防衛戦
四十
魏では、司馬昭が姜維をしりぞけた功績によって、大都督に任じられた。
皇帝の曹髦は仮黄鉞を、司馬昭にあたえた。
これは魏の軍事を、すべて司馬昭に任せるという意志表示である。
いよいよ司馬昭により、国家の禅譲がおこなわれる気配が濃厚になってきた。
征東将軍の諸葛誕は、曹氏への忠義というよりは、みずからの保身のために寿春で叛乱をおこした。
魏の甘露二年(二五七)、五月のことである。
揚州刺史の楽綝(楽進の子)を殺害した諸葛誕は、十五万の兵を動員できるようになった。
過去に淮南でおこった王淩と毌丘倹の謀叛を想起したとき、諸葛誕は孤立して戦うことの危険さに思い至った。
呉の孫綝に人質をおくって、連携することにしたのである。
孫綝は兄の孫峻が病死したので、かわって呉の宰相になっている。
全懌、全端、唐咨、王昶らにくわえ、呉に亡命していた文欽を派遣することにした。
魏で揚州に隣接する州は、豫州である。
豫州刺史で鎮南将軍の王基は、すばやく南下して寿春城を包囲する営所を建築した。
さらに魏の皇帝である曹髦も親征をおこなった。総勢二十六万の大軍である。
しかし戦場の手前である項県に留まり、司馬昭とともに遠隔指揮をおこなったのである。
寿春の包囲線は激戦となったが、たやすく決着はつかない。
さらに魏軍は安東将軍の陳騫と監軍の石苞、兗州刺史の州泰らを呉軍の撃退のために派遣した。
寿春の城内には、十万を超える兵がいる。
籠城が長引けば、それだけ兵糧の減りもはやくなる。
しかし、なんど城外に出撃しても王基や陳騫はそれを予想しており、撃退されるばかりであった。
三ヶ月を過ぎても諸葛誕が期待していた大雨も降らず、魏軍の包囲は厳重になるばかりである。
呉の孫綝はこの叛乱に勝ち目がないと思い、戦果をあげない援軍の将である朱異を殺して、江東に還ってしまった。
ここで、諸葛誕は孤立無援になった。
十一月になって万策尽きた城内から、諸葛誕の佐将である蔣班と焦彝が魏軍に投降した。
城内にいた呉の全懌ら一族も、ふたりのみちびきによって魏軍に投降したので、城内の士気はみるみる下がった。
この諸葛誕の叛乱を、見逃す姜維ではない。
「いかに魏が大国とはいえ、諸葛誕が二十六万もの大軍をひきつけてくれているのだ。
わが軍がその機につけこむのは、造作ない」
こういった姜維に、張翼や董厥、諸葛瞻らは反対した。
なにしろ、五年連続の北伐である。
「魏の西方には鄧艾もいれば、司馬望もいます。寸土を得るために、漢(蜀)の国力を消耗する必要はありますまい」
張翼らの意見を無視して、姜維はあえて数万の兵を率い、駱谷を出て沈嶺に至った。
沈嶺のすぐそばにある長城には、大量の穀物が貯蔵されている。これを奪い、魏軍を動揺させる策である。
「姜維が出てくることは、予想していたぞ」
鄧艾は隴右から出撃し、長城に陣をはった。
司馬望も冷静に長城を守り、蜀軍の挑発に応じることはなかった。
ゆえに姜維は芒水のほとりで軍を駐留したまま、動けなくなった。
鄧艾と司馬望のねらいは、蜀軍の兵糧がつきるのを待つことである。
「ええい、鄧艾の腰抜けめ。出てきて勝負しろ」
両軍は膠着状態におちいり、姜維は焦躁するばかりであった。
(これは魏の常道ではないか。やはり出師すべきではなかった)
張翼は、いらだつ姜維を見やってため息をついた。
翌年二月、寿春の諸葛誕は斬られ、叛乱は鎮圧されたので、蜀軍はなすことなく成都に帰還した。
