【第10話】大賢者の不眠と、小さな温もり
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迫り来る王都壊滅の危機と、連日の過酷な解析作業。
800年を孤独に生き抜いてきた大賢者が、ふと見せた弱さ。
静かな夜、二人の間に温かなシチューの湯気が立ちのぼる――。
どうぞお楽しみください!
深夜。『酔っ払い亭』の厨房は、昼間の賑やかさが嘘のように静まり返っていた。
パチパチ、と微かに爆ぜる薪の音だけが響く。ユーリは台所に立ち、不格好に切られた野菜がごろごろと入った鍋を見つめていた。
今日初めての現場で大奮闘したキャシーや、お腹を空かせているであろうメリッサのために、不器用ながら少し焦がし気味にシチューをコトコトと煮込んでいる。
「クンクン……」
不意に、背後から鼻を鳴らす可愛らしい音が聞こえた。
パタパタと軽快な足取りで近づいてきたのは、赤髪の獣人キャシーだった。
獣の耳を嬉しそうにピコピコと動かしながら、鍋の様子を覗き込んでくる。
「あ、ユーリ、それメリッサに?」
「ん? ああ。調査から戻ってから丸二日、部屋に閉じこもってろくに食事を摂ってないからね。食べやすいものをと思って」
「ずるい、キャシーちゃんにも食べさせて!」
「あはは。いいけど、プロの口には合わないと思うよ」
「そんなことないって」
キャシーは手からスプーンをすっと奪い取ると、少しお行儀悪く鍋から直接シチューをすくって口に運んだ。
キャシー特有のしなやかな肢体が、美味しさに震えるように微かに揺れる。
「熱っ! はふ、はふ……。でも、めちゃくちゃ美味しい!」
キャシーの顔が一気に輝いた。大きな瞳を細めて、無防備な笑顔を向けてくる。
「やっぱり、ユーリが作るご飯が一番好きかも!」
「ありがとう、持っていくのに勇気が出たよ」
「焦げてるけど」
「焦げてないって」
ユーリは呆れたように小さく笑いながら、キャシーの分をしっかりと取り分けた皿を渡した。
「熱いから気をつけて食べてね」
そう言い残し、もう一皿の温かいシチューを載せた盆を手に取り、徹夜で分析を続けているメリッサの工房へと向かった。
静まり返ったメリッサの魔道具工房。
机の上には、実験施設から回収した帝国製軍用機『アルギス』の残骸と、真っ黒に焼け焦げた『MOS』チップの破片が散らばっていた。
ピンセットなどの精密な魔導工具を使い、不具合の起きた魔導回路を分解するメリッサの横顔には、昼間の天真爛漫な明るさは微塵もなかった。
そこにあるのは、八百年の歳月を生き抜いてきた大賢者としての、冷徹で、そして深い憤りを含んだ瞳だ。
「……やっぱり、これはただの出力向上チップなんかじゃないわ」
メリッサはぽつりと、誰もいない暗がりに向けて呟いた。
「これ(MOS)は、道具を便利にするためのシステムじゃない。魔力循環をめちゃくちゃにして、その対象を無理やり燃料として燃やし尽くし、最終的には暴発させるための――『呪詛の回路』よこんな無機質なシステムで使い捨てにするなんて……絶対に許せない……」
すべてを無に帰そうとする不届きな組織への、強い怒り。
命の重さを知る大賢者としての誇りが、メリッサの背中を静かに奮い立たせていた。
「熱っ! 夕食、持ってきたよ」
不意に、背後から気の抜けた声が聞こえた。
驚いて振り返ると、そこには湯気の立つシチューの皿を持ったユーリが立っていた。
指先を耳たぶに当てて「熱い熱い」と呟いている。
「べつに無理して食べなくったって……」
「食べなきゃダメだよ。ちゃんと栄養摂らないと、倒れるよ」
ユーリはそう呆れたように笑い、メリッサの机の端に不格好なシチューを置くと、小さな彼女の頭をぽんぽんと、少し乱暴になでた。
その、雑で、温かい手のひらの感触が、メリッサの頭頂部に触れた、まさにその瞬間。
メリッサの脳裏に、かつて何度も何度も、繰り返し思い返してきた「古い記憶」が、濁流のように蘇ってきた。
八百年という歳月は、世界を何度か塗り替えるのに十分な時間だった。
ハイエルフ――古代の血を引く私たちは、年老いることもなければ、病に倒れることもない。
私の周囲で暮らす普通のエルフたちが四百年ほどの寿命を全うして土に還っていくなかで、私だけが、世界に取り残されたように生き続けている。
長く生きるということは、膨大な魔力と知識を蓄えるということだ。
けれど、器に溜まっていくのは都合のいい力ばかりではなかった。
去っていった者たちの面影、交わした言葉、そして二度と触れられない体温。
消えない傷痕ばかりが、胸の奥底に静かに積もっていく。
若い頃の私は、何も知らなかった。
世界の残酷さも、命の脆さも。
知らなかったからこそ、無邪気に笑い、高慢でいられたのだ。
かつて、私は人間たちの「勇者」と呼ばれるパーティに加わっていた。
世界を救うなんて大層な志があったわけじゃない。
ただ、リーダーを務めていた若い剣士が、私を見るたびに可笑しそうに笑うのが気に入らなかったからだ。
「よく頑張ったね、メリッサ。偉いぞ」
どんなに強大な古代魔法を放ち、一撃で魔獣の群れを吹き飛ばしてみせても、彼は私を子ども扱いした。
頭をぽんぽんと落書きのようになでる彼の手が悔しくて、私はある日、顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「君は私を誰だと思っているの!? ハイエルフよ! この世界に二人といない、尊くて貴重な存在なのよ!?」
