第17話「夜通しの熱」
戸を叩く音で目が覚めた。
夜中だった。窓の外はまだ濃い藍色で、鳥も鳴いていない。寝間着のまま土間に下りると、叩く音はいっそう激しくなった。拳ではなく、手のひら全体で打ちつけるような音だ。誰かが必死になっている。
「先生っ、ロイ先生っ」
戸を開けると、トムの母親が立っていた。胸に小さな子を抱えている。トムの妹のメルだ。まだ三つになったばかりの女の子で、いつもは母親の後ろに隠れて、ちらちらとこちらを覗いてくる。その子が、ぐったりと母親の肩に頭を預けていた。
「熱が、夜になってから急に。さっきから息が荒くて、声をかけても目を開けないんです」
僕はメルの額に手を当てた。燃えるように熱い。頬は赤く、唇は乾いている。呼吸は浅く、速い。
「中へ。火を熾します」
二人を招き入れ、竈に火を入れた。湯を沸かしながら、棚の薬草を順に思い浮かべる。熱を下げる薬草はいくつもある。だが、大人に使うものをそのまま幼い子に飲ませてはいけない。それは魔導薬草学の、いちばん最初に教わる戒めだった。
薬の強さは、飲む者の身体の大きさで決まる。
大人の半分の背丈もない子に大人の量を与えれば、熱は下がっても身体がもたない。効かせることより、害さないこと。ハンナ婆さんの言葉が耳の奥でよみがえった。
「メルは、ふだんよく食べる子ですか」
「ええ、よく。でも今日はお昼から何も」
僕は熱冷ましの根を選んだ。苦みが強く、熱を内側から散らす根だ。乳鉢に少しだけ取り、いつもの半分、いや、三分の一に減らす。煎じる湯の量はそのままにした。同じ湯で薄く煮出せば、効きは穏やかになり、子の身体に負担が少ない。
「強い薬がいい薬とは限らないんです」
手を動かしながら、母親に話しかけた。彼女は膝の上で両手を固く握りしめている。その指を、少しでもほどいてやりたかった。
「薪を勢いよくくべれば、鍋はすぐ煮立つ。でも吹きこぼれて、半分は無駄になる。弱い火でゆっくり煮たほうが、芯まで火が通ることもある。薬も同じです」
根を薄く煮出すあいだ、月見草の葉を取り出した。油を含んだ葉で、肌に当てると熱を吸って冷やしてくれる。これを清潔な布に包み、井戸の水でよく冷やした。
「これを、脇の下と、首の付け根に」
人の身体は、皮膚のすぐ下を太い血の道が通る場所がある。脇の下、首筋、足の付け根。そこを冷やせば、巡る血そのものが冷えて、熱が全身から引いていく。やみくもに額だけ冷やすより、ずっと早い。
母親は僕の言うとおり、布をメルの脇に差し入れた。冷たさに、メルの眉がわずかに動いた。
煎じが、淡い琥珀色に染まった。匂いを嗅ぐ。苦みの角が取れて、ほんのりと甘い土の香りがする。これくらいなら、幼い子でも飲める。湯気が落ち着くのを待ち、人肌まで冷ました。熱い薬は、それだけで弱った身体に障る。
「メル。お薬だよ。少しだけ、苦いけどね」
匙でひとさじ、メルの唇に運んだ。眠ったまま、子は反射のように喉を鳴らして飲んだ。ふたさじ、みさじ。むせないよう、間を置いてゆっくりと。蜜をほんの少し溶いてあるから、苦みに顔をしかめながらも、子は最後まで飲みきった。
あとは、待つしかなかった。
僕と母親は、メルを挟んで火のそばに座った。冷やした布は、温まるたびに井戸の水で取り替える。煎じは、ひと晩のあいだに二度に分けて飲ませる。一度に効かせようとしないことだ。
窓の藍色が、少しずつ薄まっていった。
どれくらい経っただろう。鶏が鳴いた。最初の光が戸の隙間から細く差し込んだそのとき、メルの呼吸が変わった。浅く速かった息が、深く、ゆっくりになっている。額に手を当てた。熱が引いている。燃えるようだった肌が、ただ温かいだけの、子供の肌に戻っていた。
「メル……?」
母親の呼びかけに、メルが目を開けた。熱のなごりでとろんとした目で母親を見上げ、それから僕を見て、また母親の胸に顔をうずめた。いつものはにかみだった。
母親が、片手で口を覆った。その肩が小さく震えていた。
「ありがとう、ございます。先生がいなかったら、わたし」
「無事でよかった。今日いちにちは、おかゆと、白湯をたくさん。薬はもう要りません。あとは、この子の身体が自分で治します」
僕はそう言って、残りの煎じを小さな壺に移し、母親に持たせた。万一また熱が出たときの、用心のためだ。
二人を送り出すと、外はすっかり朝になっていた。畑の月見草が、夜のあいだに咲かせた花を、ゆっくりと閉じていくところだった。大きく息を吸う。土の匂いがした。眠気よりも、静かな満ち足りた気持ちのほうが勝っていた。
誰かの熱が引く。ただそれだけのことが、こんなにも嬉しい。
乳鉢を洗い、棚を片付けていると、また戸を叩く音がした。今度は穏やかな、遠慮がちな音だ。
戸を開けると、見慣れない男が立っていた。日に焼けた、がっしりとした身体つき。上着のあちこちに、白い羊の毛がついている。村外れで羊を飼っている男だ。羊飼いのザックだった。彼は帽子を脱ぎ、困り果てた顔で言った。
「先生。人の薬を、獣に使うってのは……できるもんかね」




