十九話 ラストダンス
「……国王陛下がいらっしゃるという話は聞いているかしら」
「いいえ。おそらく、学園の様子を見に来られたか招かれたかのどちらかでしょう。学園は騎士の養成学校でもあります故」
ライオラの視界の先で、マルクトが肩を落とし、首を振ったのが見えた。
「あいつ、困ってますね」
「ハロルド、何をにやけているの。駄目よ、こんな場所で。見られたらどうするの?」
「にやけてなどおりませんよ、私は」
「本当かしら……?」
「ええ、本当ですとも」
そうは言うが、ハロルドの声音は軽い気がする。
程なくしてマルクトの側をウィンストン卿が離れた。
ゆったりと耳心地の良い音楽が切り替わる。
優雅ながらも軽快なステップを踏みたくなるような明るい曲調。広間の中央に、多くの男女が集まり始める。
「あら、この曲……」
「お嬢様、踊られますか?」
「いいえ、相手がいないもの。私は見ているだけでいいわ」
「そうですか。では、そろそろ移動いたしますか? あちらに」
そう言ったハロルドの視線が向いているのは、マルクトがいる方。
まだ心には不安な思いが燻っているが、もう行かなくてはならないらしい。
「……そうですわね、そろそろ。間も無く正式な開催時間になるものね」
あと数十分もすれば学園の鐘が鳴る。そうすればパーティーは本格的に始まり、ライオラはマルクトと踊らなければならない。その前に来賓の挨拶があるだろうが。
しばらく、生徒たちのダンスを鑑賞する。
ライオラは意を決すると、ハロルドに目配せした。
――行きましょう。
踏み出す足は重い。ヒールのせいではない。何年も履き、歩きなれているのだから。
コルセットによって伸ばされた背筋を更に伸ばし、マルクトの元へと歩み始めた。
退屈にも思える校長と来賓の挨拶がやっと終わる。マルクトの隣席で、ライオラはドレスの布地を掴みたくなるような思いを抑えながら、時間が過ぎるのをひたすら待った。
ついにパーティーはメインイベント、王国の第一王子が踊る時間がやってくる。
ちらりと隣の彼の顔を見た。
――殿下は……変わらないわね。
マルクトの表情は相変わらず気難しいままだった。しかめ面をしているのも、ウィンストン卿との会話のことを考えているのだろうか。
司会の穏やかな声が広間に響く。
――ダンスの時間だわ、立たないと。
聞き取りやすい発音の声が、踊らされる生徒の名前を読み上げている。学園には国際交流も兼ね、隣国の皇太子も在学していた。ライオラも交流がある面々だ。数組の名前が呼ばれ、最後にマルクトとライオラが呼ばれた。
「……ライオラ、行くぞ」
マルクトが立ち上がり、白い手袋をはめた彼の手が眼前に伸びる。何度も見た動き。あと何度この手を取れるだろうか。今日が彼と踊る最後のダンスかもしれない。
――最後……本当に?
彼の手を見て固まる。
ライオラは思ってしまった。これからは自分ではない違う誰かが、彼の手を取るのかと。
一瞬だけ唇をかみしめた後、口角を上げてマルクトの瞳を見つめる。笑顔はぎこちない。
「はい……、参りましょう」
彼の手にそっと触れる。力強く引かれ立ち上がると、彼にリードされ広間の中央へ向かった。
周囲の目が、集まっているのがわかる。体中に穴が開きそうだった。
「なぜ、ライオラ嬢は青を……」
「いつもは赤いドレスではなかったかしら……?」
聞こえてくる声は、きっと幻聴ではない。側に待機する他のダンス者たちも、ライオラに気遣わし気な視線を送っているのがわかる。
マルクトの手を離し、定位置につき彼と向かい合う。
――大丈夫よ、ライオラ。私はやれるわ。
視線を気にしてはいけない。今はまだ婚約者。彼を立てなければ。今夜で最後、彼を彩る花になるのだ。
マルクトの顔だけを見つめた。もう二度とない光景だろう。今のうちに目に焼き付けておかなければ。
「ライオラ」
彼が小声で言うのが聞こえた。その声に応えるように、まっすぐに瞳を見つめ続ける。
――ラストダンス、お相手願うわ。
