。ちゃんと泣きながらでも、お家に届けようとしていたんでしょう?」
女の子は目を丸くした。
褒められると思っていなかったのだろう。
「……うん」
「偉いわ」
頭を撫でると、エマはくすぐったそうに肩をすくめた。
その様子を見ていた周囲の空気が、また変わる。
ざわめきは小さい。けれど確かに、何かを感じ取った者たちがいた。
「見たか?」
「ええ……」
「自分で拾って、泣き止ませた」
「貴族の娘が、だぞ」
通行人たちの視線には、驚きだけでなく敬意が混じっていた。
高位貴族というものは、たいてい平民の子どもに自ら触れたりはしない。衛生や身分の問題以前に、そこまで膝を折って目線を合わせることがない。
なのに彼女は、何のためらいもなくそれをやった。
作為が見えないからこそ、本物に見える。
そこへ、さらに話を大きくする存在が現れた。
「エマ!」
慌てた声とともに、三十代半ばほどの女性が路地の奥から駆けてきた。簡素なエプロン姿で、どうやら薬師か何かをしているらしい。
「お母さん……!」
エマが駆け寄る。
女性は娘を抱き寄せて安堵したあと、すぐにリリアーナたちへ目を向け、状況を察したのか深く頭を下げた。
「ありがとうございます……! この子、薬草を届ける途中で転んだと聞いて、探していたんです」
「転んだのではなく、ぶつかられたみたいよ」
リリアーナがやんわり訂正する。
「でも、ちゃんと届けようとしていて偉かったわ」
その一言で、母親の目にじわりと涙が浮かんだ。
「……そう言っていただけるなんて」
彼女は娘の頭を抱き寄せながら何度も礼を言う。
その姿は、ごく普通の親子のものだった。だからこそリリアーナの胸は温かくなる。
こういうのが、きっと日常なのだ。
大きな事件でも陰謀でもなく、困っている人がいて、少し手を貸して、ありがとうと言われる。それだけのことが、こんなにも心地よい。
「薬草も無事でよかったわ」
紙袋を手渡すと、母親はまた頭を下げた。
「本当に、何とお礼を……」
「気にしないで。今日はたまたま通りかかっただけだもの」
その台詞は、またしても周囲に妙な余韻を残した。
たまたま通りかかっただけ。
だが、そこへ高位貴族の令嬢が現れ、泣く子を慰め、薬草を拾い、母親に感謝される。
その一連の流れがあまりにも出来すぎていたからだ。
花屋の老婦人が、小さく呟く。
「まるで、芝居みたいに綺麗だねえ……」
その言葉を、近くの茶屋の主人が聞いていた。
その茶屋の主人は、昨日の“白鹿亭への介入騒ぎ”を耳にしていた男でもある。
彼は今、目の前の光景を見て確信し始めていた。
昨日は市場。
今日は民衆。
偶然か?
本当に?
