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亡蜀記  作者: コルシカ
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亡国


         四十一

 

 鄧艾は陰平に至ると、配下をつかって道を調べはじめた。

 若年のころより、地図や地理から戦略や戦術をあみだす才能があった鄧艾である。

 「道があるにはありましたが……」

 「ほ、ほう。そ、それはまことか」

 偵探が得た情報によれば、陰平郡の郡府がある陰平から東にむかって梓潼郡にむかえば、剣閣を攻めている鐘会軍と合流することになるが、陰平から東南にすすんで梓潼郡の徳陽亭を通り、さらに南下すれば左儋道という道にはいることができるらしい。

 「と、いうことは……そ、その左儋道という道をすすめば、ふ、涪県に出ることができるのか」

 鄧艾にも、昂奮の色はかくせない。ふだんの吃音が、さらにはげしくなった。

 「はい。涪県は、広漢郡の緜竹からとおくありません。ですが……かなり険しい道ですので、軍をぶじとおすことができるかどうか」

 偵探の返答は、歯切れがわるい。

 緜竹は、劉璋の父である劉焉が益州を治めていたころの首都である。

 しかし鄧艾は、笑っていった。

 「き、危険をおかさず敵に勝つことが、で、できようか。

 ま、まずは晋公(司馬昭)に、じ、上表してみるぞ」

 この蜀征伐の元帥は、鐘会ではなく司馬昭である。なぜ鐘会を通さずに司馬昭に策戦を直訴したかというと、

 (し、鐘会は、わ、われに功をうばわれると思い、こ、この策をにぎりつぶすであろう)