彼の顔を見れば見る程、心は奥深く沈んでいった。ライオラはようやくこの思いを心の中で言葉にする。認めれば辛いを思いをするだけだと、心の奥底に無理やり沈めて来た言葉を。
――……ああ私、まだ殿下のことが好きなのね。
別れの言葉を受け入れたくなかった、自信のわがままな心を自覚する。
だがいつまでも思い出に縋ってはいられない。婚約破棄の発表はすぐのはず。耐えろ、耐えるのだ。胸の中の言葉がこんなに痛かったことがあっただろうか。
音楽が始まる。緩やかなビオラの音が会場を包み込む。
コツリと靴音が鳴り、マルクトが動く。彼は腰を折り、下げた頭に合わせはらりと黒髪が流れ落ちた。ライオラもマルクトの動きと同時に膝を折る。
音楽が進み、マルクトの手が差し出されると、その手を取り組み合った。背の高い彼の肩に、細い腕を伸ばす。
近付いた距離。彼の吐息が頭にかかる。髪をくすぐられたような感覚に、ライオラはきゅっと彼の肩を掴んだ。
曲は進む。彼の右足が動き、流れるままマルクトの動きに身を任せた。息の合った動きでステップを刻む。次の動きが何だったかなど、考える必要もない。互いの呼吸が重なる、一体化した足取り。
――あ。
どうしてか、昔のことを思い出した。
彼が、今よりもうんと背が低かった頃のこと。
幼い頃、彼はダンスが苦手だったことを思い出したのだ。最初はライオラが教えていた。何度足を踏まれただろう。いつしかそれは互いに成長していくにつれ、彼に教えられることの方が多くなった。
ツンと鼻を刺してくる感覚。ライオラはハッと目を見開く。
――どうして、今それを思い出して……だめよ、忘れて。今は踊らないと。
喉の奥から込み上げてくる熱い物を必死に飲み込む。
視界は滲みかけ、泣き出してしまいそうだった。
彼のリードは少しばかり強引だ。だが泣きたくなる程優しかった。
慣れたステップ、慣れた息遣い。全てがライオラに合わせられていた。
だがどうしてだろう。いつもなら息は切れないのに、今日は胸が重く苦しい。
「ライオラ……」
「……」
マルクトの声が頭上に落ちる。
「…………それはお前が選んだのか」
「……」
低く探るような声。ライオラは答えられなかった。今声を出したら、きっと震えてしまうから。
どうしてそんなことを尋ねるの、そう思ったライオラは彼を見上げた。彼の赤の瞳とかちあう。
ステップが大きくなり、くるりと向きが変わる。その時、腕を引かれて彼の顔がグッと近づいた。唇が触れそうな距離だが、ライオラは顔を背けなかった。視界いっぱいに映る彼の瞳の赤色に意識が奪われる。
――……赤い、王家の色。
心が焼かれる。綺麗だと言う言葉一つで片付けるには惜しい程、深い赤。
己だけが見つめていることを許された色だったのに……そんな独占欲が去来する。
「……ッ」
「ライオラ……」
甘く、でもどこか冷たい低い声。彼から目を離せない。突き放されたのに、まるでその声にまた手繰り寄せられていくかのようで。
――そんな声で呼ばないで……。
音楽は終局へと向かう。
何度ドレスの裾を翻しただろうか。どれくらいの時間、踊っていたかも覚えていない。やがてステップは緩やかになり、奏でられていた音楽は鳴り止んだ。
観客の拍手を浴びながら、彼と共に貴賓席に戻ろうとする。だがどうしてか足に力が入らない気がし、ライオラは途中で立ち止まった。
「ライオラ?」
「……ッ、私」
彼の声が聞こえると、胸が軋むように痛んだ。目頭は熱くなり、染みるような痛みが鼻腔を突く。
――ウソ、嫌だわ。このまま、ここにいたら私は……!
頭の中が熱に侵されたかのように、どんどん思考が鈍くなっていく。少しでも考え事をすると、すぐにでも涙が溢れ出そうであった。
「殿下! 私、少し席を外しますわね!」
「あ、ライオラ⁉︎」
踵を返し外に向かう。
待てと声をかけられた気がし振り返ったが、初老の男性に話しかけられる彼の姿を認める。
来賓の一人だ。慌てた様子の彼の目がライオラに向けられるが、引き返すことなく外に向かった。