しかし先の箕谷の大敗で降格していた姜維は、ふたたび昇格して大将軍に任じられた。
呉でも独裁をふるっていた孫綝が、新皇帝の孫休に粛清され、魏と呉の内紛がおちついたのは、蜀の景耀元年(二五八)である。
蜀では兵の補充、軍費の調達が限界にたっしていた。
「さすがにこれだけ出師して、結果がともなわなければ、軍をうごかすことはできぬ」
姜維は、懊悩した。
成都では、厭戦気分がひろがっている。
「大将軍から兵権をうばって、北伐できぬようにしてもらいたい」
劉禅のもとにも、群臣からそのような嘆願がなかば公然とあがるようになってきた。
張翼と軍籍は同位の廖化でさえ、
「戦とは火のようなものだ。やめなければ、じぶんを灼くことになる。このことばは姜維にもあてはまる。
知謀も戦力も敵以下なのに、飽くことなく兵を用いていたら、どうして自立してゆけようか」
と姜維を批難している。
「兵を出す力がなければ、敵をおびきだすという策もある。
漢城と楽城に兵を集約し、魏軍を誘引してこれを討つということにしよう」
あくまでじっとしていられない姜維は、魏を倒すための策をたてた。
(そのように都合よく、敵が攻め込んでくれようか。司馬昭がつぎに蜀を攻めるときは、蜀を平定するための多方面軍を派遣するはずだ……)
張翼は、姜維とちがって現実主義である。
太平二年(二五七)から永安五年(二六二)まで姜維は兵をうごかすことができなかった。
「このまま、平安がすこしでも長くつづくとよいのですが」
黄皓は、ひとときの安堵を劉禅にもらした。
「さて、どうなるかな……魏帝(曹髦)は、司馬昭とよくないという報せがはいっている」
劉禅は目を書簡に落としたまま、黄皓にいった。
「……いよいよ司馬昭が、帝位を簒奪するのでしょうか」
「司馬昭は賢明だ。帝位をとるにせよ、禅譲というかたちにするとは思うが」
劉禅は間諜からの書簡を黄皓に渡して、
「こればかりは、なるようにしかなるまい」
といった。
この年、五十二歳の劉禅に対して、魏帝曹髦は十八歳である。
魏の甘露五年(二六〇)、四月に司馬昭は大将軍の位から相国に昇進し、晋公に封ぜられた。のちの天下王朝「晋」は、これに起因している。
しかし曹髦は、じぶんの意のままに政治をおこないたい欲がつよく、司馬昭がじゃまだと感じた。
ある日、侍中の王沈、尚書の王経、散騎常侍の王業の三人を呼んだ曹髦は、
「司馬昭の心は、路ゆく人も知っている。われは座して、この恥辱を受けぬ。今日、そなたたちとここを出て、かれを討ちに行く」
といいだした。
三人は唖然としたのち、懸命に曹髦を諫めたが、
「やると決めたら、やるのだ。これで死ぬことがあっても恐れはせぬ。なに、死ぬと決まったものでもあるまい」
と昂奮したようすでいいはなった。
皇帝乱心の報告を聞いた司馬昭も、動転した。しかし曹髦を殺さなければ、じぶんが殺される。
ついに曹髦は司馬懿の股肱である中護軍の賈充の軍と衝突し、止車門付近で戦死した。
司馬昭は、涙をながした。
(天下を統べるとは、このような理不尽なことに耐え抜くことなのだ)
とじぶんにいいきかせた。
天下の人々は、司馬昭が皇帝を弑逆したというであろう。それでも、司馬昭はじぶんの地位をなげだして隠遁するわけにはいかない。
曹髦は死後、皇帝即位前の高貴郷候と呼ばれ、郭太后に暴虐な犯罪者と弾劾されることによって、司馬昭はわずかに救われた。
新皇帝は、燕王曹宇の子である常道郷候の曹奐となった。