 と鄧艾が考えたからである。

 上表文は、以下のとおりである。

 「いま、わが軍は敵をうちのめしつつあります。この勢いに乗じて、成都までつきすすむべきです。

 陰平から横道にはいって、徳陽亭を経て、涪にむかうと、剣閣から西に百里、成都から三百里の道に出ることができます。

 そうなるとわが軍は奇兵となって、敵の心臓を突くことができ、剣閣を守備している姜維らは、涪を救援するためかならずひきかえしてきます。

 すると鎮西将軍(鐘会)は、兵車をならべて進撃することができましょう。

 仮に剣閣の兵がひきかえさなければ、涪の危急に応ずる兵は少ないはずです。

 孫氏の兵法にありますように、其の無備を攻め、其の不意に出ず、というものです。

 敵の空虚を攻めるわけですから、わが軍はかならず敵を破ることができます」

 司馬昭は鄧艾からの上表を読んで、

 「鐘会が難渋しているのではな……鄧艾の策をゆるしてみよう」

 と策の実行をゆるした。のちに鄧艾は主将である鐘会にこの策を通知した。

 「鄧艾め……」

 鐘会は、不快をかくさなかった。

 鄧艾は主将である鐘会をさしおいて、成都を陥落させる欲望をむきだしにしたと思った。

 「剣閣を通らずして、成都にたどりつけることができるものか。きやつは険しい谷底に滑落するのがおちよ」

 鐘会は、遠く離れた鄧艾をののしるしかなかった。

 「よ、よし。し、鐘会の了解も、と、とりつけたぞ。あ、あとは道なき道をすすむのみだ」

 六十七歳の鄧艾は、老体に闘志をみなぎらせた。

 しかし南へ南へ進軍したにもかかわらず、無人の地である。それがなんと七百里以上もつづいた。

 むろん、平坦な道などはない。

 峻路ばかりであり、道のない山には穴を掘り、谷には橋をかけた。

 「これは、本当に正しい益州の地図なのか」

 「道などは、どこにもないではないか」

 兵たちは怨嗟の声をあげた。

 兵糧を運ぶにも、多大な苦労がともなった。

 兵と馬が通った道をつかって、兵糧を運搬しなければならない。

 「こ、この谷を下らねばならぬのか……」

 「いかがいたしましょう」

 「……わ、われを毛氈でくるめ。そ、そうしたら谷底にむけて、こ、ころがしてくれ」

 「鄧将軍に、そのようなことは……」

 「よ、よい。どのようにしても、せ、成都にたどりつくぞ」

 鄧艾の執念は、まるで青く燃える焔である。

 毛氈にくるまれた鄧艾は、みずからころがって谷をおりた。

 「われらも、将軍につづけ」

 将兵たちは、みな木につかまり、谷を降り、崖をよじのぼった。

 地獄のような進軍の末、ついに鄧艾軍の先頭が、涪水のほとりである江油に至った。

 「や、やったぞ……」

 鄧艾は、はつらつとしたよろこびの声をあげた。

 とはいえ、江油は無人ではなかった。

 蜀は馬邈に万一のときに備えて、隊を率いて駐屯させていたのである。

 「まさか、このような僻地に魏軍があらわれるわけがあるまい」

 馬邈とその配下は、完全に油断しきっていた。兵も二千しかいない。

 だが、けものもとおらないといわれる山岳地帯から魏の大軍が突如出現したのである。

 「そ、それは、まことか……」

 馬邈は仰天した。とても二千の兵でたちうちできる敵の数ではない。

 「……降伏する」

 「……」

 馬邈の隊は、鄧艾と一戦もせず、投降した。

 「よ、よき決断である」

 鄧艾は、馬邈の降伏をよろこんだ。なぜなら降将を得ると、敵の実情があきらかになるからである。

 「ふ、涪城をまもっている将は、だれかね」

 鄧艾は、馬邈に訊いた。

 「諸葛瞻です」

 「し、諸葛瞻……つ、つまり諸葛亮の子か」

 諸葛瞻は、諸葛亮の子であるというだけで、蜀では絶大な声望がある。

 朝廷でわずかでもよいことや、善政があると、人民はそれをたたえあって、

 「さすがは、葛公のなさったことだ」

 とよろこんだ。

 諸葛亮無謬説は、このころ伝説的に蜀の国民にひろがっていて、親から諸葛亮の治世のすばらしさを語り継がれていた子は、善政をおこなうのは、かならず諸葛瞻であると信じた。

 国民の支持もあり、諸葛瞻は平尚書事となり、董厥とともに国政の中枢にあり、劉禅と黄皓の政治に協力した。

 鄧艾が江油にあらわれたとき劉禅は、

 「鄧艾に降って、成都までの道案内をするように」

 と諸葛瞻の肩に手をおいていった。

 たちまち諸葛瞻は、目に涙をためた。

 「私は、諸葛亮の子です。国家に殉ずるさだめをもって生まれた者です。

 私は魂魄となって、益州と陛下の安寧をまもるつもりです」

 劉禅も、涙をながした。

 「なんじは、そういうと思っていた。それをとめることができぬ朕をゆるせよ……」

 諸葛瞻はなんどもうなずいて、

 「奉車都尉(黄皓)、益州と陛下のことはたのんだ」

 と黄皓の手をにぎった。

 「大将軍(姜維)の暴走を止められなかったのは、いまをもって無念です……たかが宦官の身でしかなかったわが身を呪います」

 黄皓も、目に涙をためている。

 姜維のたびかさなる出師を、諸葛瞻とともに反対していれば、という後悔がある。

 (しかし姜維の北伐をとめていれば、諸葛瞻の身にわざわいがふりかかったであろう)

