五話 婚約者の肩書き
「殿下に振られたですって⁉︎」
「ハロルド、声が大きいわ……」
学園内でライオラに当てがわれた学生寮の一室。
細やかな蔦や花々の描かれた壁紙や絨毯の部屋は、王侯貴族の為に作られた部屋だった。
白い柔らかなネグリジェ姿で天蓋付きベッドに腰を下ろした彼女は、声を荒げながら紅茶を淹れる従者に苦笑した。
「大袈裟よ、ハロルド……」
傍に立つ彼にそう言った。
皺のない黒の燕尾服に身を包み、薄い金髪を短く切りそろえた彼は、若葉色の目を吊り上げる。
「黙っていられると思いますか! お嬢様はアイツの為にどんな理不尽にも耐えて来た! それなのに婚約破棄……? 断じて許されるものか」
ハロルドの言葉の最後は、地の底から聞こえたかのように冷え切っていた。
「誰に聞かれるかもわからないのに、もうハロルドったら……」
怒っている様子であっても、ハロルドの手付きは丁寧だ。淹れたての紅茶を注いだティーカップを、彼は音も立てずにサイドテーブルに置いた。
「お嬢様を一人で呼び出したかと思えば……ぐぬぬぬ、私がついていればその場であの男の頭をぶっ叩いて差し上げたのに」
「いけないわ、ハロルド。いくら貴方も幼馴染とはいえ、不敬罪で捕まってしまうわよ……」
「お嬢様を泣かせたんだ。どうせ捕まるなら記憶がなくなるまで叩いてやる」
「も、もうっ」
ライオラは淹れたての紅茶を口に含む。ほっと一息付かせる湯の熱さが心に染み渡る。
「……わたくし、殿下のこと……お慕いしていたわ」
ぽつりと口からそんな言葉が溢れでる。紅茶の温度にほっとしたのかもしれない。
――そう、心から。
ライオラはティーカップを両手で包み込んだ。婚約者だからずっと厳しい教育に耐えて来たのではない。惹かれていたのだ、彼の真面目すぎて無愛想なところも。そして不器用なところも。
紅茶に反射した自身の顔を見つめる。瞳に光はなく、なんて憂いを帯びた顔をしているのだろう。
「お嬢様」
「……」
ハロルドの静かで落ち着いた声が胸にストンと落ちる。
「やはり殴って来ましょうか」
「ハ、ハロルドッ!」
パッと見上げた時、額に青筋を立てたハロルドの顔があった。
白い大理石の床をライオラは歩く。
普段ならば婚約者と共にいるはずが、今日は従者のハロルドと二人。分厚い教科書を胸の位置で抱えて持つ。胸中は巨大な岩の様に重くどんよりとしていた。
「お嬢様、私が付いておりますよ。何かあれば間に入ります」
「ええ、ありがとうハロルド。貴方がいて心強いわ」
ハロルドの声に心が穏やかさを取り戻す。
王子による婚約破棄から一夜明け、ライオラは魔法史の授業に向かっていた。
気品漂う重厚感のある扉を開けて教室に入る。
室内は二人掛けの席が並び、その中でも真ん中の列、一番前の席に座る宵闇の様な黒髪を見つけた。マルクトだ。彼の隣は空いている。
――マルクト様、もういらっしゃっているのね。
中に入らなければ。だが踏み出そうとする足は重く、なかなか前に進めない。
「お嬢様」
「……ええ、行きましょう」
従者の声に促され、ライオラはやっと教室に入り前方に向かった。
背筋を伸ばし、マルクトの後ろ姿を見つめる。婚約破棄を申し出されていても、公爵令嬢である己が彼を無視することはできない。
「おはようございます、殿下」
よかった、声は震えなかった。ひとまずホッとする。
「……ああ、ライオラか」
マルクトは振り返らず応えた。なんて抑揚のない声か。今日は初めて会ったというのに、顔も見てくれない。
ライオラは軽く頭を垂れると、くるりと向きを変え机に教科書を置いた。選んだのはマルクトの左後ろの机だ。
教室中がざわついた。
「えっ……どうしてライオラ様はあちらに?」
「え、え……?」
「なんだなんだ、どういうことだ」
周りの様子からして、婚約を破棄されたことはまだ公にされていないようだ。これまでライオラは常にマルクトの隣を確保し続けていた。
――殿下のお隣に座るなど、烏滸がましいもの。私はここで良いのよ。この斜め後ろで。
ライオラは聞こえてくる声を気にしないふりをして、無理やり背筋を伸ばすと席に着いた。
「お嬢様。ご無礼を承知で、お隣に失礼いたします」
「ああハロルド、無礼だなんて。ぜひ、お座りになって?」
ライオラの隣にはハロルドが腰を下ろす。ハロルドが座ると同時、驚いた様子でマルクトが後ろを振り向いた。普段はよく細められている彼の目だが、今は溢れ落ちそうな程大きい。
「……ッ」
「……?」
どうしてそんな顔をするのだろう。
婚約者でなくなっても貴方を後ろから守るわよと、ライオラは優しく微笑み返した。
「ねえ、殿下とライオラ様、何かあったの……?」
聞こえてくるひそひそ声。マルクトが言わない限り、こちらから公表する物ではない。
知られるまで、堂々とするのだ。
それに『婚約者』という肩書きが無くなっても、ライオラが公爵家の娘である事実に変わりはない。
――ですがマルクト様、どうしてそんなに驚かれているの?
彼がなぜそんな表情をするのか分からなかった。
「……マルク、殿下?」
ポツリと彼の名前を呼んぶ。
つい長年の癖でマルクトの名前を呼んでしまいそうになるが、いけない、名前は気安く呼ぶものではない。これからは殿下と呼ばなければ。
「お嬢様、まもなく始まりますよ」
「ええ、そうね」
ハロルドの声にマルクトから気を逸す。
教室中の生徒の視線が刺さる。だが気にするな。
――大丈夫、私は私だわ。




