三十六話 期待と裏切り
「 ……そう、ですのね」
魔王は協定を破っていないと主張を曲げない。
人間側の歴史しか知らないが、魔王が言うように始めから王国を滅ぼしたければ、今日を待たず魔王自身が出向いていればよかっただけのこと。いくら現代の人間が魔法を使えても、元から魔力を持つあの男に到底敵わない。
――つまり、昨今の魔物被害は私達王国側の責任……ということなのね。
ここで怖気付いてはいけない。
身が凍りつきそうな程魔王の目は冷たいが、彼もまた自国民を守るために人間界に降り立っているのだ。ライオラ達と同じ、その地に暮らす民を守る者としての責務として。
スッと隣の彼が動くのが見えた。ライオラを庇うかのようにマルクトが一歩前に踏み出していた。
「魔王、不可侵の条約を犯したことについては謝罪しよう。だがこちらも甚大な被害を被っている。関係のない民を巻き込むことだけはご容赦願いたい。王都に撒かれている魔界の……貴公の魔力を取り去っていただけないか。民に罪はない」
「……関係のない? 貴様らの自業自得ではないか?」
マルクトは言い返さない。
――マルクト様、どうなさるおつもりで。
この冷え切った空気の中、背中を汗が伝う。永遠とも思える十数秒が過ぎた頃、マルクトが口を開いた。
「……詫びることしかできないが。昨日の騒ぎについては、我々の駐屯地に襲来した魔物は全て騎士団の方で保護している。彼らについては貴公の元にお返しするつもりだ」
「……それは速やかにご返還願おうか、マルクト王子。だが不思議なことだ……貴殿も駐屯地にいたそうだが、なぜ今までのように殺さなかった?」
「駐屯地の襲撃は彼らの意思ではない。ならば殺す必要はない」
「後で彼らを殺し、その体内から魔力を奪い取ろうとしているようにしか思えないが……?」
「無闇な殺生は行わないよう騎士団に命じている。今後はそちらからの手出しがない限り、我々から傷つけることはない」
「……どんな心変わりだ、マルクト王子」
「心変わり? いいや、民を想う気持ちは貴公と同じだ」
マルクトの声に揺るぎはない。
ライオラも魔王の目を真剣に見て訴える。
――そうよ。人間と魔物を区別などしてはいけない。アイシア様の心を、受け継いで行かなければ。人間界も魔界も、一度は手を取り合っているのだから。
今また一つになる時。
学園に現れた黒狼、アイアンローズ、そして駐屯地に集まった多くの魔物たち。彼らの痛みを理解できなければ、愛の魔法など使えない。
「同じだと? これまで奪われた命は? それを償うことも出来ぬ愚かな人間どもが何を言う」
「殺させない。いや、殺さない。俺がその時代を作ろう、魔王。まずは国境に張られた結界を解く。長らくマガツ森を分断して申し訳なかった」
「結界を解く……? そうすれば貴様らの住処の近くに魔物が現れることになるぞ、王子よ」
「ああ。だが分断したままでは魔物が、魔界が危険だという認識を変えることはできない」
「貴様ら人間では、彼らと言葉も通じぬではないか。分かり合えるとでもいうのか?」
「言葉はいらない。彼らは敵意がなければ攻撃することはない。人間を代表し俺が謝罪する。願わくば魔王よ、王都から撤退を。国中に撒かれている貴公の魔力もどうか解除していただきたい」
「……知らぬ存ぜぬを決め込んだ王よりは、見込みはあるか」
魔王の声音が和らいだ気がした。もしかしたら和解できるのでは、そんな淡い希望を持つ。
だが、
「……だが遅かったな、その要望は聞き入れられない。これまで数多くの命を奪われた。その手前、こちらも引き下がれぬのでな。一度滅んでみるがいい……ああ、貴様らには『魔法』があるのだろう? 抗うつもりならどうにかしてみせればいい。出来なければ、己らの業に焼かれて滅ぶことだな」
「ッ、魔王!」
「マルクト様!」
「兄上!」
魔王の返事は冷酷なものだった。ただ、一瞬だけ。雰囲気が和らいだのは気のせいか。
――今、分かり合えると思えたのに……魔王はどうしてそんな悲しい顔をするのっ?!