剣士は驚いたように目を見張り、それから、やっぱりいつものように困ったような、愛おしそうな笑顔を浮かべた。
「わかっているよ。すごく貴重な存在だ。……でもね」
彼は屈み込み、私の目線に合わせるようにして言った。
「向かいのパン屋のおじさんも、朝早くから小麦粉だらけになってパンを焼く貴重な存在だ。あの気厳しい武器屋の爺さんも、文句を言いながら誰かの命を守る剣を打つ貴重な存在なんだよ」
私は頬を膨らませてそっぽを向いた。
たとえに出されたのがむさ苦しい男ばかりだったのが気に入らなかった。
けれど……彼のその言葉は、私の胸の奥深くに、小さな灯火のように残り続けた。
この世界に生きる命は、どんなに小さく見えても、すべてが二度と代わりのきかない宝物なのだと。
……だが、当時の私はまだ知らなかったのだ。
戦うということが、どれほど恐ろしいことか。
そして、その「代わりのきかない命」が、あっけなく消えてしまうものだということを。
魔王との決戦の果て。
冷たい雨が降り頻る荒野で、剣士は血の海の中に横たわっていた。
どんな高度な回復魔法を唱えても、彼の体から溢れ出る命の灯火を繋ぎ止めることはできなかった。
私は必死で、彼の冷たくなっていく手を握りしめた。
「……お願いが、あるんだ……」
彼は掠れた声で、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「どうか……絶望して、死なないでくれ……。世界は……メリッサが思うより、ずっと素敵だから……」
私はボロボロと涙をこぼしながら、泣き笑いのような顔で応えた。
「……ひどい人ね、君は。それがどれほど残酷な呪いか、わかって言っているの……?」
彼はそれ以上、何も言わなかった。
握りしめた手の力が抜け、彼の物語はそこで終わった。
残された私は、途方もない孤独の海に放り出された。
死ぬことすら許されないまま、ただ旅をした。百年、二百年……。
どこに行っても、町にはパン屋があって、武器屋があった。そのたびに思い出す。
人が生まれ、年老い、死んでいくたびに、私の心は少しずつ擦り減っていった。
彼らを愛せば愛するほど、見送る苦しみが私を苛んだ。
やがて私は、この世界を根底から消し去ろうとする暗黒の組織の存在を知った。
彼らが目指すのは、生きとし生けるものの完全な消滅。
……もし世界が滅びれば、私もきっと絶望して死んでしまう。
だから私は一人、その組織と戦うことにした。世界を守りたいからじゃない。
勇者との「絶望して死なない」という約束を、破ってしまわないための悪あがきだった。
希望が落ちてきたのは、崩壊しかけた古代の遺構だった。
激しい死闘の最中、追い詰められた敵の幹部が起動させた魔道具が、未曾有の暴走を起こした。
世界を構成する根源のシステムが悲鳴を上げ、時空に、一般人には絶対に見えないはずの、漆黒の裂け目が走る。
そこから落ちてきたのは――見慣れぬ奇妙な服を着た、一人の人間。ユーリだった。
ユーリはただの、巻き込まれただけの被害者のはずだった。
だが、その少年は異質の力を宿していた。
敵組織が世界を滅ぼすために呼び出そうとしていたのは、この世界の魔力とは根本的に異なる、『マナの力』だった。
大賢者である私のどんな高度な魔法も効かず、世界を暗黒で侵食していくその歪みに対し、落ちてきた少年は、怯えながらも手を伸ばしたのだ。
「よし! じゃ、問題解決しようか」
少年が触れた瞬間。
世界を滅ぼすはずだった虚無の暗黒は、不純なテープを引き剥がすかのように、ただの「ビリリィーー……ッ!」という音と共に、あっけなく霧散して消滅した。
少年は、世界で唯一、マナを『見ることができ、触れることができる』という特殊な眼と手を持っていただけだった。
だがその単純な事実が、世界の危機をあっけなく砕き去った。
戦いが終わり、静寂が戻った廃墟で、私は膝をついた。
極限の疲労と魔力の枯渇で、指一本動かすことができなかった。
異世界の少年は、混乱しながらも私に駆け寄ってきた。
大賢者としての私の放つ凄まじい魔力にも、ハイエルフという存在の威光にも、彼は一切気づいていない。
ただ、目の前で傷つき、疲れ果てている一人の女の子として、私を見ていた。
そして、泥だらけになった私の顔を見て、自分の制服の袖で乱暴に拭った。
「大丈夫? すごい顔してるよ」
――ああ、そうか。
その時、私の胸の奥で固く凍りついていた何かが、静かに音を立てて割れた。
勇者は、私を「偉大なハイエルフ」だから愛したのではなかった。
パン屋のおじさんや武器屋の爺さんと同じように、ただ「そこに生きて、泣いたり笑ったりしている一人の存在」として、私を愛してくれていたのだ。
そして今、目の前にいる少年もまた、私を何者でもない、ただの「メリッサ」として見ている。
「……やっぱり、生意気ね」
現在。深夜の工房。
メリッサはそっぽを向き、差し出された焦げ臭い野菜シチューを口に運んで噛みしめた。
しょっぱくて、焦げ臭くて。
でも、驚くほどに温かかった。
涙が溢れそうになるのを隠すように、メリッサは窓の外の夜空を見上げた。
満天の星々が、世界を静かに照らしていた。
(ねえ、聞こえる?)