 諸葛瞻の父である諸葛亮の悲願が、魏を討ち滅ぼすことであった。

 それを官民に絶大な声望をもつ諸葛瞻がさまたげたとしたら、国民はそれを許したかどうか。

 諸葛瞻は、いずれにせよ魏と戦って死ぬ運命にあったのである。

 かれは諸軍を率いて成都を出ると、涪城に至り、そこで駐屯した。

 「しかし左儋道を敵が進んできたとはな……」

 鄧艾があの険峻の道なき道を進軍できたのは、天が蜀を滅ぼそうとしていると悟った。

 すべてが予想外であるが、姜維の後援をえることができないならば、緜竹の方が戦いやすいと考えた諸葛瞻は、

 「緜竹まで退いて、軍を再編成する」

 と諸将につげた。

 諸葛瞻の軍は、緜竹まで退いて迎撃の陣を布いた。

 涪県にやすやすとはいることができた鄧艾は首をかしげて、

 「ど、どこにも諸葛瞻は、い、いないではないか」

 と偵探に訊いた。

 「はい……駐屯していた諸葛瞻の兵は、緜竹の方面にむけて撤退したようです」

 ふふ、と思わず笑いがもれた鄧艾は、

 「ふ、涪は、交通の要地であるのに、そ、それを放棄するとは。し、諸葛亮の子に似合わず兵法を知らぬ」

 と断言し、休みなく軍を緜竹にむけて進軍させた。

 鄧艾は鐘会とちがって、寒村のまずしい出身である。昇進するにあたっても、名門の鐘会とはちがい、きびしい目で諸事をこなしてきた。

 諸葛亮に対する敬意もさほどなく、諸葛瞻はしょせん敵将のひとりにすぎない。

 緜竹に到着した鄧艾は、

 「し、諸葛亮の子であれば、い、生かしておくと、占領政策がなにかとうまくいくか……」

 とつぶやき、使者を諸葛瞻に派遣した。

 「もしも、降伏すれば、琅邪王になれるように上表しよう」

 琅邪は諸葛氏の本拠地であるので、その地の王として遇するというのである。

 「われは諸葛亮の子ぞ。みくびるのではない」

 めったに感情をあらわにしない諸葛瞻は、激怒して鄧艾からの使者を斬った。使者を斬るのは最大の戦争犯罪である。

 「先帝(劉備)が益州に入り、劉璋から州をゆずられてから五十年……その歳月のなかで最初の二十年を支えたのが父だ。

 全身全霊で国家の柱として尽くした父の子が、敵将の甘言にのってたまるか」

 諸葛瞻の不退転の決意である。緜竹を死に場所にさだめた、といっていいであろう。

 その覚悟はたちまちにして軍全体につたわり、諸葛瞻の軍は堅固な布陣となった。

 「し、使者を斬るとは、ぶ、無礼な。し、諸葛瞻は父に似ぬ愚か者よ」

 魏軍が益州に侵入して、平地におおきく展開して蜀軍と戦うのは、はじめてである。

 鄧艾は子の鄧忠に敵の右翼を討たせ、司馬の師簒に左翼を攻撃させた。

 激戦である。

 兵力は、むろん魏軍がまさっているのだが、諸葛瞻の軍は鬼のように気魄をみなぎらせて矛をつきだしてくる。

 それと同時に、魏軍は峻険な山中を踏破してきた疲労がある。諸葛瞻の軍に押し返された鄧忠と師簒は、なすすべなく軍を返した。

 「蜀軍はこのように強かったか……」

 「いまは、敵の隙をみつけるまで待ったほうがよいのでは」

 鄧忠と師簒は舌を巻いて、鄧艾に復命した。

 「諸葛瞻の戦意は、尋常のものではありません。いまは敵を討つことがむずかしいかと……」

 鄧艾はふたりの復命を最後まで聞くことなく、激怒した。

 「そ、存亡のわかれめは、こ、この一戦にあるのだぞ。で、できぬ、といういいわけは聞かぬ」

 軍吏を呼んだ鄧艾は、

 「こ、このふたりを斬れ」

 と命じた。仰天したふたりは、

 「どうか、もう一度諸葛瞻と戦わせてください」

 とひたいを地にこすりつけて懇願した。

 「で、では、最後の機会をあたえる。ま、万が一にも負けて還ってくると、し、処刑は免れると思うなよ」

 鄧艾は憤然として、いいはなった。

 (し、諸葛瞻も死にものぐるいで戦っているのだ。わ、われらも負けてはおられぬ)