「もう時代は、晋公の時代になろう」
「先帝はよけいなことをして、曹氏の天下をみじかくされたな」
魏の官民は、そう語り合った。
魏に内紛があれば、蜀と呉にとってそれは衝くべき好機となるが、司馬昭はその政治手腕でその隙を与えなかった。
蜀の景耀五年(二六二)十月、姜維は五年ぶりの出師をした。
「魏は、司馬昭が皇帝を殺害して官民は動揺している。
隴西郡に出兵して、諸族の力を借りて長安を陥落させる。義に感じてわれらに呼応する者もいるだろう」
姜維のことばには、むなしさがただよっている。魏はすでに司馬氏が天下をにぎっており、晋公の司馬昭はかつての曹操とおなじ権勢である。
姜維が期待している隴西郡の諸族も、箕谷の大敗をうらみに思っているはずで協力してくれる者はすくないであろう。
姜維は数万の兵を率いて洮陽に侵攻したが、候和という土地で迎撃した鄧艾に敗れ、沓中に退いた。
これが、姜維最後の北伐となった。
「よくないうわさがありますぞ」
沓中に駐屯している姜維のもとに、張翼が訪れた。
「よくないうわさとは……」
「はい。成都では大将軍(姜維)から兵権をうばって、閻于にそれを引き継がせようといううごきがあるそうです」
「それは、まことか……」
姜維は、うなだれた。
そもそも姜維は魏からの降人であり、益州閥とはつながりがよわい。
諸葛亮の弟子ということで連年北伐をゆるされてきたが、人命と軍費を浪費するばかりでいっこうに成果をあげていない。
「いかがなさいます」
張翼が姜維に訊くと、
「……われは、成都へ還らぬ」
姜維は目をいからせていった。
「陛下へ、敗戦の復命をなさらないのか」
張翼は、眉をひそめた。
(これでは、諸葛恪とおなじ末路をたどるのではないか)
呉の諸葛恪も皇帝に敗戦の復命をせず、つぎの出師をくわだてたため、叛乱を疑われて誅殺された。
「われは、わざわいをさけるのだ」
姜維の強弁がはじまった。
「考えてもみよ。陛下は黄皓にたぶらかされて、漢(蜀)の大義を見失っておられる。
われらが兵権をうばわれれば、忠武候(諸葛亮)がなそうとされていた正義は失われる。
沓中でうごかなければ、われらの軍に勝てる将は成都にはおらぬ」
(姜維は、独立するつもりか)
張翼はすこし驚いたが、このような事態を想定しなかったわけではない。
姜維は魏に降るつもりはないようであるし、この緊張状態がつづけば、すくなくとも姜維のおこす戦は避けられる。
「陛下に、現状だけはおしらせしておかなければ」
そう考えた張翼は、沓中でおこっている実情を密書にして、近臣に劉禅へとどけさせた。
「大将軍(姜維)は、いらぬ疑心をいだいているようだな」
劉禅はおおきく息をついて、黄皓に話しかけた。
「これで、最悪の事態は免れます。われらが閻将軍と大将軍を交代させようとして、内戦がおこることは避けられました。
大将軍も陛下の詔なくして、出兵することはできません。陛下からも、ねんごろに大将軍に書簡を出すべきかと」
黄皓の進言に、劉禅はうなずいた。
「そうだな……沓中で兵に屯田をさせるのはどうか。そうすれば、大将軍の気もまぎれよう」
姜維は劉禅からの書簡を受け取り、
「兵権はうばわれなかったが、黄皓を生かしておくとわが国は腐敗するばかりだ」
と吐き捨てるようにいった。
費禕が亡くなったあと、蜀の宰相というべき立場になったのは姜維であるのに、内政をかえりみず、軍事のみに専心し、国力を疲弊させてしまった。
