第2話 初めてのお忍び街歩きは、なぜか市場介入になりました
翌朝、リリアーナ・アルヴェインは、目覚めた瞬間から気分がよかった。
窓の向こうには柔らかな朝日が差し込み、庭の木々は春の風にそよいでいる。いつもなら起き抜けから王妃教育だの夜会の準備だのと予定が詰まっている時間だが、今日ばかりは違った。
婚約は破棄された。
まだ正式な書類や家同士の調整は残っているにせよ、少なくとも“未来の王妃として振る舞う義務”からは解放されたのだ。
リリアーナは寝台の上でそっと両手を握りしめ、小さく胸の前でまとめた。
やりましたわ。
本当に、やりましたわ。
声に出すのははしたないから我慢したが、内心では何度でもそう繰り返したいくらいだった。
普通の生活。
それは彼女にとって、幼い頃からずっと憧れだった。
朝は静かに起きて、自分で今日の予定を決める。好きな本を読んだり、気になった場所へ出かけたり、時には街で買い物をしてみたりする。誰かの期待に応えるためではなく、自分が穏やかに過ごすために一日を使う。そんなささやかな暮らしを、彼女は一度でいいから味わってみたかったのだ。
「お嬢様、失礼いたします」
控えめなノックのあと、侍女のミアが部屋へ入ってくる。艶のある栗色の髪をきっちりと結い上げた、年の近い専属侍女だ。幼い頃からリリアーナの身の回りを任されてきた彼女は、主の機微をよく理解している。
……理解しているはずなのだが。
「おはようございます、お嬢様。よくお休みになれましたか?」
「ええ、とてもよく眠れたわ」
リリアーナが微笑むと、ミアはどこか複雑そうな顔をした。
無理もない。昨夜、婚約破棄された令嬢の第一声が「よかったわ」だったのだから、侍女としては心配にもなるだろう。
「本日はご体調を最優先に、屋敷でお過ごしになるご予定にいたしますか?」
「いいえ」
リリアーナは即答した。
「街へ行きたいの」
ミアの表情が固まった。
「……街、でございますか」
「ええ。普通の生活をするなら、まずは街を歩いてみないと」
理路整然としているでしょう、と言わんばかりに頷くリリアーナへ、ミアは額に手を当てて天を仰ぎたくなった。
お嬢様の言う“普通”は、たぶん普通ではない。
そんな確信が、侍女として長年仕えてきた経験からくる本能としてあった。
「ですが、お嬢様。昨日の今日でございますし、今はまだ社交界でも色々と憶測が――」
「だからこそ、お忍びにするのよ」
「お忍び……」
「髪も結い方を変えて、ドレスも控えめにすれば大丈夫でしょう?」
どうやら、もう行く気でいるらしい。
ミアは知っている。こういう時のリリアーナは柔らかく微笑んでいても、意外なほど頑固だ。しかも妙に説得力があるから困る。本人はただの希望を口にしているつもりなのに、聞く側が「その方が合理的かもしれない」と錯覚してしまうのである。
少し考えた末、ミアは諦めたように小さく息を吐いた。
「……でしたら、目立たぬ装いをご用意いたします。必ず護衛もお連れくださいませ」
「護衛は目立つわ」
「お嬢様が一人で街を歩かれる方が、よほど目立ちます」
それはそうかもしれない、とリリアーナは素直に納得した。
だが、甲冑姿の騎士を引き連れていては“普通の街歩き”からほど遠い。結局、相談の末、護衛は私服姿で少し距離を取ってつけることになった。公爵家の精鋭の中でも特に口の堅い者を、とミアが厳選した結果、護衛役は二人に絞られた。
しかし、リリアーナの側から見れば、それでも少し大袈裟だ。
街へ行って、パンを買って、少し歩くだけなのだから。
そうして一時間後。
淡い青色の控えめなワンピースドレスに着替え、銀糸の髪もいつもの豪奢な巻き方ではなく、後ろで簡素にまとめたリリアーナは、鏡の前で小さく頷いた。
「これなら普通に見えるかしら」
鏡の中の少女は、どう控えめに整えてもなお目を奪うほど美しかった。
透き通るような白い肌も、吸い込まれそうな蒼い瞳も、優雅な首筋から胸元へかけての曲線も、隠そうとして隠しきれるものではない。ドレスを簡素にしたせいで、かえって素材そのものの美しさが際立っているとすら言えた。
ミアは一瞬だけ沈黙し、やがて諦めの境地で微笑んだ。
「……はい、とても“控えめ”でいらっしゃいます」
「よかったわ」
何がよかったのか、ミアには少しも分からなかった。
だが主は満足そうだし、今さら言ったところで気づきもしないだろう。
こうして、リリアーナの人生初のお忍び街歩きが始まった。