心の中で、もう届くはずのない遠い存在へ、言葉を紡ぐ。
(君の遺した残酷な呪いのせいで、私はこんなところまで来てしまったよ)
でもね――と、メリッサは隣で「熱っ!」と声を上げながらシチューを頬張るユーリを盗み見た。
かつて自分を子ども扱いした、あの剣士の笑顔が、どうしてか少年の雑な優しさと重なって見える。
(どうやら私には、まだまだ世界を見つめる理由がありそうなんだ)
当分のあいだ、絶望して死ぬことはなさそうだよ。
だからもう少しだけ、この温かい世界で、生きていってみるね。
「ねえ、ユーリ」
「ん? 何?」
シチューのジャガイモを口に放り込みながら、首をかしげる。
「ううん。美味しいわ、この焦げたシチュー」
「焦げてないって。ちょっと香ばしいだけだから」
ふふ、とメリッサは今日一番の、本当に温かい笑顔を咲かせた。
シチューを食べ終えたメリッサは、いつもの冷静な大賢者の顔へと戻り、机の上の資料をいじり始めた。
「ユーリ、あなたの言う通りだわ。あの汚染された魔導回路を狂わせるための高周波……。人間には聞こえない音だとしても、街中にいるすべての魔道具を一斉に狂わせるほどの音量となると、普通の装置じゃ出力が足りない」
「うん。普通の個人用の魔力剣やゴーレムの出力じゃ、あの大気中の振動は生み出せないはずだ」
メリッサは真鍮製の『音域周波測定器』の数値をいじりながら、街の地図を指し示した。
「だけど、思い当たることが一つだけあるわ。最近、この街の至る所に設置された『害獣・害鳥駆除装置』よ! 畑を荒らす魔鳥や害獣を追い払うために、人間には聞こえない高い音を広範囲に響かせる大きな装置が、街の中心にある『白亜の塔』に最近設置されたばかりなの」
その説明を聞き、ユーリの脳裏でピースがパズルのように噛み合った。
「その駆除装置の発振周波数を、犯人が外からいじることで、汚染された『MOS』チップの暴走トリガーに作り替えたんだ」
「その通りよ。街全体が一斉起爆する前に、その装置を止めるか、周波数を元に戻さなければ、いつ街全体が吹き飛ぶか分からないわ」
タイムリミットは、刻一刻と迫っていた。
翌朝一番で、街の中心にそびえ立つ、厳重な管理施設である『監視塔』へと向かうことを決意するのだった。
第10話をお読みいただき、本当にありがとうございました!
普段は頼れる大賢者であり、時にユーリに甘えるメリッサ。
そんな彼女が背負い続けてきた途方もない歳月の重みと、ユーリの飾らない優しさが心に染みる夜でした。
温かなシチューで英気を養い、絆を深めた二人。
しかし、安らぎの夜が明ければ、いよいよ王都を揺るがす核心――『白亜の塔』の調査が始まります!
次話、ついにあの冷酷無比な氷の女帝――聖騎士団長エリアナが立ちはだかる!?
「メリッサとのやり取りが尊すぎる……!」
「二人の静かな空気感がすごく好き!」
「スープの温もりが沁みる回だった!」
「いよいよ白亜の塔への潜入か、次も楽しみ!」
と少しでも心温まっていただけたり、続きが気になりましたら、
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次話【第11話:凍りついた足跡】へ続きます。
次回は明日7時40分頃更新です。
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