この年になって、魏の司馬昭は蜀の内情をくわしく調査させていた。
司隷校尉であり謀臣である鐘会がそれを主導していたが、
「蜀はすでに、腐敗しはじめた果実です。樹をゆするだけで落ちるでしょう」
と比喩をもちいて報告した。
「ほう。それほどまでに、蜀の弱体化はすすんでいるのか」
司馬昭は、ひざをすすめて鐘会に訊いた。
「そのとおりです。しかも姜維は権臣の黄皓と反目しあっており、両者は連携することがありません。
わが軍が国境で姜維と戦っても、成都から援軍は来ますまい」
「それほどまでにか……しかし、姜維も戦いを好みすぎた。
なんどもわが国を攻めたが、戦果が大きかったことは一度もない。
多方面から攻めれば、蜀を取れるかもしれぬな」
司馬昭は、冬に鐘会を鎮西将軍、仮節都督関中諸軍事に任命した。
しかし、この人事を見ればいかにも蜀を攻めるように見えてしまう。
「船をつくらせれば、いかがですか」
と鐘会は献策した。
「なるほど。そうすれば、わが軍は呉を攻めるようにみえるな」
司馬昭は、
「海上用の大型船を、造船せよ」
と呉から降伏してきた唐咨に命じた。
通常の船は、青州、徐州、兗州、豫州、荊州、揚州で大量に造られた。
魏の諸州で、いっせいに造船作業がおこなわれた。
ある日、劉禅の異母弟である劉永が、宮室に駆け込んできた。
「陛下、魏では大量の船を造っているといううわさをご存じですか」
劉禅は素知らぬ顔で、
「ほう。そうなのか」
と黄皓に訊いた。黄皓は、
「そのような情報は入ってきておりませんな」
といった。劉永は血相を変えて、
「一大事ですぞ。魏は、呉を攻めるふりをして蜀に大軍をさしむけるつもりです」
劉永は姜維と仲がよく、軍事にもあかるい。
「船を造っているならば、呉を攻めるのであろう。そのようなまわりくどいことをする司馬昭でもあるまい」
劉禅の眠たくなるような声を聞いた劉永は、怒りの矛先を黄皓にむけた。
「陛下、いますぐ奉車都尉(黄皓)を殺して、国境にできうるかぎりの兵を配備してください。
大将軍(姜維)と連携して、魏軍を撃退するのです。先帝(劉備)がこの国を建国してからかつてない危機なのです」
「黄皓は、たかが宦官ではないか。このような者になにができる。
なんじは考えすぎだ。さがれ」
劉永は歯ぎしりをして黄皓をにらみつけ、はげしい足音で退出していった。
「いよいよですね」
黄皓は、悲しげなまなざしを劉禅にむけた。
「ふむ。なるべく血はながしたくないが……そうもいくまいな」
劉禅は、いよいよ国をたたむ時が来たことを実感していた。
沓中にいる姜維は、兵による屯田を監督しているときに、魏が呉を攻めるのではないかといううわさを聞いた。
(いまの呉は、はつらつさをとりもどしたようだが……)
孫綝という暴虐の宰相をとりのぞいた皇帝の孫休は、疲弊していた国内の実態を憂い、民をいたわる政治をはじめている。
光祿大夫の周奕と石偉を遣わせて、国内を巡視させ、将や官吏が清潔な政治をおこなっているか、また民が何に苦しんでいるのかを調べさせた。
その報告をもとに地方官の昇進と左遷の人事を断行したというのである。
(わが国の内情は、呉に劣っている)
ならば、魏は呉ではなく、蜀を攻めると考えた方がいいだろう。
姜維は、魏の内情を調査しはじめた。
「鐘会が関中に来ているとは、本当か」
姜維は、眉をひそめた。
魏では鐘会の軍事における才能を讃えて、
「今張良」
