第3話 少し手を添えただけなのに、剣聖疑惑が広まりました
白鹿亭を出たあとも、リリアーナの機嫌は上々だった。
両手に抱えた紙袋からは、焼きたてのパンの香りがふんわりと漂ってくる。小麦の香ばしさに、ほんのり甘い蜂蜜の匂い、くるみの香りまで混じっていて、歩くたびに幸福な気分が増していくようだった。
「……街のお買い物とは、こんなにも楽しいものだったのね」
思わずこぼした言葉に、少し後ろを歩くミアが複雑そうな顔をする。
いや、正確には“複雑そうな顔をしようとして、結局諦めたような顔”だった。
護衛の二人に至っては、もはや無言である。
白鹿亭の店先で起きた騒ぎと、その後の大量購入。あれだけ周囲の視線を集めておいて、当の主が「楽しい」としか思っていないのだから、何を言えばよいのか分からなくなって当然だった。
「お嬢様、このままお屋敷へお戻りになられますか?」
ミアが問いかける。
リリアーナは少しだけ考え、通りの向こうへ視線を向けた。
市場通りの喧騒はまだ続いている。あちらには布地屋があり、こちらには花屋があり、その先には雑貨店らしい店も見える。どれも気になる。気になるが、すでにパンをこれだけ買ってしまった以上、寄り道しすぎるのもよくないだろう。
普通の外出というのは、きっと節度が大切なのだ。
「そうね……今日はもう十分楽しめたわ」
リリアーナは素直に頷いた。
「帰りましょう。皆にも早くパンを分けてあげたいもの」
それを聞いた護衛の一人が、目に見えて安堵した。
しかし、その安堵は長く続かなかった。
王都の中心部から公爵家の屋敷へ戻るには、途中で少し人通りの落ちる裏通りを抜ける必要がある。もちろん大通りを迂回してもよいのだが、ミアは早めに屋敷へ戻りたかったし、護衛たちも距離の短い方を選んだ。
何より昼間の王都だ。治安はそこまで悪くない。
少なくとも、普通なら。
石畳の裏通りは、大通りに比べて随分と静かだった。
表通りの喧騒が遠くに聞こえる一方で、こちらは倉庫や小さな工房の裏口が続いている。干した布が風に揺れ、木箱の積まれた隅では猫が昼寝をしていた。
リリアーナはそうした景色すら新鮮で、きょろきょろと辺りを見回してしまう。
「こういう場所もあるのね」
「お嬢様、どうか中央をお歩きください」
護衛の一人がさりげなく位置を変えた。
その声色に、わずかな緊張が混じっていたからだろうか。リリアーナもようやく、空気の違和感に気づいた。
前方の曲がり角から、三人の男が姿を現したのだ。
身なりはあまりよくない。日雇い風にも見えるが、目つきが妙に据わっている。昼間から酒でも入っているのか、歩き方も少し荒い。
男たちはこちらを見るなり、にやりと口元を歪めた。
「へえ」
「ずいぶん上等なお嬢ちゃんじゃねえか」
「しかも荷物持ちまで連れてる」
ミアの眉がきゅっと寄る。
私服姿とはいえ、護衛二人の立ち姿には隠しきれない鍛錬の気配がある。普通のならず者なら、そこを見て引くはずだった。
だが目の前の男たちは、どうやらそうではないらしい。
むしろ「護衛が少ない」と判断したのだろう。
「通していただけますか」
ミアが一歩前に出て、冷静に告げる。
だが男の一人は肩をすくめた。
「そう邪険にするなよ。ちょっと道を聞きたいだけだ」
「その割には、ずいぶん塞いでおいでですが」
「はは、怖いねえ」
言いながら、別の男がじり、と距離を詰める。
護衛二人はすでに主の前へ出る角度に入っていた。片方が声を低くする。
「下がってください」
「でも」
「お嬢様」
護衛の声音は硬い。
リリアーナはそこで初めて、相手が本当に面倒な類だと理解した。
ああ、そういうことなのね。
街を歩けば、こういうこともあるのだろう。だから皆、護衛が必要だとあれほど言っていたのだ。
だとしたら、早く終わらせるのが一番である。
危ないし、周囲にも迷惑がかかる。
「ねえ」
リリアーナは、前に出ようとする護衛の肩へそっと手を置いた。
「私が出てもいいかしら」
「なりません」
「ですが」
「お嬢様」
護衛ははっきりと首を振った。
「この程度、我々で――」
「危ないわ」