王都の大通りは、昼前からすでに賑わっていた。
石畳の道の両脇には大小さまざまな店が並び、果物、布地、香辛料、雑貨、焼き菓子と、あらゆる品が色鮮やかに並んでいる。行き交う人々の服装も身分もさまざまで、荷車を押す者、子どもの手を引く者、忙しそうに帳簿を抱えた商人風の男まで、皆がそれぞれの生活の中にいた。
リリアーナは目を輝かせた。
「まあ……」
思わず足を止める。
「本当に、こんなに色々なお店が」
もちろん、彼女とて王都の街並みを全く知らないわけではない。馬車で移動中に窓から眺めたことはあるし、屋敷へ出入りする商人たちから話を聞いたこともある。
けれど、自分の足で歩き、自分の目線で見る街はまるで違った。
香ばしい匂いが風に乗って流れてくる。果物売りの威勢のいい声が聞こえる。少し先では犬が子どもにじゃれついて、母親が困ったように笑っている。そうした一つ一つが、あまりにも新鮮で、あまりにも愛おしかった。
「……お嬢様、あまり立ち止まられますと」
少し離れた位置から護衛の一人が小声で注意してくる。
それも当然だった。リリアーナが足を止めるたび、通りすがりの人々がつい振り返ってしまうからだ。目立たぬ服装にした意味がほとんどない。
だが、当の本人は周囲の視線にほとんど気づいていない。
「ごめんなさい。でも、すごいわね。街というのはこんなにも活気があるのね」
その言葉に、通りの脇で野菜を売っていた老婆が思わず口元を緩めた。
「お嬢ちゃん、王都は初めてかい?」
「自分の足で歩くのは、ほとんど初めてです」
「へえ、そんな綺麗なお嬢ちゃんがねえ」
老婆は気軽に言ったつもりだった。だがその言葉に周囲の何人かが同時に頷く。
綺麗、という言葉では足りない。
ただでさえ人目を引く整った顔立ちに、立ち姿には妙な気品がある。けれど気取った様子はまったくなく、むしろ素直に辺りを見回す様子はどこか幼さすら感じさせた。
この場にいる誰もが、一瞬だけ「どこかの大店の娘だろうか」と考え、すぐに「いや、それにしては只者ではない」と判断を修正する。
人は情報が足りない時、目の前の印象から勝手に物語を作る。
そしてリリアーナは、その“勝手に作られる物語”を刺激してやまない存在だった。
「これ、朝採れの菜っ葉だよ。よかったら見ていきな」
「ありがとうございます。でも今日は、まずパン屋さんへ行ってみたくて」
「パン屋?」
「ええ。焼きたてのパンを、自分で選んで買ってみたかったの」
その何気ない言葉を聞いた老婆は、なぜかしみじみとした顔になった。
「そうかい。じゃあ、角を二つ曲がった先の『白鹿亭』がおすすめだよ。ちょいと高いけど、味は確かさ」
「白鹿亭……覚えました」
リリアーナは嬉しそうに微笑んだ。
たったそれだけのことで、老婆は数年は自慢できそうな幸福感を覚えた。後で近所に、「とんでもない別嬪さんに道を教えた」と語ることになるのだが、今はまだその未来を知らない。
「ありがとう。とても助かりました」
軽く会釈して歩き出すリリアーナを見送りながら、老婆はぽつりと呟いた。
「……ありゃあ、ただ者じゃないねえ」
その呟きは、近くにいた帳簿持ちの男の耳にも入っていた。
男は商人ギルド所属の中堅商人で、朝から取引先を回る途中だった。彼は老婆と会話するリリアーナの様子を見て、訝しげに目を細める。
立ち振る舞いに隙がない。
会話は自然なのに、相手へ与える印象が妙に整いすぎている。
しかも“白鹿亭”の名を聞いた時の反応が絶妙だった。
まるで、店を事前調査した上で現地確認に向かう視察役のようだ、と。
もちろん、それは完全な誤解である。
だが商人という生き物は、利益や危険の匂いには敏感だ。王都の一等地に店を構える白鹿亭に、あれほど只者でない令嬢が向かうとなれば、「何かが起きるのでは」と勘繰るのも無理はなかった。
男は予定を少し変えることにした。
白鹿亭の近くまで行って、少し様子を見てみよう。
それくらいなら、昼までの予定にも響かない。
一方、そんな尾行まがいの気配など露ほども知らず、リリアーナは教えられた道を歩いていた。
「白鹿亭、楽しみだわ」
「お嬢様、あまり人前でそのように弾まれますと」
「だって、パンよ?」
何を言っているのか分からない、という顔で振り返られて、護衛は黙った。
そういえば昨日の夜も、パン屋に行きたいと目を輝かせていた気がする。
公爵家の食卓には王宮にも引けを取らぬ料理が並ぶのに、なぜそこまで街のパンに憧れるのか。