と呼んでいるらしい。古代に最高の軍師は、周の文王と武王を扶けた太公望と、漢の高祖である劉邦を扶けた張良である。
つまり魏王朝の司馬昭が手がけた功績は、鐘会によるものだと考えてもいい。
それほどの鐘会が呉にむかわずして、関中にいるということは、
(魏が攻めるのは、蜀だ)
と姜維は結論づけた。
しかし春になると、
「鐘会は、関中から洛陽に帰りました」
という報告が届いた。
「夏まで蜀を攻めないのか……あるいは、ほんとうに船をつかって呉を攻めるのか」
姜維の思考は、混乱してきた。
司馬昭と鐘会は、夏に益州攻略の策戦をたてていた。
益州の地図をはさんで、まず沓中にいる姜維の主力を孤立させることにした。
成都の軍と連携できない姜維なら、険阻な益州を攻めるとはいえ勝機はじゅうぶんにある。そのために、
征西将軍 鄧艾
天水太守 王頎
隴西太守 牽弘
金城太守 楊欣
らを、あつめて姜維と戦わせることにした。
戦場は益州北部でも西部となるはずである。別軍として、鐘会が東部から十万の兵を率いる多方面作戦である。
「渭水のほとりから益州に侵攻するには、やはり斜谷道がよいかと思われます」
益州への道は四つある。
東から子午道、儻駱道、褒斜道、故道がある。斜谷は褒斜道を行くための北部の入口である。
「駱谷道もつかうほうがいいな」
「駱谷ですか……」
司馬昭の提案に、鐘会は懸念をしめした。駱谷道をつかうということは、儻駱道を通ることになり、かつて曹爽が王平に惨敗した道であるからだ。
「まあ、焦るな。なんじの軍から兵を出すわけではない。子午道は、魏興太守の劉欽に行かせるつもりである」
「といたしますと……蜀攻略は、鄧艾と王頎や牽弘、楊欣をつかって、沓中の姜維を封じ込める。
諸葛緒は下弁へむかわせて、姜維の退路を断つ。
私は斜谷と駱谷を通って、漢中の楽城と漢城を攻める、と。劉欽は、子午道を通って漢中に攻める」
鐘会の統括に、司馬昭はうなずいた。
「なんじは、雨に祟られぬかぎり、ゆくてをさえぎるものはなかろう」
かつては、大雨に祟られて魏軍は二度蜀への侵攻をさまたげられたことがある。しかしいまや王平などのすぐれた将は蜀にはいない。
天と地が、魏に蜀を平定せよといっている。
司馬昭は、そう感じた。
魏の景元四年、蜀の景耀六年(二六三)八月、魏の皇帝曹奐から詔が下った。
「蜀を、討伐せよ」
待機していた魏の各将は、いっせいに軍をうごかした。
益州西北部にある沓中にわざわいをさけていた姜維は、魏がいっせいに蜀へ侵攻しはじめたという情報をえた。
「これは一大事ぞ。ただのうわさではない」
ちいさく叫んだ姜維は、至急皇帝の劉禅に上表をおこなった。
「魏の鐘会が関中において兵をととのえ、わが国への侵攻を計画しています。
どうか左右車騎将軍(張翼と廖化)をおつかわしになってください。
ふたりに陽平関口と陰平橋頭を守備させ、危難を未然にふせぐ手だてをとってください」
劉禅は姜維からの上表を受け取り、
(いよいよ、時がきた)
と感じた。黄皓に上表を見せると、黄皓はわざと百官の前でこういった。
「大将軍(姜維)がこのようにいってきているが、どうするか」
黄皓は、まっさきに発言した。
「鬼神のことばを巫女に語らせたところ、しばらく魏軍は攻めてこぬ、とのことでした。
風聞にまどわされてはなりません。魏は、呉を攻めるのです。
益州のような険阻の地に、わざわざ兵をむけるはずはありません。
