第19話「はじめての母」
ニナの幼馴染は、リサという名の若い女だった。
半年ほど前に村の若い農夫と所帯を持ち、今は腹に子を宿しているという。だが、つわりがひどく、ここ数日はほとんど何も食べられずにいる。水を飲んでも戻してしまう。日に日に顔色が悪くなっていくのを見かねて、ニナが僕のところへ駆け込んできたのだった。
「ロイさんなら、何か効く薬を作れるんじゃないかって」
ニナの真っ直ぐな目を見て、僕はすぐには頷けなかった。
身重の女に薬を出すのは、ふつうの病とはわけが違う。母の身体に入ったものは、腹の子にも届く。大人には何でもない薬草が、まだこの世に出てもいない小さな命には毒になることがある。生半可な知識で薬を出せば、助けるどころか、取り返しのつかないことになりかねない。
「ニナ。先にハンナさんのところへ行こう」
僕は自分の判断だけで動くのをやめた。こういうときこそ、宮廷で何人もの出産に立ち会ってきたであろう、あの人の知恵がいる。
ハンナ婆さんは、話を聞くと、しばらく黙って窓辺の薬草を眺めていた。
「で、あんたはどうするつもりだい」
「つわりに効く薬を……と思いましたが、迷っています。腹の子に障るものを、母体に入れたくない」
「ふん」
婆さんは、満足そうに鼻を鳴らした。
「いい迷い方だ。いいかい、ロイ。薬師の一番難しい仕事はね、効く薬を作ることじゃない。薬を出さない見極めをすることだよ」
その言葉は、胸の奥にずしりと落ちた。
「身重の女のつわりは、病じゃない。身体が子を守るために、余計なものを受けつけなくしているだけのことが多い。そこへ強い薬を放り込むのは、母屋を守ろうとしてる番犬を、薬で眠らせるようなものさ」
「では、何もできないのですか」
「何もするなとは言ってないよ。薬で叩くんじゃなく、楽にしてやる。それくらいの匙加減を覚えな」
婆さんが教えてくれたのは、薬と呼ぶのもためらうほど、ささやかなものだった。
生姜に似た温め根を、ほんの一かけ。それを煮出すのではなく、薄く削いで湯に浮かべ、立ちのぼる香りだけを使う。
家に戻り、僕は教わったとおりに支度した。温め根を薄く削ぐと、ぴりりと爽やかな匂いが立つ。鍋で煮ればしっかりした薬になるが、今日はそれをしない。白湯を満たした碗に、削いだ根を二切れだけ落とす。湯気とともに、辛みのある清涼な香りがふわりと広がった。これなら、口に入れるものはほとんど湯だけだ。根の成分が腹の子に届く心配もない。
リサの家を、ニナと訪ねた。
リサは寝床で青い顔をしていたが、碗から立つ匂いを嗅ぐと、強張っていた眉が少しゆるんだ。
「……いい匂い。すっと、する」
「無理に飲まなくていいんです。匂いを嗅ぐだけでも、胸のむかつきが楽になります。飲めそうなら、ひと口だけ」
リサは碗を両手で包み、ゆっくりと湯気を吸い込んだ。何度かそうしてから、ひと口、湯を含んだ。今度は、戻さなかった。
「……飲めた」
それは、ほんの白湯ひと口だった。けれど、ここ数日何も口にできなかった彼女にとっては、大きなひと口だった。リサの目に、安堵の色が浮かんだ。
秋が深まり、木々が葉を落とすころ、リサは無事に女の子を産んだ。
ただ、産後の肥立ちがよくなかった。血を多く失ったせいで、立ち上がるのもやっとだという。今度もまた、僕はハンナ婆さんの知恵を借りた。産んだあとの身体には、滋養がいる。けれど胃は弱っている。
僕は、温め根と、血のめぐりを助ける優しい樹皮を、ごく薄く煎じた。とろりとするまで弱火で時間をかけ、最後に蜜をひと匙。苦みのない、甘く温かい飲みものに近いものにした。胃に負担をかけず、内側からじんわりと身体を温め、失った力をゆっくり戻していく。
その煎じを毎日届けた。十日もすると、リサは寝床に起き上がり、ひと月の頃には、赤子を抱いて戸口まで出てこられるようになった。
「先生のおかげです。この子と、わたしを、二人とも助けてくれた」
腕の中で眠る赤子は、驚くほど小さかった。その小さな手のひらを見ていると、ハンナ婆さんの言葉の重みが、改めて身に染みた。薬を出すことより、出さないことのほうが難しい。守るために、あえて何もしない強さがいる。
女たちのあいだで、その話は静かに広まったらしい。それからというもの、村の女房たちが、子のことや身体のことで、僕を頼ってくれるようになった。男の僕には話しにくいだろうことも、ニナが間に立って、そっと取り次いでくれる。村に、また一つ、細い信頼の糸が結ばれていった。
季節は、めぐっていた。
薬草園の葉が色づき、朝晩の風が冷たくなってきた。今年もよく採れた。乾かした薬草が、棚にずらりと並んでいる。だが、それを眺めているうちに、僕はあることに気づいて、眉をひそめた。
夏に乾かした薬草の、いくつかの効きが、落ちている気がする。
採るだけでは足りない。この豊かな実りを、効きを保ったまま、冬のあいだじゅう、どう蓄えておくか。次に向き合うべきは、それだった。