 鄧艾のきびしい命令とは、これであった。

 「もう、後はない。こころして諸葛瞻に勝つぞ」

 鄧忠と師簒は、目をすえて緜竹にむけて出陣した。

 蜀軍を撃破しないかぎり、ふたりは斬られる。ようやく魏軍にも執念の焔がともった。

 「すすめ、すすめ、退く者は斬るぞ」

 鄧忠と師簒の決死の意志は、魏軍に伝播してなんども雄叫びをあげ、前進した。

 緜竹にいた諸葛瞻は、

 「今日はもう戦はないだろう……」

 と身体をやすめていたときに、鄧忠と師簒の兵がもどってきたと報告をうけた。

 「そうか」

 諸葛瞻は、鎧をつけながら清澄な表情となって、

 「死んで、父のもとにゆくときがきた」

 とつぶやいた。

 少数で、疲弊しきっている蜀兵にすでに余力はない。鄧艾の策は、みごとであったというべきであろう。

 矢が雨のように降り、両軍は再度激突した。

 はじめから魏軍優位で、戦場は推移した。

 じょじょに蜀軍の陣はくずれ、諸葛瞻じしんも矢傷を負った。

 (父上……)

 諸葛瞻は、ちからつきてその場にたおれこんだ。首に剣をあてて、それで頸動脈を切断した。

 (父上、あなたはこの日を知っていて、わたしを世に生み出したのですね。

 うらみはいたしません。黄皓、陛下のお命をかならずまもりぬいてくれよ……)