リリアーナは本心からそう言った。
男たちが危ないのではない。
護衛たちが本気で応じれば、相手が危ないのだ。
もちろん護衛たちは、公爵家の者として必要以上に荒事を大きくしないよう訓練されている。けれど、それでも数手で取り押さえる程度のことはするだろう。そうなれば、痛い目を見るのはあの男たちだ。
しかも昼の王都で騒ぎになれば、周囲にも迷惑がかかる。
ならば一番穏便なのは、自分が少しだけ手を出して終わらせることだ。
父には人前で本気を出すなと言われている。
ならば、本気を出さなければよい。
「すぐに終わるから」
柔らかくそう言って、一歩前へ出る。
護衛たちが止める間もなかった。
ならず者の一人が、面白がるように目を細めた。
「お嬢ちゃんが相手してくれんのか?」
「ええ。でも、怪我はしたくないでしょう?」
リリアーナは首を傾げる。
本気で忠告したつもりだった。
だが、その言い方がいけなかった。
絶世の美貌を持つ少女が、薄く微笑みながらそんなことを言えば、どう聞こえるのか。
男たちには挑発にしか見えなかったし、少し離れた場所で様子を窺っていた通行人には、妙な威圧感に満ちた宣告のように響いた。
「はっ、舐められたもんだな!」
先頭の男が腕を振り上げる。
拳だった。
刃物でなかっただけ、まだましと言える。
リリアーナは半歩だけ踏み込み、男の腕の軌道を指先で外へ流した。力を正面から受ける必要はない。手首の角度を少し変え、軸をずらせばそれで十分だ。
次の瞬間、男の身体は自分から前へつんのめるように崩れた。
「え?」
男が情けない声を上げる。
リリアーナはその背を軽く押しただけだ。勢いの逃げ場を与え、石畳へ転ばないように向きを変えただけ。
なのに男は二歩、三歩とよろめき、そのまま木箱の山へ突っ込んで尻もちをついた。
「いったぁ!?」
護衛たちが息を呑む。
今のは何だ。
ただ避けただけに見えた。
いや、違う。受け流した上で体勢を崩したのだ。だが、あれほど自然に?
もう一人の男が怒声を上げて飛びかかる。
「このっ!」
今度は両腕で掴みに来た。
リリアーナはわずかに身体を開き、相手の重心が前へ出たところで肘に触れた。ほんの少し、向きを変える。
それだけで男の身体はくるりと横へ流れ、壁際へ向かって大きく体勢を崩す。
「うおっ!?」
どん、と鈍い音を立て、男は壁に肩をぶつけてうずくまった。
最後の一人が、そこでようやく顔色を変えた。
「な、なんだお前……!」
「だから、危ないからやめた方がいいと言ったのに」
リリアーナは少し困ったように眉を下げた。
本当にその通りだった。
彼女としては、誰も怪我しないように最小限で止めているつもりなのだ。父の指南役が相手なら、こんな程度では止まりもしない。だから本気で「大したことはしていない」と思っている。
だが、最後の男からすれば違った。
仲間二人が、一瞬で無力化された。
剣も抜かず、拳も使わず、ただ触れただけで。
それは不気味だった。得体が知れなかった。理解できないものほど、人は恐れる。
「っ……!」
男は腰元へ手を伸ばした。
短い刃物が覗く。
その瞬間、ミアが息を呑み、護衛たちが同時に動こうとした。
だがそれより早く、リリアーナの手が伸びていた。
彼女は腰に差していた飾り用の細剣――普段は決して人前で使わない、ごく軽い護身用のものを、するりと半ばまで抜いた。
きぃん、と澄んだ音が裏通りに響く。
次の瞬間には、男の手元にあった刃物だけが、くるくると宙を舞って石畳へ落ちていた。
甲高い音。
男は目を見開いたまま、自分の手を見る。
傷はない。
ただ、握っていた刃物だけが弾かれていた。
あまりに速すぎて、何をされたのか分からなかったのだ。
リリアーナは細剣を鞘へ戻し、小さく首を傾げた。
「もう終わりにしましょう?」
それは優しい声音だった。
なのに男は、腰が抜けたようにその場へ座り込んだ。
「ひ、ひっ……!」
後ずさるように逃げようとして、転び、這うようにして仲間とともに路地の奥へ消えていく。
静寂が落ちた。
風が、干し布を揺らした。
どこかで猫がひと声鳴く。