だが、それがリリアーナなのだ。
高価な宝石よりも、焼きたてのパンに心を躍らせる。
国家規模の縁談よりも、穏やかな日常に価値を見いだす。
そういうところがあるからこそ、周囲はますます彼女を理解できなくなる。
やがて、角を二つ曲がった先に、白地に鹿の意匠をあしらった看板が見えた。
「まあ、あれかしら」
焼きたての小麦の香りが漂ってくる。
白鹿亭は、確かに少し上等な店構えだった。磨かれた木の扉、広めの店先、整然と並ぶ商品。朝の客足も多く、近隣では評判の店なのだろう。
リリアーナが店先へ足を向けた、その時だった。
「危ない!」
短い叫び声。
通りの向こうから、荷を積んだ手押し車が勢いよく傾き、そのまま坂を滑るようにこちらへ突っ込んできた。車輪の片方が石畳の段差に乗り上げたのだろう。押していた青年が必死に止めようとしているが、間に合わない。
進行方向には、小さな男の子がいた。
母親が悲鳴を上げる。
次の瞬間、リリアーナは迷わず踏み出していた。
誰かを助けるのに、理由などいらない。
ただ、その方が自然だった。
彼女は子どもの前へ滑り込むように立つと、傾いた手押し車の持ち手へ片手を添えた。
がつん、と重い衝撃が来る。
だが、そこで車はぴたりと止まった。
石畳に車輪がわずかに軋む音を立てただけで、積荷は崩れもせず、子どもにも傷一つない。
周囲が、しんと静まり返る。
手押し車を押していた青年が呆然と口を開けた。
「え……?」
当然だろう。
成人男性でも勢いのついた荷車を正面から止めるのは難しい。それを、華奢な令嬢が片手で、しかも一歩も下がらず受け止めたのだから。
リリアーナは車体の安定を確認してから、そっと手を離した。
「もう大丈夫ですよ」
そう言って、しゃがんで男の子へ目線を合わせる。
「怖かったわね。でも、怪我はしていない?」
子どもはぽかんとしたまま頷いた。
母親は慌てて駆け寄り、涙目で何度も頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……! 本当に、どうお礼を言えば……!」
「お気になさらないで。ご無事でよかったです」
リリアーナは本心からそう言った。
だが、その光景を見ていた周囲の反応はまるで違った。
ざわ、と空気が変わる。
「今の……片手で止めたのか?」
「いや、受け流したんじゃないのか」
「いやいや、あの足運び……」
「騎士でも難しいぞ」
近くにいた元兵士風の男が、信じられないものを見る目で呟く。
「あれは……ただの力任せじゃない。衝撃の流れを殺してる。相当やるぞ」
その言葉を、少し離れた場所から様子を見ていた商人ギルドの男が聞き逃すはずもなかった。
令嬢が、ただの令嬢ではない。
しかも白鹿亭の前で事故寸前の荷車を止めた。
偶然か?
本当に?
彼の頭の中では、すでに別の解釈が組み上がり始めていた。
白鹿亭の前で事故が起きれば、評判に傷がつく。客足にも影響する。そこへ現れた正体不明の高位貴族風の令嬢が、完璧な所作で騒ぎを最小化した。
まるで、“店の価値を守るために介入した”みたいではないか。
いや、もっと大きく考えるべきかもしれない。
白鹿亭だけではない。王都中心区画の流通路は、最近荷運びが少し乱れていると聞く。もしあの令嬢がそれを見越して視察に来ていたとしたら……。
商人は背筋にうっすらとした寒気を覚えた。
とんでもない相手を目撃しているのではないか。
一方、リリアーナはやはり何も分かっていなかった。
「店先で騒ぎになってしまって、ご迷惑だったかしら」
そう言って白鹿亭の店主へ視線を向けると、五十代ほどの恰幅のよい店主は弾かれたように背を伸ばした。
「い、いえ! とんでもございません!」
声が少し裏返っている。
「むしろ、当店の前であのような事故を未然に防いでいただき、感謝申し上げます!」
「そんな、大したことはしていません」
またそれだ、と周囲の何人かが息を呑んだ。
あれを“大したことではない”と済ませるのか。
店主は一瞬だけ迷い、すぐに決断した。
こういう相手には、誠意を尽くすべきだ。
「お嬢様、どうぞ店内へ。焼きたての品をご案内いたします」
「本当に? 嬉しいわ」
ぱっと表情を明るくするリリアーナに、店主はくらりと目眩がした。
さっきまで周囲の空気を掌握していたかと思えば、今度は年相応の少女のように無邪気に笑う。この振れ幅は何なのか。人の心を掴むために計算しているのなら末恐ろしいし、無意識だとしたらなおさら恐ろしい。
