第1話 婚約破棄されたので、ようやく普通に暮らせると思いました
婚約破棄を告げられた瞬間、夜会の広間は凍りついた。
けれど、当の公爵令嬢リリアーナ・アルヴェインは、長い睫毛を一度伏せただけで静かに微笑んだ。
「まあ。本当によろしいのですか?」
その声音は穏やかで、怒りも動揺もない。
だからこそ周囲は息を呑んだ。
彼女は受け入れたのではない。
すべてを見通したうえで、あえて王子を試しているのだ、と。
ただ一人、リリアーナ本人だけが胸の内で小さく歓声を上げていた。
――やったわ。これで普通の生活ができます。
絢爛たるシャンデリアが、夜会の広間を昼のように照らしていた。
磨き抜かれた大理石の床に、幾重ものドレスの裾が波のように揺れる。王都でも指折りの名家が集うその場で、ひときわ人々の視線を集めていたのは、壁際に静かに立つ一人の令嬢だった。
リリアーナ・アルヴェイン。
王国の政治と軍事の中枢を担うアルヴェイン公爵家の一人娘にして、第一王子エドワルドの婚約者。月光を溶かしたような銀糸の髪、透き通るような白い肌、宝石のように深い蒼眼。細い腰から胸元へ描かれる柔らかな曲線には、同じ女性ですら思わず見惚れてしまうほどの完成された美があった。
ただそこに立っているだけで、空気が変わる。
そう評する者は少なくない。
もっとも、リリアーナ本人には、自分が周囲にどれほどの影響を与えているのか、まるで分かっていなかったのだが。
「リリアーナ・アルヴェイン!」
高らかな声が、広間に響いた。
人々がざわめきながら振り返る。その中心で、第一王子エドワルドがリリアーナをまっすぐ指差していた。隣には、勝ち誇ったような顔をした伯爵令嬢が寄り添っている。
ああ、始まるのね。
リリアーナは静かにそう思った。
ここ数か月、王子の態度は露骨だった。視線は以前より刺々しく、ダンスの誘いも減り、代わりに隣の伯爵令嬢を伴うことが増えた。周囲の令嬢たちが好奇心と悪意をないまぜにした目を向けてくるのも、一度や二度ではなかった。
だから予想はしていた。
けれど、それをこの場で、しかもこれほど多くの貴族を集めた夜会でやるのは、少しばかり愚かではないかしら、とも思う。
「私は、貴様との婚約を破棄する!」
広間が、水を打ったように静まった。
次いで、ざわ、と波立つように囁きが広がる。
誰もが固唾を呑み、リリアーナを見た。
王家との婚約破棄は、ただの男女の別れではない。家と家の繋がり、政治的均衡、派閥の力学、それらすべてに揺らぎを生じさせる一大事だ。この場でそれを宣言するということは、すなわち王家が公爵家に公然と一撃を加えるに等しい。
それなのに。
「まあ」
リリアーナは、驚いたように目を瞬かせたあと、そっと首を傾げた。
「本当によろしいのですか?」
しん、と静まり返る。
王子はその言葉に、わずかにたじろいだ。
だが一度放った矢を引っ込めることはできない。彼は顎を上げ、取り繕うように声を張る。
「当然だ! 貴様のような冷たく傲慢な女が、未来の王妃に相応しいはずがない! 私は、心優しいセシリアこそ妃に迎えるべきだと判断した!」
隣の伯爵令嬢――セシリアが、殊勝そうに王子の腕へ手を添える。
周囲の貴族たちは緊張した顔で事の推移を見守っていた。ここでリリアーナが泣き崩れるのか、怒りを露わにするのか、あるいは公爵家の威光を笠に着て反論するのか。誰もがそう思っていた。
けれどリリアーナは、ほんの一瞬だけ視線を伏せ、そして微笑んだ。
それはあまりにも穏やかで、あまりにも美しかった。
広間の何人かが、思わず息を止める。
まるで、相手のすべてを見透かしたうえで、なお哀れみを与える聖女のようだ、と。
「そうですか」
リリアーナは静かに答えた。
「では、私は身を引きましょう」
その一言で、広間の空気がさらに凍る。
王子の顔色が変わった。
あまりにもあっさりしていたからだ。
泣きも喚きもしない。縋りもしない。怒りもしない。まるで、この展開すら最初から想定していて、むしろようやく不要なものが片付いたとでも言いたげな余裕があった。
人は、自分が理解できないものを過大評価する。
ましてそれが、常人離れした美貌と完璧な所作をまとった公爵令嬢なら、なおさらだ。