一度は期待したのだろう。過去のアイシアが現れた時のように。
突如、ずしりと体が押さえ付けられるような感覚が襲った。
「っ……マルクト様、今」
「クッ……」
魔王が立つ側から重苦しい魔力の圧を感じる。視界に映る大広間は徐々に黒い霧に包まれていった。
――これは、穢れ……彼の魔力だわ。いけない。このままでは……ああ、意識が。
とろりと頭の中が溶ける感覚に酔う。だめだ、このままでは眠ってしまう。そんな気がし、ライオラは必死に目を開き魔王を見据えた。
「……お止めくださいまし、こんなことをなさっても……何も……!」
「人間の娘よ、私は既に人間に期待などしていないのだよ」
冷たくも、寂しさのある声が聞こえた。
「そん、な……、!」
黒い霧が濃くなっていく視界の中、誰かに肩を抱き寄せられた。横を向けば、マルクトの腕に包まれていることに気付く。
「マ、ルクト様……?」
「ライオラしっかりしろ。目を閉じるな。クロード、ハロルドもだ! 絶対に眠るな! ハル!」
「は、はいぃ!」
「クロードとハロルドを頼む!」
「は、はい、ですの!」
マルクトはそう叫ぶように言うと、片手を前に差し出した。彼の手を中心に風が起こり、ふわりとライオラの体を優しく包み込んだ。
――風……これは一体何。
目が覚めるような心地のいい風が魔王の魔力を祓う。新鮮な空気が肺を満たす。重苦しかった呼吸が、穏やかさを取り戻していく。
「……、マルクト様?」
名前を呼んでも返事はなく、ただ真剣に魔王がいる方を見据えている彼の顔を見上げる。
――この力は……こんな魔法は学園でも習っていないわ。
大広間に蔓延していた霧は徐々に晴れていく。マルクトが使っているこの魔法は、魔法石の力か。
「……浄化の力か? まさか、魔法石が選んだのは!」
「……」
マルクトは答えない。
魔王は戸惑ったようにハルをキツく睨んできた。
「……妖精ハル、どういうことだ! 次の石に選ばれるのは人間の女だったんじゃないのか! 妖精国ではどうなっている!」
「ひいっ……おこってもしょうがないのですの! 魔法石はおうじさまをえらんだんですの! どうしようもないですのォ!」
どうやら、魔法石がマルクトを選んだことに驚いているようだった。魔王がうろたえる様子を見せるとは思わず、ライオラはマルクトと顔を見合わせる。
「……」
「……」
ここにきて初めて魔王の表情ががらりと変わった。嘲るように見ていた目は、どこか哀れみのこもっているような目になる。
「予言と違う。男が選ばれるなど……こんな間違い……だが、まあ良い。魔法石に選ばれたとして、国中に撒いた魔力の霧を晴らすことが出来なければ、この国を中心に人間界は滅ぶ。言っておくが、私を倒したところでこの霧は晴れん。魔力源は別にあるからな。せいぜい滅びの時まであがくといい」
「魔王!」
「兄上! 外が!」
クロードの声に、大広間の窓の外を見た。薄暗かった外の景色はいまや真っ暗な闇の様に塗りつぶされている。
――民は……王都の皆は無事なの!?
王都に戻った時、城下町は人の声が全く聞こえなかった。つまり国王夫妻達のように眠らされているのだろう。
――早く霧を晴らさねば……! 魔王の魔力を吸い込み続けてはどうなるか。ですがあの中をどうやって進めば……はっ! そうです、光魔法で国中を照らせば!
マルクトの腕を振りほどき、大広間の扉の方に駆け出そうとする。だが力強い手で腕を掴まれた。
「待て、ライオラ! どこに行くつもりだ!」
「お放しください、マルクト様! 急ぎ民の保護をしなければ!」
「君一人で行かせられるか! ここにクロードとハロルドと、三人で残れ。通常魔法じゃ霧は晴れない!」
「ですがマルクト様!」
「君をここで失うわけにはいかないんだ、ライオラ!」
「ッ!」
マルクトの叫ぶような声に息を呑んだ。
「……町には俺が行く。何の為に、あの日、婚約を破棄したと思って……くそッ」
「マルクト様……」
「必ず戻る……だから、ハル! ここの皆を頼むぞ!」
マルクトはクロード達の傍を飛んでいたハルにライオラを託すと、駆け足で大広間を後にした。




