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婚約破棄されたので普通の生活を目指します。なお私は剣聖らしいのですが自覚はありません  作者: 翡翠


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第9話 お兄様が来ただけなのに、なぜか全面対決みたいな雰囲気になりました

 アルヴェイン公爵家の屋敷に、一台の馬車が到着したのは、まだ朝の空気が冷たい時間帯だった。


 無駄のない装飾。

 実用性を重視した造り。

 護衛の配置も最小限だが隙がない。


 見る者が見れば分かる。


 これは“見せるための権威”ではなく、“機能するための統制”の馬車だ。


「……来たか」


 門前でそれを確認した家令は、小さく呟いた。


 報告はすぐに屋敷内へと伝わる。


 執務室でそれを聞いた公爵は、深く息を吐いた。


「予定より早いな」


「ご子息らしいご判断でございます」


「余計なところで優秀だ」


 そう言いつつも、止める気はない。


 来るべきものが来ただけだ。


 一方その頃――


「お嬢様」


 庭で花を見ていたリリアーナへ、ミアが静かに声をかけた。


「お兄様がお見えになりました」


「そう」


 リリアーナは驚かなかった。


 昨日の話を聞いている。


「早かったのね」


「……はい」


 ミアは少しだけ言葉を濁した。


 早い、というより、速すぎる。


 普通なら数日かかる距離を、ほぼ最短で詰めてきている。移動効率、判断速度、どれを取っても異常なレベルだ。


 だがそれを説明しても意味はない。


「行きましょう」


「ええ」


 リリアーナは立ち上がった。


 その表情に緊張はない。


 ただ少しだけ、“怒られるかもしれない”という覚悟だけがあった。


 ――数分後。


 応接室の扉が開かれる。


 そこにいたのは、一人の青年だった。


 長身。

 無駄のない体格。

 黒に近い銀髪と、冷静な光を宿した瞳。


 レオニード・アルヴェイン。


 公爵家長男にして、領地を実質的に統括する存在。


 その視線が、ゆっくりとリリアーナへ向けられた。


「久しぶりだな」


「ええ、お兄様」


 リリアーナは一礼する。


 空気が、わずかに張り詰める。


 血の繋がった兄妹でありながら、その場に流れるのは再会の温かさではない。


 ――確認。


 それに近いものだった。


「座れ」


 レオニードが言う。


 自分はすでに席についている。


 公爵は奥で腕を組み、何も言わずに見ていた。


 リリアーナは素直に向かいへ座る。


 ミアは壁際へ下がる。


 誰も無駄な言葉を発さない。


「結論から言う」


 レオニードが口を開いた。


「お前は今、何をしている」


 直球だった。


 リリアーナは少し考えた。


「……お茶を飲んでいたわ」


 沈黙。


 ミアは目を閉じた。


 公爵は視線を逸らした。


 レオニードは数秒間、完全に動かなかった。


 そして。


「違う」


 低く言った。


「そういう話ではない」


「え?」


「王都での行動だ」


「だから、お茶を――」


「市場、騎士団、商人ギルド」


 言葉を被せる。


「三点で影響が確認されている」


 リリアーナは首を傾げた。


「影響?」


「そうだ」


「なにに?」


 レオニードは、初めてわずかに眉を動かした。


 理解していない。


 本当に。


 演技ではなく。


「……説明する」


 声を抑える。


「まず市場」


 指を一つ立てる。


「お前が接触した商人の一部で、価格調整の動きが出ている」


「え」


「次に騎士団」


 二つ目の指。


「警戒対象としてお前の名前が挙がっている」


「どうして?」


「最後に商人ギルド」


 三つ目。


「お前の意向を確認するため、正式に動いた」


 そこまで言って、結論を出す。


「これは偶然ではない」


 リリアーナは、しばらく黙った。


 考えている。


 だが、その思考の方向が違う。


「……皆、考えすぎているのではないかしら」


 ぽつりと、そう言った。


 レオニードの思考が、一瞬だけ止まる。


「何だと?」


「だって、私は何もしていないもの」


 あまりにも自然な返答だった。


 その一言が、逆にレオニードの内側を揺らした。


 何もしていない。


 それでこの結果?