大将軍の援軍は、必要ないかと」
「そうだな……わかった。そうするであろう」
議場にいた群臣たちは、ざわついた
「占いで魏の攻める国がわかるのかよ」
「黄皓のいまいましいことよ……」
劉禅と黄皓、諸葛瞻たちは、蜀を魏にできるだけ無傷の状態で降伏したいと願っている。
(秋のあいだに、できるだけ魏軍を進軍させて、和議を結ぶ。冬になるとどうなるかわからない)
黄皓の思考は、それである。
(魏が蜀に併呑されれば、もう戦で血が流れることはない……)
と黄皓は思うが、姜維ら武断派の将軍たちがどのような軍事行動をとるかは不透明である。
魏の遠征軍の元帥は、もちろん司馬昭なのだが、みずから征途につくわけではないので、十万の兵を率いた鐘会が、司馬昭の代理元帥であるといえる。
鐘会は牙門将の許儀に先遣隊を任せ、
「兵がとおる道を安全にしておくように」
と命じていた。
ところが、ある橋に穴が開いていて、馬の脚が落ちた。
「命令をおろそかにしたものは、たとえ建国の元勲の子であろうと許すことはできない」
おごそかにいった鐘会は、すぐに軍吏を派遣して許儀を斬った。
魏軍は、慄然とした。
なにせ許儀は、曹操の親衛隊としてなんどもその命をまもった許褚の子なのである。
「許儀でも、許されなかったとは……」
魏軍の規律は、さらに厳しくなった。
(軍法に、特例をつくってはならぬ)
鐘会は、傲然と馬上で胸をはった。
累代の名将たちが蜀を攻めても、いちども成功しなかった前人未踏の大遠征である。
(軍のゆるみが、敗北につながる)
鐘会の信念は、すさまじい。
「蜀は防備を、諸葛亮のころから変えている。砦をふやして守備兵を減らしている。
ゆえに、かつてほど進軍を難渋させるものはあるまい」
鐘会が出陣するまえに、司馬昭がこうはげましてくれた。
蜀には大軍を率いることができる将軍が姜維以外死没したので、姜維は国土の防衛を機動的にした。
姜維としても諸葛亮のさだめた防衛線を変更するのは苦渋の策であったろうが、成都と連携が期待できないかぎり、そうせざるをえなかった。
司馬昭のはげましどおり、規律の正しい鐘会の軍は、やすやすと益州に侵入した。
主力の鐘会軍以外にも、魏軍は五道すべてをつかって多方面侵攻を決行した。
危急存亡の秋をむかえた蜀であるが、劉禅はその報せを受けてもあわてなかった。
「各個撃破をねらわれるよりは、退いて漢城と楽城を守備せよ」
と漢中郡の将兵に命令した。
右車騎将軍の廖化を、沓中にいる姜維の援軍に出発させた。
左車騎将軍の張翼と輔国大将軍の董厥らは、陽安関口にむかわせた。
ちなみにかつて車騎将軍は魏の降将で蜀皇室の連枝である夏侯覇が任命されていたが、この年までに夏侯覇の名は消えている。
死去したか、老齢のため退役したかいずれかであろう。
楽城の守将は王含で、漢城の守将は蔣斌である。漢中郡においては、楽城が東に、漢城が西に位置している。
やすやすと漢中にはいった鐘会は、十万の兵から護軍の荀愷と前将軍の李輔を呼び、
「ふたりに一万ずつ兵をあたえるゆえ、前将軍(李輔)は楽城を、護軍(荀愷)は漢城を包囲してほしい。
敵を殲滅する必要はない。二城から援軍が出ようとしたときだけ、迎撃せよ」
と命じた。
いわば、鐘会は漢城と楽城を素どおりして陽安関口にむかった。
ここまでは、なんども地図上において想定してきた攻略方法が活きている。
