第18話 領地に遊びに来ただけなのに、なぜか空がひれ伏しました
アルヴェイン公爵領へ向かう馬車の中は、穏やかな空気に満ちていた。
「久しぶりね」
リリアーナが窓の外を見ながら呟く。
緑が増えていく。
王都とは違う、柔らかい景色。
「ええ」
エリシアが軽く頷く。
「空気が違う」
「そうかしら?」
「うん」
一拍置いて、続ける。
「静かすぎる」
その言葉に、レオニードが目を開いた。
「……気づいたか」
「うん」
「魔物の気配がない」
通常ではあり得ない状態。
辺境に近い領地で、これは異常だ。
リリアーナは首を傾げる。
「平和なのはいいことじゃない?」
正論だった。
だが原因が問題だ。
「原因が分からない以上、評価はできない」
レオニードは短く言った。
そして視線を外す。
――分かっている。
原因は一つしかない。
だが、それを言葉にするのは避けた。
――到着。
公爵領の屋敷は、王都のそれとは違う開放感があった。
だが。
人の動きが妙に整いすぎている。
「お帰りなさいませ」
出迎えの声。
だが、その裏にある緊張は隠しきれていない。
視線が、一斉にリリアーナへ向く。
敬意ではない。
――畏れ。
エリシアが小さく息を吐く。
「完全に認識されてるね」
「何が?」
リリアーナが聞く。
「お姉様のこと」
「どういうこと?」
「……あとでね」
今は説明しない。
いや、できない。
――午後。
屋敷の裏手。
広がる草原と、その向こうに見える山。
「懐かしいわ」
リリアーナが言った。
その声には、ほんの少しだけ“安心”が混じっていた。
帰ってきた。
それだけで、少しだけ心が緩む。
その瞬間。
風が止まった。
音が消える。
空気が変わる。
エリシアの顔から笑みが消えた。
「……来る」
小さく呟く。
レオニードは即座に周囲を見渡す。
「全員、下がれ」
低い声。
護衛が一瞬で動く。
だが――
意味はない。
影が落ちる。
ゆっくりと。
確実に。
空が、暗くなる。
「……」
誰も声を出さない。
出せない。
それは恐怖ではない。
もっと原始的なもの。
――“格”の差。
次の瞬間。
巨大な存在が、音もなく降りてきた。
黒。
ただ黒。
光を吸い込むような鱗。
空気を支配する存在感。
黒竜。
その場にいる全員が、理解した。
――終わった。
だが。
「あら」
リリアーナが一歩前に出た。
全員の呼吸が止まる。
止める間もない。
「来てくれたの?」
その一言。
黒竜の動きが止まる。
そして。
ゆっくりと。
頭を下げた。
完全に。
明確に。
――服従。
沈黙。
誰も動けない。
理解が追いつかない。
黒竜はそのまま、リリアーナへと顔を近づける。
巨大な存在が、まるで――
甘えるように。
「元気だった?」
リリアーナは自然に手を伸ばした。
触れる。
黒い鱗に。
その瞬間。
空気がさらに変わる。
圧が消える。
だが、支配は消えない。
エリシアが、小さく呟く。
「……嘘でしょ」
レオニードは何も言わなかった。
言葉が意味を持たない。
ただ一つだけ、確定した。
――これは戦力ではない。
――現象だ。
「可愛いわね」
リリアーナが微笑む。
その言葉に。
黒竜が、わずかに目を細めた。
あり得ない反応。
だが現実。
周囲の騎士が、ゆっくりと膝をついた。
誰に命じられたわけでもない。
ただ。
そうするしかなかった。
エリシアも動けない。
レオニードも、ただ見ている。
そして。
リリアーナだけが、いつも通りだった。
「少し遊びましょうか」
黒竜の鼻先を軽く撫でる。
黒竜は、静かに頷いた。
その光景を見て。
全員が、同じことを思った。
――これは。
――もう。
――人の世界ではない。
風が戻る。
音が戻る。
だが。
世界の前提だけが、完全に変わっていた。
そしてリリアーナは。
「やっぱり、ここは落ち着くわね」
そう言って、いつも通りに笑った。