――やはり、アルヴェイン公爵家は何かを掴んでいたのか。
――いや、彼女個人がすでに次の一手を用意していたのでは。
――王子は試されたのだ。今、この場で。
そんな憶測が、一瞬で人々の脳裏を駆け巡る。
ただ一人、リリアーナ本人だけは内心で小さくガッツポーズをしていた。
やりましたわ。
ついに、ついにです。
長かった。婚約者という立場は、思っていた以上に面倒だった。王妃教育、夜会、派閥への気配り、王子の機嫌取り。どれも大切な役目だと分かってはいたが、正直に言えば、リリアーナはそういったものが少し苦手だった。
人と接すること自体は嫌いではない。むしろ好きな方だ。困っている相手がいれば助けたいし、みんなが心地よく過ごせるように気を配るのは当然だと思っている。
けれど、王妃という立場に求められる“見せるための社交”は、どうにも息苦しかった。
本当はもっと穏やかに、静かに、普通に暮らしてみたかった。
朝起きて、お茶を飲んで、街を歩いて、気になった本を読んで、たまには自分で買い物をして。そんな、どこにでもあるような生活を、一度でいいからしてみたいと、ずっと願っていたのだ。
だから婚約破棄そのものには、驚きより解放感の方が勝っていた。
「……なっ」
王子は言葉に詰まり、顔をしかめた。
おそらく彼としては、もっと何かしらの抵抗があると思っていたのだろう。そうでなければ、自分の優位性が示せない。
「ず、随分と余裕だな、リリアーナ!」
「そう見えましたか?」
リリアーナは柔らかく問い返した。
その声音は本当に穏やかだった。責める気配も、怒気もない。ただ事実を確認しているだけの響き。
なのに王子は、一歩退いた。
本能が警鐘を鳴らしたのだろう。目の前の令嬢は、自分が思っていたような“ただの美しい飾り”ではない、と。
それは正しい直感だった。もっとも、方向性は大きく間違っていたけれど。
「……っ、ふん! 今さら取り繕っても遅い! 私はセシリアを選ぶ!」
「ええ。どうか、お幸せに」
リリアーナはきれいに一礼した。
完成されすぎたその礼法に、誰も口を挟めない。
背筋は一本の剣のように真っ直ぐで、視線の落とし方すら無駄がなく、ドレスの裾さばき一つ取っても美しかった。幼い頃から叩き込まれた所作と、身体能力の高さが自然に融合した、無意識の洗練。
それを見た年配の騎士が、思わず低く呻く。
「……まるで達人の残心だ」
隣の貴族が怪訝そうに眉を上げた。
「残心?」
「剣を収めたあと、なお隙のない在り方のことだ。あの令嬢の一礼には、それがある」
実際、リリアーナは剣術の稽古をかなり好んでいた。
淑女教育の合間に気分転換のつもりで始めたはずが、気づけば屋敷の指南役を何人も困らせるほどの腕前になっていた。彼女自身は、皆が大袈裟なのだと思っている。危ない動きは早く止めた方が安全だから、自然とそうなっただけだ。
父である公爵からは「人前で本気を出すな」とたびたび言い聞かされていたため、自制も覚えた。だから今まで社交界でその力量が大きく表に出ることはなかったが、よく見ている者には所作の端々で分かるものらしい。
リリアーナとしては、そんなことはどうでもよかった。
問題はこれで、しばらくは面倒な社交を避ける口実ができたことだ。
屋敷へ戻ったら、まずは何をしましょうか。
本を読んで、お庭を歩いて、それから――できれば今度、街へ行ってみたいわ。
そう考えた瞬間、心がふわりと軽くなった。
だが、その時だった。
「失礼いたします、リリアーナ様」
広間の端から、一人の男が進み出た。
濃紺の軍装を纏った長身の騎士。短く整えた黒髪に鋭い灰色の目。王国騎士団長、レオンハルト・ヴァルツその人である。
場の空気が変わった。
王子が目を見開く。
「レオンハルト卿、何の用だ」
騎士団長は王子には答えず、まっすぐリリアーナの前で片膝をついた。
「夜会の最中にお言葉を差し挟む非礼をお許しください。ですが、一つだけ確認させていただきたく」
「確認、ですか?」
「はい」
レオンハルトは顔を上げ、真剣そのものの眼差しで彼女を見た。
「今の一礼――あれは、意図して周囲への威圧と牽制を込めたのですか」
広間中が、凍りついた。
リリアーナはぱちりと目を瞬かせた。
威圧? 牽制?
