第28話「ハンナの背中」
その朝、ハンナ婆さんは、いつもの時刻になっても、薬草を干しにこなかった。
胸騒ぎがして、僕は、村の一番奥の、蔦の絡まる石造りの家を訪ねた。婆さんは、寝床で、苦しそうに身を起こそうとしていた。
「ハンナさん!」
「……なんだい、騒々しい。年寄りが、ちょいと寝坊しただけさ」
強がってはいたが、その顔は、いつになく青ざめていた。額に手を当てると、熱がある。長年の無理がたたったのか、背中と腰がひどく痛んで、起き上がれないのだという。村の生き字引も、寄る年波には、勝てなかった。
不思議な気持ちだった。いつも、僕に知恵を授け、導いてくれるハンナ婆さん。その人が今、寝床で、僕を見上げている。教わる側だった僕が、この人を、手当てする。
「今度は、僕が、あなたを治す番です」
僕がそう言うと、婆さんは、ふっと、力なく笑った。
「……生意気を、言うようになったね」
僕は、まず、婆さんの背中と腰を診た。長年、薬研を挽き、薬草を摘み、村を歩き回ってきた身体だ。あちこちの筋が、こわばり、固まっている。これは、温めて、ほぐしてやるのが一番だ。
血のめぐりを助ける山藍と、こわばりを緩める温め根。これを湯せんにかけ、布に染み込ませて、温かい湿布を作る。熱すぎないよう、人肌より少し温かいくらいに。年老いた肌は、熱に弱いからだ。
その温湿布を、婆さんの背中と腰に、そっと当てた。
「……ああ。沁みるねえ。芯から、温まる」
婆さんが、長い息を吐いた。固まっていた身体が、少しずつ、ゆるんでいくのがわかる。僕は、湿布が冷めるたびに、新しいものと取り替えた。かつて、ガレオの足にしたように。あの頃、ハンナ婆さんが教えてくれた手当てを、今、その人自身に、返している。
熱には、解熱の煎じを。けれど、これも、年寄りの身体に障らぬよう、ごく薄く。子供に薬を薄めたのと、同じ加減だ。婆さんに教わった「害さない」という心構えで、婆さんを手当てする。
半日も、つきっきりで看病した。昼を過ぎる頃には、熱が下がり、婆さんの顔に、血の気が戻ってきた。背中の痛みも、温湿布で、ずいぶん和らいだという。
「……たいしたもんだ」
寝床から、婆さんが、ぽつりと言った。
「あたしが教えたことを、ちゃんと、自分のものにしてる。加減も、手当ての順も、文句のつけようがない。あたしは、いい弟子を持ったよ」
弟子、という言葉に、胸の奥が、じんと熱くなった。
「あなたが、教えてくれたからです」
「いいや」
婆さんは、首を横に振った。
「あたしは、きっかけをやっただけさ。あんたが、それを、何倍にも育てた。あたしの知識は、あんたの中で、あたしの代よりも、ずっと豊かになってる。……あたしは、それを見届けられて、幸せ者だよ」
ハンナ婆さんの目が、潤んでいた。宮廷に裏切られ、知識を抱えたまま、辺境で朽ちるはずだった人。その人の知恵が、今、僕を通して、生きている。受け継いだものを、より豊かにして、また次へ。それは、婆さんにとって、何よりの報いだったのだろう。
その日から、僕は、ときどき婆さんの家に通い、背中の湿布を続けた。無理をさせないよう、薬草の世話も、少しずつ、僕が引き受けた。教わるばかりだった関係が、いつのまにか、支え合う関係に変わっていた。
人は、誰かに教わり、また、誰かを支える。知識も、いたわりも、そうやって、人から人へ巡っていく。ハンナ婆さんの、少し曲がった背中をさすりながら、僕は、この巡りの中にいられることを、ありがたく思った。婆さんには、まだまだ、長生きしてもらわなければ。教わりたいことが、山ほどあるのだから。