 そんなはずがない。


 そんなことがあり得るなら、これまで自分が積み上げてきた分析も、統治も、すべてが揺らぐ。


「……再現性は?」


 絞り出すように聞く。


「さいげんせい?」


「同じ条件で、同じ結果を出せるか、だ」


 リリアーナは少し考えた。


「分からないわ」


「なぜだ」


「同じ状況って、同じにならないでしょう?」


 即答だった。


 レオニードの思考が、二度目の停止を起こす。


 正しい。


 正しいが、それでは管理できない。


「だから、その時その時で一番いいと思うことをするしかないわ」


 続ける。


「それで大体うまくいくもの」


 沈黙。


 完全な沈黙だった。


 論理が通じないのではない。


 論理の“前提”が違う。


 レオニードは初めて、それを認識した。


 この相手は、分析して動いていない。


 最適解を“選んでいる”のではなく、“引き当てている”。


 そんな馬鹿な。


 だが現実は目の前にある。


「……非効率だ」


 ようやく出た言葉は、それだった。


 リリアーナは少しだけ困った顔をする。


「そうかしら?」


「不確定要素が多すぎる」


「でも、その方が早いわ」


 その一言で、決定的だった。


 早い。


 効率ではなく、速度。


 しかもそれが結果的に最適解になっている。


 レオニードは理解した。


 いや、理解してしまった。


「……お前は」


 ゆっくりと口を開く。


「何も考えていないのか」


「考えているわよ?」


 リリアーナは首を傾げる。


「でも、難しいことは分からないから」


 にこりと笑った。


「分かることだけで動いているの」


 それは、あまりにも危険な答えだった。


 理解できる範囲でしか動かない。


 だがその“理解できる範囲”が、他人とは根本的に違う。


 レオニードは視線を落とした。


 思考を整理する。


 結論は一つしかない。


「制御が必要だ」


 顔を上げる。


「当面、王都での単独行動を禁じる」


「え?」


 リリアーナが目を瞬いた。


「どうして?」


「リスクがある」


「でも」


「例外は認めない」


 即断だった。


 だが。


「困るわ」


 リリアーナは静かに言った。


「困る?」


「ええ」


「何がだ」


「お花を見に行けなくなるもの」


 その理由だった。


 応接室の空気が、一瞬だけ崩れる。


 ミアは顔を伏せた。


 公爵は口元を押さえた。


 レオニードは、数秒間言葉を失った。


 違う。


 そうじゃない。


 論点が違う。


 だが同時に、それが本音だと分かる。


 この妹にとっては。


「……」


 沈黙が続く。


 そして。


「……制限は緩和する」


 レオニードが折れた。


「護衛を増やせ。行動範囲を事前に報告しろ」


「それなら大丈夫よ」


 リリアーナは素直に頷いた。


 交渉は成立した。


 成立してしまった。


 だがレオニードは、自分が何に負けたのか分かっていなかった。


 論理ではない。

 感情でもない。


 もっと根本的な何か。


「……お前は」


 小さく呟く。


「本当に分かっていないのか」


「なにが?」


 リリアーナはきょとんとした。


 その顔を見て、レオニードは結論を出した。


「……いい」


 これ以上は無駄だ。


 制御は部分的に。

 観察は継続。

 評価は保留。


 それが今の最適解。


 立ち上がる。


「しばらく王都に滞在する」


「そう」


「必要があれば、再度話す」


「ええ」


 リリアーナは微笑んだ。


「久しぶりに一緒にお茶もしたいわ」


 その一言に、レオニードの動きが一瞬だけ止まる。


 だが何も言わずに、部屋を出た。


 扉が閉まる。


 静寂。


 そして。


「……お父様」


 リリアーナが小さく言った。


「私、怒られなかったわ」


「ああ」


 公爵は短く答える。


「怒る前に、理解を諦めたな」


「え?」


「気にするな」


 それ以上は言わない。


 一方、廊下を歩くレオニードは、珍しく思考が乱れていた。


 制御はした。

 方針も決めた。


 だが。


「……何だ、あれは」


 妹の姿が、頭から離れない。


 理論外。

 想定外。

 だが結果は合理的。


 そんな存在を、彼は知らない。


 そして同時に、確信していた。


「……放置はできない」


 これはまだ序章に過ぎない。


 そう感じていた。


 その頃、庭では。


 リリアーナがミアと一緒に、また花を見ていた。


「お兄様、少し怖くなった気がするわ」


「左様でございますか」


「でも優しいのは変わらないのね」


 くすりと笑う。


 その感覚は、たぶん正しい。


 ただし。


 その“優しさ”が、どこまで通用するかは――まだ誰も知らない。

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