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婚約破棄されたので普通の生活を目指します。なお私は剣聖らしいのですが自覚はありません  作者: 翡翠


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第19話 黒竜が一言喋っただけなのに、なぜか全員の立ち位置が決まりました

 黒竜が現れてから、どれくらい時間が経ったのか。


 誰にも分からなかった。


 風は戻っている。

 空も元に戻っている。


 だが、その場にいる全員の感覚だけが、完全に変わっていた。


 ――理解してしまったからだ。


 何が“上”なのかを。


「ねえ」


 リリアーナが、黒竜の鼻先を撫でながら言う。


「少し大きくなった?」


 完全に普段通りだった。


 その一言で、張り詰めていた空気が微妙に歪む。


 エリシアは頭を抱えた。


「そこなの……?」


 レオニードは何も言わない。


 ただ、黒竜の動きを見ている。


 黒竜は、わずかに目を細めた。


 そして。


「変わらぬ」


 低く、重い声が響いた。


 空気が止まる。


 言葉だった。


 明確に、人の言葉。


 だがその響きは、人のものではない。


 理解できる。

 だが理解したくない。


 そんな種類の声。


 騎士の一人が、思わず膝をついた。


「……っ」


 誰も責めない。


 むしろ、それが自然だった。


 エリシアがゆっくりと顔を上げる。


「……喋った」


 確認するように言う。


 レオニードが短く答えた。


「ああ」


「会話、成立してるよね」


「成立している」


 一拍。


「最悪だ」


 結論だった。


 リリアーナは首を傾げる。


「どうして?」


「知性がある」


 レオニードは黒竜を見たまま言う。


「意思疎通が可能な存在が、この規模の力を持っている」


 言葉を切る。


「制御不能だ」


 リリアーナは少し考えた。


「でも、この子は優しいわ」


 その言葉に。


 黒竜の視線が、わずかに動いた。


 リリアーナへ向く。


「主がそう言うなら」


 それだけ言った。


 沈黙。


 完全な沈黙。


 エリシアが、小さく笑った。


「……ダメだこれ」


 理解した。


 いや、理解を諦めた。


「お姉様の一言で全部決まるやつだ」


 その通りだった。


 黒竜は、他を見ていない。


 周囲の騎士も、

 レオニードも、

 エリシアも。


 すべて“背景”に過ぎない。


「ねえ」


 リリアーナが、ふと思い出したように言う。


「この辺り、少し静かすぎない?」


 その言葉に、レオニードの思考が一瞬で動いた。


 ――来る。


「……何を感じた」


 低く問う。


「え?」


「その違和感だ」


 リリアーナは少し考えた。


「なんとなく、寂しい感じがするの」


 その瞬間。


 黒竜の瞳が、わずかに細くなった。


 周囲の空気が、変わる。


 圧ではない。


 もっと静かなもの。


 だが確実に――


 “何かが動く前の気配”。


「待て」


 レオニードが即座に言う。


「それ以上考えるな」


「どうして?」


 リリアーナが振り向く。


 その一瞬で。


 黒竜が口を開いた。


「必要か」


 短い言葉。


 だが意味は明確。


 エリシアの背筋が凍る。


「ちょっと待って、それ何の確認?」


 黒竜は答えない。


 ただリリアーナを見ている。


 判断を待っている。


 ――何をするか。


 レオニードは一歩前に出た。


「不要だ」


 即断。


「現状に問題はない」


 黒竜の視線が、わずかに動く。


 リリアーナからレオニードへ。


 ほんの一瞬。


 評価するように。


 そして。


「……主が否定しないなら」


 再びリリアーナへ視線を戻す。


 最終確認。


 リリアーナは少し考えた。


 そして。


「大丈夫よ」


 微笑んだ。


 その瞬間。


 すべてが止まった。


 いや。


 “何も起きなかった”。


 本来なら何かが起きるはずだった。


 だが。


 リリアーナの一言で、すべてがキャンセルされた。


 エリシアが、ゆっくりと息を吐く。


「……今、何消えた?」


「分からん」


 レオニードも正確には把握していない。


 だが一つだけ確実なことがある。


 ――“何か”が発動しかけていた。


 そして、それは止まった。


「……確認する」


 レオニードが黒竜に視線を向ける。


「先ほどの“必要か”とは何だ」


 黒竜は短く答えた。


「排除」


 その一言で、全員が理解した。


 対象は不明。


 範囲も不明。


 だが。


 ――確実に“何かを消す”つもりだった。


「……」


 エリシアが笑う。


 乾いた笑い。


「いや、ダメでしょそれ」


 リリアーナは首を傾げる。


「何が?」


「全部」


 即答だった。


 黒竜は、静かに目を閉じた。


 そのまま、ゆっくりと後退する。


「主が安定しているなら、不要だ」


 それだけ言うと。


 影が溶けるように消えた。


 空が、元に戻る。


 風が吹く。


 音が戻る。


 完全に“日常”が戻ってきた。


 だが。


 その場にいる全員が、同じことを理解していた。


 ――今のは偶然ではない。


 ――常に起こり得る。


 そして。


 リリアーナだけが、いつも通りだった。


「また来てくれるかしら」


 ぽつりと呟く。


 エリシアが即座に言う。


「来なくていい」


 レオニードも同意する。


「あれは来ない方がいい」


「そうなの?」


 リリアーナは少し残念そうにした。


 その反応に、二人は同時に思った。


 ――問題はそこじゃない。


 だが。


 それをどう説明するかは、まだ誰も分かっていなかった。

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