漢城にはみむきもしなかった鐘会であるが、漢城すなわち沔陽の地にある諸葛亮の廟には、官人を詣でさせ、清掃し、香華をたむけた。
南に目をやると、定軍山がある。
(諸葛亮の墓が、ここに……)
胸を熱くした鐘会は、
「われは魏人であるが、諸葛亮だけは尊敬せざるをえない。墳墓の近辺で、草を刈ったり、薪をとってはならぬぞ」
と兵たちにきびしく通達した。
陽安関にむかった鐘会は、先鋒の護軍である胡烈らに関城とよばれる城を陥落させた。
関城の倉庫には穀物が豊富に備蓄されており、それを入手できた。
「鐘会率いる魏軍は、漢中郡に侵入。漢城と楽城を包囲したまま、陽安関に進軍中」
姜維と廖化は、愕然として顔をみあわせた。
「もうそこまで、魏軍がきているのか」
廖化がいうと、姜維は、
「陽安関だけは、死守せねばならぬ」
と机をたたいてさけんだ。
「しかし、いまは三方から魏軍に攻められている。どうやって陽安関に兵を送るのか」
老将の廖化が、くやしさをにじませていった。
姜維を攻めているのは、名将とよばれるようになった鄧艾であるが、かれは天水太守の王頎を沓中にむかわせ、金城太守の楊欣を甘松にさしむけている。
甘松は沓中の西に位置し、揚州刺史の諸葛緒が姜維の退路を断つべく兵を動かしている。
「それでも、陽安関の救援には兵を出したい……」
救援軍は魏軍に背をむけることになり、たちまち楊欣の軍に背後から追撃されて、彊川口という土地で合戦になったが、あえなく敗北した。
わるい流れはつづく。
「帰路を雍州の軍にふさがれています」
「なんだと……」
ことばをうしなった姜維だが、益州の地理に関しては魏軍とはくらべものにならない知識がある。
「孔函谷を通って、北道にはいるぞ」
孔函谷は沓中の東南にあり、武都郡の西部に位置する。
「蜀軍は、わが軍のうしろにまわりこもうとしています」
偵探の報告を聞いた諸葛緒は、
「数ではわが軍が劣る。孤立する前に軍を退くぞ」
といって、三十里軍を退いた。
姜維のねらいは、諸葛緒のそのうごきにあった。
「よし、陰平橋頭があいた。急進して敵をつきはなす」
姜維は、全軍を率いて陰平橋頭を通過した。
「姜維に逃げられたか」
諸葛緒は地団駄をふんでくやんだが、地理にうとい魏軍は姜維のすばやいうごきについていけなかった。
せっかく姜維の退路を断つことができていたのに、うかつに軍をうごかしたので、姜維に活路をあたえてしまった。
この失策が、鐘会軍全体に致命的な遅れをもたらすことになろうとは、このときはだれも思わなかった。
袋の鼠になることをまぬがれた姜維は、東にすすみ、梓潼郡の剣閣という天然の要塞にこもった。
まもなく剣閣に到着したのは、左車騎将軍の張翼である。
「よくきてくれた」
つねにじぶんの意見に反対するが、結局協力してくれる張翼と姜維の関係には、右車騎将軍の廖化などが見れば、滑稽に感じてしまう。
(われらも、歳をとったものよ……)
廖化は関羽が荊州を統治していたころ、主簿として仕えはじめた。
関羽の死後、一時は呉に身を寄せていたが、劉備の征呉軍に身を投じ、蜀に復帰して四十年になる。
あの若くはつらつとしていた姜維が、いまは六十一歳だというではないか。
廖化と張翼は七十をゆうに越え、蜀が成立したときの熱狂から、滅亡に瀕した今日までの春秋をつぶさに見てきた。
(この事態を招いたのは、姜維のせいなのではあるが……)
廖化も張翼も、連年姜維が大軍をうごかし、まったく成果をあげておらず、蜀の国力が減少し疲弊したことを理解している。
