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婚約破棄されたので普通の生活を目指します。なお私は剣聖らしいのですが自覚はありません  作者: 翡翠


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第29話 何気ない一言で、世界の前提が静かに壊れました

 王城の一室。


 先ほどまでの緊張が、わずかに緩みかけていた。


 王太子の「共存」という提案。

 それを受け入れる形で、場は一度、落ち着いたはずだった。


 だが――


 誰も、それで終わりだとは思っていない。


「もう一つ、確認したい」


 王太子が静かに言う。


 視線はまっすぐ、リリアーナへ。


「黒竜についてだ」


 空気が変わる。


 エリシアの指先がわずかに止まり、

 レオニードの視線が鋭くなる。


 ここが、まだ本題。


「今後、あれが王都に来る可能性はあるか」


 短い問い。


 だが、その重みは誰よりも理解している。


 リリアーナは少しだけ考えた。


 本当に、ほんの少しだけ。


 そして――


「そうね」


 自然に頷く。


「来たかったら来ると思うわ」


 沈黙。


 一瞬、誰も反応できなかった。


 あまりにも“普通の答え”だったから。


 だが、その意味が理解された瞬間。


 空気が、完全に止まった。


 レオニードの思考が瞬時に結論へ到達する。


 ――条件がない。

 ――制限がない。

 ――拒否以外に止める手段がない。


 エリシアはゆっくりと息を吐いた。


 ――これは、もう交渉対象じゃない。


 王太子は言葉を選ぶことすらやめた。


 だが。


 それで終わりではなかった。


 リリアーナが、続ける。


「だって」


 一拍。


「ああ見えて甘えん坊さんなの」


 その一言で。


 “黒竜”という存在の定義が、崩壊した。


 沈黙。


 完全な沈黙。


 誰も、言葉を発せない。


 黒竜。


 国家を滅ぼしうる存在。

 制御不能の災害。

 観測不能の脅威。


 そのすべてが――


 “甘えん坊”。


 その一語に書き換えられる。


 エリシアが、ゆっくりと口を開いた。


「……お姉様」


 声がかすれている。


「それ、どういう意味?」


「どういうって……」


 リリアーナは首を傾げる。


「近くに来て、こう……」


 手を伸ばして、軽く撫でる仕草。


「すり寄ってくるのよ」


 沈黙。


 レオニードが、静かに息を吐いた。


 ――理解した。


 いや。


 ――理解してしまった。


「……契約ではない」


 低く呟く。


 王太子が反応する。


「何だと」


「支配でもない」


 一拍。


「“関係性”だ」


 その言葉で、すべてが繋がる。


 黒竜は命令で動いているのではない。


 契約に縛られているのでもない。


 ただ。


 ――感情に応じて動いている。


 エリシアが小さく笑う。


 乾いた笑いだった。


「最悪」


 短く言う。


「一番ダメなやつ」


 王太子はゆっくりと背もたれに体を預けた。


 理解が追いつかない。


 だが。


 方向だけは、見えた。


「……つまり」


 低く言う。


「来るかどうかは、黒竜の意思ではない」


 一拍。


「お前の感情だな」


 リリアーナは首を傾げた。


「そうかしら?」


 否定も肯定もしない。


 ただ“分からない”という顔。


 レオニードが静かに言う。


「違う」


 全員の視線が向く。


「黒竜が来たいのではない」


 一拍。


「リリアーナが“来てほしい状態”になる」


 沈黙。


 それが、最も正確な表現だった。


 エリシアが小さく呟く。


「トリガー確定……」


 王太子は目を閉じる。


 そして、ゆっくりと開いた。


「……理解した」


 その声は、すでに迷いがない。


「これは“力”ではない」


 一拍。


「“現象”だ」


 結論だった。


 誰も否定しない。


 否定できない。


 リリアーナだけが、いつも通りだった。


「でも優しい子よ?」


 その一言に。


 誰も、もう何も言えなかった。


 なぜなら。


 それが真実であり。


 同時に。


 最も危険な事実だったからだ。

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