そして、数秒の沈黙のあと。
「……お嬢様」
護衛の一人が、ひどく遠慮がちな声で言った。
「今のは」
「怪我はさせていないわ」
リリアーナは安心させるように微笑む。
「刃物も落としただけだもの。大丈夫よ」
いや、そういう意味ではない。
護衛たちは喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
今の一連の動きは、少し心得がある程度でできるものではない。重心移動、軸の操作、最小限の接触による制圧、そして抜き打ちに近い速度の剣閃。しかもどれも無駄がなく、美しすらあった。
公爵家の令嬢が護身術を嗜むこと自体は、ありえなくはない。
だが今のは、その範疇を明らかに超えている。
護衛の一人は無意識に唾を飲み込んだ。
何だ、今のは。
本当に、自分たちは何を見せられたのだ。
ミアだけは、頭痛を堪えるようにこめかみへ手を当てていた。
知っていたのだ。
お嬢様が剣に関しておかしいことくらい、昔から何となく知っていた。屋敷の指南役たちが遠い目をしていたこともある。木剣を持てば、使用人の誰も近づきたがらなくなることも知っている。
けれど、街中でそれを見せるとは思わなかったのだ。
「お嬢様……」
「なに?」
「……後で、旦那様へのご説明を一緒に考えましょう」
リリアーナはきょとんとした。
「説明? どうして?」
「どうしてでもございます」
珍しく疲れた声で返され、リリアーナは少しだけ考え込む。
とはいえ、自分としては本当に少し動いただけだ。むしろ護衛たちが動く前に終わってよかったではないか。そうでなければ相手がもっと痛い目を見たかもしれないのだから。
「でも、穏便に済んだでしょう?」
その一言に、護衛二人はそろって黙り込んだ。
確かに穏便だった。
穏便すぎて恐ろしいくらいに。
問題は、その“穏便”の基準がお嬢様の中だけでおかしいことだ。
しかし事態は、それだけでは終わらなかった。
裏通りの角から、鎧の擦れる音が聞こえてきたのである。
「何だ、騒ぎか?」
現れたのは王都警備の巡回騎士たちだった。二人組で、どうやら近くの通りを見回っていたらしい。騒ぎを聞きつけてこちらへ来たのだろう。
先頭の若い騎士が、散乱した木箱と、地面に落ちた短剣と、妙に静まり返った一同を見て眉をひそめた。
「何があった」
護衛の一人が前へ出ようとする。
だが、それより早く、物陰から声が飛んだ。
「このお嬢さんが!」
先ほどまで様子を見ていた通行人の男だった。どうやら一部始終を見ていたらしい。
「ならず者三人を、一瞬で止めたんだ!」
巡回騎士たちの目つきが変わる。
「一瞬で?」
「本当だ! ほとんど触れただけだったぞ!」
「いや、最後は剣だ。抜いたと思ったら、もう相手の得物が落ちてた」
別の目撃者も口々に言う。
人は、衝撃的な光景を見た時、共有したくなるものだ。しかも目の前にいるのは絶世の美貌を持つ令嬢。そんな存在が、街のならず者を圧倒したとなれば、話はなおさら大きくなる。
若い巡回騎士は半信半疑の顔でリリアーナを見る。
控えめなドレス姿の、どう見ても高位貴族家の令嬢。華奢で、柔らかく、美しい。そんな少女が三人を制圧したというのか。
にわかには信じがたい。
だが地面に残る痕跡が、嘘ではないと告げていた。
刃物は確かに弾かれ、木箱は不自然な方向へ崩れ、周囲の目撃者たちは興奮と畏怖の入り混じった顔をしている。
「お名前を伺っても?」
騎士が慎重に尋ねる。
ミアが一瞬ためらったが、隠し通せる状況ではないと判断したのだろう。小さく一礼して答えた。
「アルヴェイン公爵家の、リリアーナ様でございます」
空気が変わった。
若い巡回騎士は目を見開き、もう一人の年長の騎士は思わず姿勢を正した。
アルヴェイン公爵家。
王国の軍事中枢にも深く関わる大貴族。
その令嬢が、昼の王都で、ならず者を、ほとんど無傷で制圧した。
しかも目撃者多数。
年長の騎士が低く呟く。
「……まさか」
「何か?」
リリアーナが首を傾げる。
騎士は慌てて頭を下げた。
「い、いえ! ご無事で何よりでございました!」