 諸葛瞻の自死をもって、蜀軍は破綻した。

 諸葛瞻は、三十七歳であった。

 かれの死によって、諸葛亮の家系は断絶した。尚書の張遵も戦死し、成都を防衛する陣は崩壊した。

 「よ、よくやった……とはいえ」

 帰陣した鄧忠と師簒を褒めた鄧艾であったが、蜀の首都である成都には、数万の兵が常駐していることが報告されている。

 「やはり、籠城戦になるのでは」

 「姜維の軍は鎮西将軍(鐘会)がひきつけているので、はやく決着はつけたいものですな……」

 鄧忠と師簒も、楽観はすてている。

 「と、ともあれすすむのみよ。い、いきおいはわれらにある」

 鄧艾は、顔をあげた。

 一方の成都では、官民あげて騒然としはじめた。

 「緜竹で葛公(諸葛瞻)が討死なされたとか……」

 「なに、城内にも兵はおおいと聞くぞ。大将軍(姜維)と挟み撃ちすれば、鄧艾とて」

 とはいえ、鄧艾の軍がもつ勢いは、あたるべからざるものがある。

 民が山野に逃げはじめ、鄧艾にまさる将は成都城内にはいない。

 劉禅は、群臣をあつめて最善の策を議論させた。

 「成都を戦場にはしたくない。それをふまえてどうすればよいか」

 群臣も、浮き足立っている。

 「やはり、呉に亡命されるほうがよいのでは……」

 蜀と同盟している国は、呉しか存在しない。

 劉禅と臣下が呉に亡命すれば、呉の皇帝である孫休も歓迎してくれるであろう。

 しかし、それでは蜀の皇帝としての尊厳が保てない。劉禅は孫休の客ということになり、生きているあいだは頭が上がらないであろう。

 「南中に避難する、というのはいかがでしょうか」

 南中には七郡あり、険阻な地形であるので臨時政府としては守備しやすい。

 また諸葛亮が心服させた孟獲の子が健在であり、屈強な兵たちもおおい。

 亡命論が主流を占めるなか、ひとり腰をすえた発言をした臣がいる。

 名は、譙周という。

 かれは巴西郡西充国の出身で、あざなを允南という。幼少のころ父を亡くし、貧困の中で学問を独学した。六経を研究し、その研究でも知られている。

 諸葛亮が丞相のとき、無名の譙周を招いて勧学従事に任命した。

 譙周は素朴な人柄であるが、見識は卓越しており、鋭敏な頭脳をもっていたことを見抜いてくれたのは諸葛亮であった。

 その恩人である諸葛亮が五丈原で病死したと知った譙周は、それを聞くなり矢のような速さで朝廷にかけつけたという。

 劉禅は淫蕩な皇帝ではないが、在位が長いとゆるみが生じ、しばしば遊覧に出かけたり、宮中の歌手や楽団員を増やしたのを諫めたのも譙周であった。

 いまは六十三歳で、光祿大夫である。

 かれの意見には重みと威厳があり、群臣たちはすぐに議論をやめた。

 「古より他国に身を寄せて、天子たりえた者はひとりもおりません。

 いまから益州をでて呉に身をよせたとしましょう。すると陛下は呉の天子に臣従しなければなりません。

 また、魏は呉を併呑することができますが、呉は魏を併呑することはできません。

 おなじように臣下になるのであれば、小国の呉よりも大国の魏に対してしたほうがよいでしょう。

 呉へ移れば、陛下はまず呉で恥辱を受け、呉が滅べばふたたび恥辱を受けることになります。

 恥辱は、一度でよいではありませんか。

 南中に逃亡すればよいという者もおりますが、無計画に南に奔ることができましょうか。

 いまや大敵が目前です。災難が目前であるのに、無難に南中に逃げ込むことなどできましょうか」

 譙周の論理と国を思う情熱に、劉禅は顔をあげた。

 (ようやく、正論を口に出す者があらわれた……それが譙周だとは)

 じぶんが譙周を正しく識るには、おそすぎたとも感じた。

 しかし、他の臣は魏に対してぬぐいがたい嫌悪感がある。

 「鄧艾は、もうちかくまで迫っているではないか。おそらく陛下の降伏は受け入れまいぞ。

 そうすれば、いかがするつもりか」

 譙周は、声をはげまして答えた。

 「まだ呉が魏に屈していないいま、魏はわが国の降伏を受け入れざるをえません。

 受け入れたからには、それを厚遇せざるをえません。

 もし陛下が降られたのち、魏が陛下に土地を割いて封ずることをしなければ、わたしは洛陽にむかい、古義をもって抗議します」

 古義とは、むかしからある正しい道義のことをいう。

 「たしかに司馬昭は、先年皇帝を弑逆したという負い目があるな……」

 「これ以上無抵抗の陛下を虐待すれば、世間の評判は悪くなる」

 「陛下にもしものことがあれば、益州各地で暴動がおこり、大将軍(姜維)もだまってはいまい」

 「鄧艾は司馬昭の配下なので、陛下の降伏をこばむことはできまいな……」

 群臣は議論をつづけた結果、譙周の論に従うことに決した。

 つまり、劉禅が魏に降伏するということである。

 夜になった。

 劉禅は、ひとり蝋燭をともして沈思している。

 (呉などへは、ゆくつもりはなかった)

 父の劉備は魏と戦いつづけたが、最後に戦った相手は呉である。

 呉は劉備を倒し、関羽をだましうちにして殺した。とても信頼できる国ではない。

 (南方は、不服従の蛮族もおおい)

 南中にうつる途中で魏に追撃され、南の反蜀蛮族に挟み撃ちされるほどみじめなものはない。

 (窮して屈服すると……か)

 譙周は、

 「もし陛下が南方に行かれ、窮して屈服すれば、その禍は甚大なものになります」

 といって鄧艾への降伏をすすめた。

 (じたばたしても、しかたない)