いや、違うのではないか。
あの令嬢は、人の心を掴むやり方を知っている。
しかも、露骨にではなく、自然に、最も効果的な形で。
泣いている子へまず目線を合わせる。
本人の尊厳を傷つけない言葉を選ぶ。
母親へも恩着せがましくしない。
周囲の人間が見ている前で、それをやる。
完璧すぎる。
茶屋の主人は知らない。
それが全部、リリアーナにとっては“普通”の範囲だということを。
やがて母娘が去り、通りにも少しずつ元の流れが戻り始める。
リリアーナは立ち上がって、軽くスカートの裾を払った。
「よかったわね」
「……はい」
ミアの返事は、やや遠い。
「どうしたの?」
「いえ」
ミアはとても言いづらそうに口を開く。
「お嬢様は、どうしてあのような言葉が自然に出てくるのでしょうか」
「え?」
「『困っているなら、ちゃんと困っている』などと……普通は、ああは言えません」
リリアーナはきょとんとした。
「でも、本当のことでしょう?」
「それは、そうなのですが……」
ミアは途中で言葉を切る。
そう、本当のことなのだ。
本当のことなのに、多くの人は上手く言えない。あるいは、思っていても口に出せない。相手の心に届く形で差し出せない。
お嬢様は、それを当たり前のようにやってしまう。
しかも本人に、その価値の自覚がない。
それがどれほど危ういか、あるいは恐ろしいほど魅力的か、ミアには分かっていた。
「……何でもございません」
「そう?」
首を傾げるリリアーナへ、ミアは小さくため息をついた。
結局その後、花をいくつか見て、通りを少し歩いたところで屋敷へ戻ることになった。
今日もまた、大きな騒ぎは起きなかった。
少なくとも、リリアーナにとっては。
だが同じ頃、王都の一角では別の会話が交わされていた。
「聞いたか、あの令嬢」
「昨日は白鹿亭、今日は薬師の娘だろ?」
「ただの慈善じゃないな」
「だろうな」
市場の情報に敏い商人たちと、街の空気に敏い者たちが、それぞれ別の場所で同じ名を囁いている。
アルヴェイン公爵家の令嬢。
絶世の美貌。
武も立つ。
そして今日は、平民の子どもを通して民衆の感情を掌握した――かもしれない。
もちろん、そこまで考える必要は本来ない。
だが、人は理解できない規格外の存在を見ると、“ただ優しいだけ”という結論では落ち着かなくなる。
何か裏があるはずだ。
何か意図があるはずだ。
そう考えた方が安心できるからだ。
だから、噂は少しずつ形を変えていく。
――公爵令嬢は、街へ出て民の声を拾っているらしい。
――商人だけでなく、薬師や庶民の暮らしにも接触を始めた。
――あれは布石だ。何か大きなことを動かす前触れに違いない。
そしてその噂は、夕方には王都の騎士団詰所にまで流れ着いた。
報告書を整理していた若い騎士が、顔を上げる。
「また、あの令嬢の話ですか」
向かいの同僚が真顔で頷いた。
「今日は平民の子に接触したそうだ」
「接触って……」
「泣いている子を慰めて、母親まで感涙させたらしい」
「それは……普通にいい話では?」
「普通ならな」
そこで同僚は声を潜めた。
「だが、相手はアルヴェイン公爵令嬢だ。しかも昨日の件がある」
「……つまり?」
「武だけじゃない、ということだろう」
若い騎士はごくりと唾を飲んだ。
武だけではない。
民心掌握の才もある、と。
その解釈がどれほど飛躍しているか、本人たちは気づいていない。
むしろ、昨日と今日の出来事を並べれば自然にそう思えてしまうのだ。
一方その頃、屋敷へ戻ったリリアーナは、買ってきた白い花を窓辺に置いて満足そうにしていた。
「やっぱり、街はいいわね」
花瓶へ水を注ぎながら、そう呟く。
「今日は、エマちゃんっていう子とお話しできたの」
「左様でございますか」
ミアの返事はやや力がなかった。
「初めて、普通のお友達みたいに話せた気がするのよ」
その一言に、ミアは一瞬だけ目を伏せた。
普通のお友達。
お嬢様にとっては、それが本当に嬉しかったのだろう。貴族としてではなく、公爵令嬢としてでもなく、ただ困っている子に手を貸しただけの関係。その手触りが新鮮で、愛おしかったのだ。
だからこそ、余計に皮肉だった。
お嬢様が“普通”へ近づこうとするたび、周囲はますます“普通ではない何か”を見てしまうのだから。
「また会えるといいわね」
花を見つめながら、リリアーナは静かに微笑む。
その願いは、とてもささやかで、優しいものだった。
だがその頃、王都のどこかでは、彼女とエマのやり取りを語る者たちが、すでにこう締めくくっていた。
――公爵令嬢は、民を懐柔する術まで心得ている。
――あれは、生まれながらの支配者だ。
もちろん、そんな物騒な評価を受けていることなど、リリアーナ本人は知る由もない。
彼女はただ、その日の夜、窓辺の小さな白い花が揺れるのを見て、少しだけ嬉しくなっていただけだった。