その目には、明らかな動揺と、そして何かを確信したような色があった。
王都の騎士の間では、時折噂になることがある。
アルヴェイン公爵家には、とんでもないものが眠っている。
軍略か、人脈か、あるいは武そのものか。
真偽不明の噂だ。誰も確かなことは知らない。
だが今、彼らはその一端を見たのではないか。
若い騎士がごくりと唾を飲む。
美しく、優雅で、しかも剣を抜けば目で追えない。
それはもはや、ただの令嬢ではない。
彼の頭の中で、一つの単語が浮かんだ。
――剣聖。
もちろん、そんな大仰なことを口に出すわけにはいかない。
だが、胸の内でそう思ってしまった時点で、もう認識は変わっていた。
「ご不安だったでしょう。我々で周辺の見回りを強化いたします」
年長の騎士が丁重に告げる。
「ありがとうございます。でも、皆さまに怪我がなくてよかったわ」
リリアーナはほっとしたように微笑んだ。
その笑みに、若い騎士の頬がわずかに赤くなる。
同時に、背筋には冷たいものが走った。
何というか、眩しすぎるのだ。
あれだけのことをしておいて、本気で“皆が無事でよかった”と思っている顔だったから。
この方は、自分のしていることの意味を分かっていないのではないか。
そう感じた瞬間、畏怖はさらに深まった。
リリアーナたちがその場を後にしたあと、巡回騎士の二人はしばらく無言で立ち尽くしていた。
やがて若い方が、おそるおそる口を開く。
「先輩」
「ああ」
「今の、見ましたか」
「見た」
「……剣聖級では?」
年長の騎士は即答しなかった。
しかし数秒後、低く、慎重に言う。
「軽々しく口にするな」
「でも」
「だが、報告は上げる」
若い騎士は息を呑む。
報告を上げる。
つまり、個人的な驚きでは済まさないということだ。
「件名はどうします」
年長の騎士は少し考えた。
そして真顔で答える。
「『アルヴェイン公爵令嬢の武技に関する所見』だ」
その頃、当のリリアーナは馬車へ乗り込んだところだった。
「やっぱり外は色々あるのね」
しみじみとした声でそう呟く。
「でも、パンは無事だったからよかったわ」
ミアは数秒、何も言えなかった。
それから、静かに額を押さえる。
「お嬢様……」
「なに?」
「本日の件で、王都のどこかがまた騒がしくなる予感がいたします」
「そうかしら?」
「そうでございます」
断言されても、リリアーナにはよく分からない。
ならず者に絡まれた。
少し手を添えて止めた。
巡回騎士が来て、無事を確認してくれた。
それだけのことではないか。
むしろ、街には本当に色々なことが起きるのだな、と学べた分、有意義だったとすら思っている。
リリアーナは膝の上の紙袋をそっと抱え直した。
ふわりと小麦の香りが立つ。
それだけで、先ほどの小さな騒ぎもどうでもよくなってしまうのだから、我ながら現金なものだ。
「帰ったら、くるみのパンから食べようかしら」
上機嫌にそんなことを言う主を見て、ミアは確信した。
お嬢様はたぶん、本当に何も分かっていない。
そしてその認識は、おそらく正しい。
同じ頃。
王都警備隊の詰所では、若い巡回騎士が報告書の下書きを前に、何度も書いては消していた。
『アルヴェイン公爵令嬢、抜刀一閃にて凶器のみを弾き飛ばす』
違う。大袈裟すぎるか?
『非常に高度な武技を確認』
いや、それでは足りない気もする。
結局、何度も悩んだ末、彼はこう書いた。
『対象は令嬢という外見に反し、極めて高度な徒手制圧および剣技を保持している可能性が高い。少なくとも通常の騎士訓練の範疇を超える』
その報告書が、後に騎士団本部で静かな波紋を呼ぶことになる。
そして数日後には、一部の騎士たちの間でこんな噂が囁かれ始めるのだ。
――アルヴェイン公爵令嬢は、美貌だけではない。
――あれは本物だ。
――もしかすると、剣聖に最も近いのではないか。
もちろん、そんな噂が広まり始めていることを、リリアーナ本人はまだ知らない。
彼女はただ屋敷へ戻ったあと、パンを一口食べて目を輝かせていた。
「おいしい……!」
それが今日一日の出来事の中で、彼女にとっていちばん大事なことだった。