店主は半ば呆然としながら扉を開けた。
店内へ入ると、焼きたてのパンの香りがより濃くなる。棚には丸パン、バゲット、木の実入りのパン、果実を練り込んだもの、チーズを乗せたものなどがずらりと並んでいた。
リリアーナの目が輝く。
「まあ……!」
その一声に、近くにいた若い売り子が思わず胸を押さえた。
そんなふうに純粋に喜ばれたら、どんな商品でも薦めたくなるではないか。
「こちらは本日のおすすめでして、朝一番に焼き上がった小麦パンです」
「この丸いものは?」
「蜂蜜を少し混ぜております。お子様にも人気で」
「こちらは香りが違うのね」
「くるみ入りです」
一つ一つ丁寧に説明を聞きながら、リリアーナは本当に楽しそうにパンを見て回った。
その姿は可憐で優雅で、しかもどこか誠実だった。上から見下ろすでもなく、興味本位で弄ぶでもなく、職人が作った品そのものへまっすぐ敬意を向けているのが分かる。
白鹿亭の職人たちは、知らず知らず背筋を伸ばしていた。
自分たちの仕事を、これほど真っ直ぐに見てくれる客はそういない。
「どれも美味しそうで迷ってしまうわ……」
真剣に悩んだ末、リリアーナは決めた。
「では、これと、これと、それから……こちらもいただけますか」
売り子が手際よく籠へ入れていく。
だが、次にリリアーナが続けた言葉で、店内の空気が止まった。
「あと、店頭に出ている分を、ひと通り多めにくださいな」
「……はい?」
「屋敷の者たちにも食べてもらいたいの。とても美味しそうですもの」
リリアーナにとっては、自然な発想だった。
自分だけ楽しむのは少し申し訳ない。ミアにも、護衛たちにも、屋敷の使用人たちにも持ち帰りたい。それに、せっかく街へ出たのだから、できるだけ色々と試してみたいではないか。
だが、白鹿亭の店主も、売り子も、店内の客も、その言葉を別の意味で受け取った。
ひと通り、多めに。
それは個人的な買い物の量ではない。
屋敷への手土産にしても多すぎる。
まるで、在庫の動きや商品の構成比率を確認したうえで、あえて店頭分を押さえにきたような注文だ。
しかも、つい先ほど店先の事故まで“最小被害”で収めている。
店主の額にじわりと汗がにじむ。
これは何だ。
本当にただの買い物なのか?
それとも、どこか高位貴族家が白鹿亭を値踏みしにきたのか?
あるいは、商人ギルドへの何らかの示唆なのか?
「……店主さん?」
リリアーナが不思議そうに首を傾げる。
はっと我に返った店主は、慌てて頭を下げた。
「も、もちろんでございます! すぐにご用意いたします!」
その様子を見ていた商人ギルドの男は、静かに店を離れた。
もう十分だ。
ここで見たことは、すぐに報告しなければならない。
正体不明の高位令嬢が、白鹿亭に接触。
店先トラブルを完璧に制圧した上で、店頭在庫を広く押さえた。
しかも周囲への印象操作まで完璧だった。
もしこれが単なる私的行動ならいい。
だが違った場合、対応が遅れれば市場の流れを読めなかったことになる。
商人の世界では、分からないものを甘く見る者から損をする。
男は足早にその場を去っていった。
その頃、リリアーナはと言えば。
「こんなに買ってしまってよかったかしら」
「……お嬢様がよろしければ、それで」
「皆が喜んでくれるといいのだけれど」
包みを受け取りながら、心から満足そうに微笑んでいた。
初めて自分で選んだパン。
街の人と話しながら、色々な品を知って、少しだけ日常に近づけた気がする。
ああ、やっぱり来てよかったわ。
そんな穏やかな達成感に浸る彼女のすぐ傍らで、私服護衛の一人は遠い目をしていた。
店の外では、すでに何人もの視線がこちらを窺っている。
好奇心、畏怖、困惑、警戒。
ほんの一度の買い物で、どうしてここまで空気が変わるのか。
答えは簡単だ。
変えた本人だけが、何もしていないつもりだからである。
白鹿亭を出たリリアーナは、紙袋から漂う焼きたての香りに頬を緩めた。
「街のお買い物って、素敵ね」
その呟きは幸福そのものだった。
だが、その日の午後。
商人ギルドの一室では、複数の中堅商人たちが顔を突き合わせ、深刻な面持ちで一つの報告書を回し読みしていた。
件名――
『正体不明の高位令嬢による白鹿亭接触および市場介入の可能性について』
もちろん、リリアーナはそんな騒ぎになっているとは露ほども知らない。
彼女はただ、屋敷へ戻ったあとミアと一緒にパンを並べて、どれから食べるか本気で悩んでいただけだった。