なんの話かしら。
「いいえ?」
素直に首を傾げると、騎士団長はなぜか表情を強張らせた。
「……無意識で、あれを」
「綺麗に見えるようには気をつけましたけれど」
その返答に、騎士団長は数秒沈黙したあと、深く頭を垂れた。
「恐れ入りました」
「え?」
「やはり、あなた様は――」
そこで彼は言葉を切った。今ここで口にしてはならないと判断したのだろう。だが、その沈黙自体が周囲の想像を大きく刺激した。
――やはり騎士団長は何か知っている。
――公爵令嬢の真価を。
――王子は取り返しのつかない失策を犯したのでは。
そんな空気が、広間を包み込んでいく。
一方のリリアーナは、ただ困っていた。
あの。
本当に何のお話をされているのか、さっぱり分からないのですが。
しかも騎士団長は、そんな彼女へさらに追い打ちをかけるように、低い声で告げた。
「どうかお気をつけください。今日この場で、あなた様を敵に回したくないと思った者は多いでしょう」
「……はい?」
「同時に、あなた様を利用したいと考える者もまた」
それだけ言うと、騎士団長は立ち上がり、一礼して去っていった。
王子は面白くなさそうに舌打ちし、セシリアは怯えたようにリリアーナから目を逸らす。貴族たちは口々に囁き、あちこちで視線が飛び交う。
気がつけば、この夜会の主役は完全に入れ替わっていた。
婚約破棄を突きつけた王子ではない。
その宣言を平然と受け流し、騎士団長にまで意味深な反応を引き出した公爵令嬢――リリアーナこそが、今宵もっとも人々の認識を支配していた。
けれど。
本当に、本当に、リリアーナ本人だけは、まったくそんなつもりはなかったのである。
その夜、屋敷へ戻った彼女は、侍女のミアが差し出した温かい紅茶を一口飲んで、心から安堵の息をついた。
「お嬢様、お疲れ様でございました……」
「ええ。でも、よかったわ」
「よかった、ですか?」
ミアが目を丸くする。
リリアーナはカップを置き、どこか嬉しそうに微笑んだ。
「これでようやく、普通の生活に近づけますもの」
侍女は絶句した。
夜会で王子から婚約破棄され、騎士団長にまで意味深な接触を受け、社交界じゅうに不穏な憶測をばら撒いたその当人が、まさか本気でそう思っているとは、夢にも思わなかったからだ。
だがリリアーナは上機嫌だった。
明日は少し遅く起きてもいいかもしれない。
午前中は読書をして、お昼は軽めにして、午後にはお忍びで街へ――。
そこまで考えたところで、彼女はふと期待に頬を緩めた。
パン屋さんにも行ってみたいわね。
焼きたてのパンを、自分で選んで買ってみたいもの。
その何気ない願望が、後に王都の商人たちを震撼させることになるとは、もちろんこの時のリリアーナは知る由もなかった。