 劉禅は、この土壇場になってあわてることの愚を認識した。

 後世、劉禅の降伏はおおくの批難を浴びた。

 「天子でありながら、敵将に降伏して命乞いをするとは、これほどの恥辱があろうか。

 君主が社稷のために死ぬのであれば、臣下も殉死すべきなのである。

 先帝(劉備)は魏の簒奪を匡し、ともに天をいただかなかった。

 劉禅が首を垂れて仇敵に仕えようとしたのは、死にたくない一心であり、そのありようは正道とはとてもいえない」

 酷評である。

 後世の批判者は、劉禅が一戦もせずに降伏したことに激怒しているのであろう。

 城中での議論をまとめてみても、劉禅が、

 「成都の民を戦にまきこみたくない」

 という意志が最優先されたので、籠城という意見は最初から排除されていた。

 劉禅に降伏をすすめた譙周に対しても、

 「暗愚な君主に、誤った判断をさせるとは、ゆるしがたい臣下である」

 との罵倒もつきまとう。しかし、譙周の献言は劉禅を救い、蜀の国民を大混乱にまきこむことをまぬかれさせたのである。

 いずれにせよ、後世の人間は歴史に直面していないので、無責任なものである。

 劉禅は、さいごに廟前にぬかずいた。

 「私が、これにて漢(蜀)をたたみます」

 目からは、知らず涙があふれていた。

 劉禅が胸中で声を聞いたのは、父の劉備でもなく、父と慕えと諭された諸葛亮の声でもなかった。

 あの温厚でひくい、つつみこむような声は趙雲の声であった。

 「陛下、私がなんども陛下のお命をお救いしたかいがありました。

 陛下は、成都と漢の数十万の命をお救いになられたのです……」

 劉禅は、廟前でつっぷして号泣した。

 翌朝、劉禅は侍中の張紹(張飛の子)、光祿大夫の譙周、駙馬都尉の鄧良(鄧芝の子)を呼んだ。

 「これらを、鄧艾にわたすように」

 と皇帝の印綬と書簡をわたした。

 鄧艾軍の先鋒は新都まで進出しているが、鄧艾は雒県に至ろうとしていた。

 使者の三人は魏軍を見ると、

 「蜀の天子からの使者である。征西将軍(鄧艾)にお目にかかるためにまいった」

 と告げた。先鋒の鄧忠と師簒は、

 「なにごとであろう……」

 と三人を迎えて、事情を聞いた。

 「降伏のご使者であられましたか」

 驚愕したふたりは三人を丁重に護衛し、鄧艾のいる本営につれていった。

 鄧艾は、まだ憂鬱のなかにいた。

 「せ、成都は巨大な城である。ど、どのように攻めたらよいか」

 と近臣と議論していた。

 そこに鄧忠と師簒がかけこんできたので、

 「な、なにごとだ」

 と鄧艾は、思わず声をあらげた。

 「降伏です。蜀主は、降伏の使者を遣わせてきました」

 鄧艾は、飛び上がらんばかりによろこんだ。

 しかし、疑念はのこる。

 劉禅は、ほんとうにあの巨大な成都城を活用せず、戦わずして降るのか。

 それも鄧忠と師簒からさしだされた皇帝の印綬と書簡を見ると、氷解した。

 「り、劉禅は本気だ」

 まもなく、苦難に満ちた遠征が終わるという安心もあった。

 鄧艾は、さっそく劉禅からの書簡を読んでみた。

 「黄初年間、文皇帝(曹丕)は虎牙将軍の鮮于輔にお命じになり、隠密の詔を宣示なさり、門戸を開示されたことがありました。

 大義が燦然としていたにもかかわらず、不徳で暗愚な私は、前人の遺業を盗み、むさぼり、年をかさねて大義に従いませんでした。

 天威はすでに震い、人も鬼神も有徳の人に帰順するのがすじみちです。

 ゆえに皇軍に恐懼し、帰順し、命令に従います。

 すでに諸将には戈を投げ棄て鎧を脱ぐように命じました。官府にしまわれているものに封をし、ひとつも損壊しないようにいいつけました。

 人民は野に散らばって、あまった食糧は畝に置かれたままですが、あとでほどこされる恩恵を待ち、人民の命がまっとうされることを信じています。

 わが身の裁きは、征西将軍(鄧艾)にお任せいたします。柩を背負って、おそばにまいりますので、これ以上こまごまとは申しません」

 譙周が書いた文章だけに、率直で好感のもてる書簡である。

 鄧艾は、目をあげて三人の使者を見た。

 「し、蜀主は、微子になられるおつもりですね」

 と感慨を込めていった。

 微子とは殷の紂王の庶兄であったが、殷が周の武王に倒されたあと、周の軍門に降り、肌ぬぎになって両手をうしろ手に縛って、武王に降伏を告げた。

 微子のおこないに感動した武王は、微子をゆるし、封地をさずけたので、殷の民を保有することができ、宋という国を建てることができた。

 鄧艾は、それに似た賢さを劉禅に感じた。

 きっとこの三人のなかで劉禅を善導した臣がいると思った鄧艾は、すぐに譙周に目をとめた。

 (け、賢臣よな……)

 鄧艾を観察していた譙周も、鄧艾の賢明さを察知しており、微子のことばがでたときには、

 (陛下は命を助けられ、封地をさずけられる)

