二十話 本心
外の空気が吸いたい。そう思い、学園の廊下ですれ違う生徒に見られるのも憚らず、ライオラはスタスタとガーデンを目指した。
外に出ると、庭園の鉄の門を押し開け中心までフラフラと歩いた。
白薔薇が咲く小道を通り、アーチを抜けて広場で立ち止まる。
ライオラは甘い花の香りを含んだ空気を思い切り吸い込んだ。肺いっぱいに取り込んだ空気の冷たさが、冬の訪れを感じさせた。
「お嬢様」
ハロルドの声が聞こえ、肩を大きく振るわせる。ゆっくり振り返ってみれば、従者の姿がアーチの側にあった。上下に揺れる肩に気遣わしげな表情。急いで追いかけてきたらしい。
「……ハロルド」
「……ここにいた。お嬢様、どちらに行かれるのかと思いましたよ」
「……ごめんなさい。少し、夜風に当たりたかったの」
彼の地面を踏む音が近づく。
微かに大広間からワルツの曲調が聞こえてくる。
「……ここでも、聞こえるのね」
「お嬢様、先程のダンス……お見事でした」
ハロルドの声に、マルクトと踊った記憶が蘇る。
――踊ってしまった、彼との……最後とダンス。
庭園に漂う薔薇の匂いは、彼が纏う薔薇の香りで。
「……私は……」
彼に握られた手も、抱き寄せられた腕の感覚も全てがまだ新しく新鮮だ。
「私……もう」
「学園の薔薇はよく手入れがされていますね。一年中必ず咲いている花があるとか」
突如ハロルドが近くの植木に咲いた赤い花を見ながら言った。
「……庭師が優秀なのね……きっと……」
返事をしたが、声に張りはなかった。これではハロルドに気落ちしていると思われてしまう。
一番近くに咲いていた花を眺めてみる。花弁をこれでもかと開いた花は、あの日マルクトから贈られたというドレスのスカートを思い起こさせる。
――あれを、着ていくべきだったのかしら……。
先程、彼になぜ着てこなかったのかと聞かれた。選ぶべきではないと思っていたから、エーデルの青を選んだ。この選択に間違いはなかったはずなのに、何故か酷く後悔している。
「お嬢様」
ハロルドはライオラを呼ぶと、その場で片手を胸に添え礼をして見せた。
「少し、私と踊ってみませんか?」
「……え」
ハロルドの若草色の瞳が、ガーデンの外灯の光を受け輝いた。暗く落ち込んだライオラの心を、彼の瞳の色が初夏の若葉の如く彩る。
「せっかくの学園での舞踏会です、一度だけでは勿体無いと思いませんか……お嬢様?」
「……ふ、ふふ。そうね……ハロルド、喜んで」
ライオラはハロルドの手を取る。
彼の手には何度か触れたことがあるが、手袋越しでも伝わる大きな手に緊張感を覚えた。あの人とは違う、指の細さを感じながらも力強さのある手。音楽のリズムに合わせ、そろりそろりと足踏みを始める。
ハロルドのリードは、恐ろしく柔らかで穏やかだった。マルクトよりも背が高い彼に、大きく首を傾けて顔を見上げる。
――上手……ハロルドったら、いつ練習をしていたの。
身長差のある彼の優しい気遣い。動きの全てが、ライオラに負担をかけないよう滑らかで丁寧であった。
少々強引さのあるマルクトとは違うリード。
ライオラのダンスの相手は常にマルクトであった。幼い頃に決まった婚約。王家との約束事に割り入ってくるような貴族はおらず、ライオラの思い出の殆どにマルクトの姿はあった。だからこそ、ライオラは他の男性と踊った経験がほとんどない。ハロルドと踊ったのも、お互い身長が今の半分も伸びていない頃のことで。彼が従者として、ライオラの練習相手にさせられていた時くらい。
「……」
「……」
ガーデンの静寂に大広間からの音楽が混ざり込み、庭園にボールルームを作り出す。艶やかな音色とコツコツと響く靴音だけが、二人の世界にはあった。
――この曲は、よく殿下と踊ったわ……去年のお城でも……。
いつだってマルクトと。
突如ライオラの脳裏に、先程踊った時のマルクトの顔が思い浮かんだ。直後これまでの舞踏会での彼との記憶が走馬灯のように蘇り、ライオラの世界は時間が止まったかのように酷く静かになった。
ステップを踏んでいた足が止まる。ハロルドはライオラに顔を見られ続けながらも、取り合っていた手をそっと下ろすと、片方の手袋を外しながら口を開いた。
「お嬢様?」
「ハロルド、私っ」
ぶわりと感情が溢れ出る。抑えきれなかった。
ハロルドの指が、そっとライオラの目の下に触れた。彼の指には光る雫が一滴、乗っている。
「……良いんですよ。ここには私達しかおりません」
「ツ……わた、くし……ッ……」
声を出すほど、頬に流れる熱い何かは止めどなく溢れ出た。ハロルドを見ているのに、頭に浮かんでくるのはマルクトの顔で。どうしてと、困惑のまま立ち尽くす。
「だっ、て……わたくしは……ライオラ・フォン……ッ、エーデル。エーデル公爵、家の、むすめ、ッ……なのに」
「……」
「こん、な……こんなことで、泣いて……ッ……」
「お嬢様。立派に演じようとしなくて良いんです。貴方は貴方で良い。アイツが許せないなら、許さなくて良いんですよ」
「ですけど……ハロルドッ」
「お嬢様がアレを支えたいというのなら、私もお側で貴方をお支えします。泣いて良いんです、貴方は。『今は』その時です。さ、お嬢様」
その言葉の後、ハロルドに抱き締められる。ライオラはっと息を呑む。許可なく主人を腕に抱くなど、どんな処罰をされるか知らないはずがない。
「……っく……うっ……ああああ」
「……」
溢れ出たものはもう止まらなくて。
――どうして、私は離れたくなんて無かったのに……もう、終わりなの?
彼の婚約者になって十数年、あっという間だった。
もう二度と彼とは踊れないかもしれない。そう思うと、これまで婚約破棄という言葉から目を背け続けていたが、途端耐えきれなくなった。
――私、認めたくなかっただけなんだわ……離れることを。どんな立場になっても支えるって決めたのに……でもそれは、
婚約破棄のショックを受け入れられていないだけなのだ。身を引くべきであることはわかっているが、彼と積み重ねてきた年月が簡単には諦めさせてくれない。
――手放せるわけない。だって、ずっとあの人といたんだもの。今更、あの人無しで、どう生きたらいいの。
愛しているのだ、心から。
抱きしめてくれるハロルドの上着に、顔を擦り付けた。温かな彼の体温が、広間でのマルクトとのダンスを思い起こさせる。もう二度とない、彼とのダンスを。
遠くの広間から聞こえる優雅な音楽は、今のライオラにとって少しばかり耳障りに感じた。
どれくらい泣いていただろう。目が熱を持ち痛みを訴える。ハロルドは化粧がつくことも厭わずに、胸を貸し続けてくれていた。
ひとしきり涙を流し顔を上げてみれば、ハロルドは前を向いている。だが彼はすぐにライオラの視線に気付くと、そっと離れ上着を脱ぎライオラの頭に優しく被せた。まるで彼女の泣き顔を隠すように。
カサリと、草の踏まれる音が聞こえた気がした。布の中で、ライオラはハロルドを見上げる。
「……今、どなたかいた?」
「…………いいえ、お嬢様。薔薇が風に揺れたのでしょう」
そう言いながらも、ハロルドの視線は少し遠くを見ていたような気がした。