 と確信もした。微笑した鄧艾は、

 「う、疑うべきことは、な、なにもありません。へ、返書をしたためますので、し、譙周どのを残して、おふたりは成都にもどっていただいて結構です」

 といった。三人は、胸をなでおろした。

 ところで譙周と張紹、鄧良が皇帝の印綬をさずけられた朝、劉禅の五男である北地王の劉諶が自殺した。

 劉諶は一戦もせず、魏に降る父に激怒していたのである。

 「もしも道がきわまり、力尽きて敗戦が必至となったときには、父子ともに城を枕に討死すべきです。

 ともに社稷のために死のうではありませんか。そうしなければ、泉下の先帝にお目にかかることはできません」

 と劉禅に詰め寄った。

 いまさらの暴論である。

 劉禅は劉諶を目で制して、

 「もうよい。さがれ」

 といった。官民は死滅するだけの戦を望んでいないことは明らかである。

 恥をかくのはじぶんひとりでよい、と覚悟を決めた劉禅にとって、蛮勇をひけらかす劉諶のことばは、あまりに幼稚であった。

 顔面蒼白になった劉諶は宮廷を退室するや、劉備の廟に行ってぬかずき、慟哭した。

 「先帝の偉業を穢すわが父にかわって、泉下でおわびいたします……」

 帰宅した劉諶は、妻子を殺害してのち自殺した。

 劉諶の自死は、一戦もせず降伏することに対する不満をもつ官民への弁明となったかどうか。

 張紹と鄧良が、もどってきた。譙周は降伏の算段をくわしく鄧艾と話しあっているという。

 「降伏が容れられるのか……成都と益州を戦火にまきこまずよかった」

 劉禅は、わずかに安堵した。

 「よくやってくれた。では、柩を用意してくれるか」

 あくまで儀式のための柩であり、劉禅が降伏後封地され、厚遇されることは決定している。

 「それにしても、黄皓はどこへ行った」

 「あのような陛下にへつらうことしかできぬ孺子が、降伏に立ち会えるものか」

 「憎き輩よな……」

 群臣は、口々にいなくなった黄皓を罵った。

 黄皓は劉禅に、

 「朕とともに、洛陽に来てくれ」

 といわれたのであるが、

 「私は、佞臣です。とても陛下にお仕えすることはできません。漢(蜀)の官民に代わって、罪に服します」

 とすがすがしい表情でいった。

 「なんじこそ、大将軍(姜維)にまさる忠臣ぞ。なんじの赤心は、朕が鄧艾に説明してみせる」

 劉禅の説得に、黄皓は首をふった。

 「せっかく陛下のお志が、順調にかたちになろうとしているのです。

 私がそれを壊してしまって、なにになりましょうや。

 私は鄧艾の捕吏に捕らえられ、梟首されるでしょうが、魂は陛下といつもともにおります」

 劉禅は思わず、

 「逃げよ」

 とちいさくさけんだ。

 「呉でも南中でも、なんじが逃げるのだ。

 なんじは、もうひとりの弱い朕だ。

 半身がもがれては、朕は生きてはゆけぬぞ」

 「もったいなきおことばです」

 黄皓は、涙をぬぐった。

 「路銀は、できるだけもたせる。なんじには生きてもらわなければならぬのだ」

 劉禅は、侍女に命じていま用意できるかぎりの路銀を黄皓に手わたした。

 「それでは……」

 「うむ。長年にわたって世話になった」

 劉禅は、なんどもふりかえり頭をさげる黄皓の後ろ姿を見送った。

 数日後、鄧艾が少数の兵とともに成都城の北までやってきた。

 劉禅は、

 「では、ゆこう」

 といい、太子と諸王それに六十四人の臣を率いて城を出た。

 うつむいた劉禅はうしろ手で縛られ、背には柩をになっている。

 寒風が、身にふきつける。

 (国が滅びるとは、こういうことなのだ)

 劉禅はあらためてそれを実感し、ゆっくりと魏の軍門まで歩いた。

 「出てこられたようです」

 鄧忠が、鄧艾にいった。鄧艾は無言でうなずいた。

 「き、きのうまでの皇帝が、い、いまは罪人か……」

 三国時代は、この日をもって終わった。

 


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