しかし蜀が内政だけを充実させれば、蜀の何倍もの国土をもつ魏はそれ以上の国力を蓄えてしまう。
(戦いつづけるのが宿命の国か)
廖化は、ためいきをついた。
だがいまは、感傷にふけっている場合ではない。
力をあわせて剣閣を死守しなければ、鐘会軍は梓潼郡を縦断して、広漢郡に達してしまう。
広漢郡は北からの敵をふせぐ最後の郡であり、そこを突破されれば成都は間近である。
「われらは、ここで死んでも魏軍を通してはならぬな」
張翼が決死の覚悟をしめしたとき、姜維はこころここにあらず、といった表情で、
「ふむ……」
とつぶやいた。
廖化と張翼は顔を見合わせ、のちに軍議が散会したあと、ふたりでことばをかわした。
「見たか、あの伯約の顔を」
「うむ。また策を考えているときの顔だ」
「また策か……丞相の兵法を受け継いだのに、そこは似ていないな」
諸葛亮は兵の進退に策をもちいたことは、ほとんどない。
「また竜頭蛇尾の策におわらなければいいが……」
張翼の懸念をよそに、蜀軍の戦況はどんどん悪化している。
快進撃をつづける魏軍に降伏した将軍もいる。蔣舒である。
蔣舒はもともと武都郡の武興の督であったのだが、そのはたらきをみとめられず、交代させられて漢中の太守のもとにつけられた。
魏軍が漢中郡に侵攻したとき、蔣舒は陽安関口の城で、関中都督の傅僉の部下であった。
魏の主力軍が漢城と楽城を通過して、まっすぐ陽安関口にむかってくると知った蔣舒は、
(この戦で、蜀は滅びるな)
と達観した。じぶんを冷遇している王朝のために死ぬのは、ばかばかしいと感じた。
そこで守将の傅僉にむかって、
「もうすぐそこまで魏軍がせまっているのに、出撃しないのはいかがなものでしょうか」
と不満を口にした。傅僉は夷陵の戦いで戦死した傅肜の子で、勇猛さは父ゆずりである。
しかし戦況を冷静に判断して、
「命令を受けたからには、ここを死守するのが守将の仕事だ。
ここでおのれの勇を誇って出撃し、大敗することになったら国家にそむくことになる。自重せよ」
と蔣舒をさとした。
蔣舒はそれに納得せず、
「あなたは城を死守することが国家のためと考えていますが、私は出撃して敵を撃破することが国家のためであると思います」
といって、傅僉をふりきって城から出撃した。蔣舒は城外にいる魏将の胡烈に、まっさきに降伏した。
「陽安関城の城門をあけてみせましょう」
蔣舒は胡烈と戦ったふりをして城に帰還すると、城門をひらいたままにして、胡烈の軍を城に誘引した。
胡烈は蔣舒よりも、守将の傅僉を高く買っている。
「傅将軍、城は落ちた。ここで死ぬよりわが客になってもらえまいか」
胡烈のよびかけに、傅僉は首をふり、
「蔣舒のような卑怯者と、どうして同列になれようか。われは父と同様、敵と戦って死に、国家の鬼となろうぞ」
とさけんで、城内になだれこんだ魏軍と格闘して戦死した。
陽安関口に救援にむかっていた董厥は、梓潼郡の東部にある漢寿という土地で落城を知った。
董厥は、姜維らが立て籠もっている剣閣に合流した。
胡烈が陽安関口を制圧したので、鐘会は軍を南にすすめた。
しかし漢城の守将である蔣斌には、鐘会みずから書簡をとどけさせた。
「蜀には賢知をそなえた文武兼備の将が多くいます。
そのなかでも蔣琬の子であるあなたや、諸葛亮の子であった諸葛瞻は、草木にたとえるとおなじ気をもっておられます。
父祖を思い出すよすがに、桑と梓があり、父祖を敬うことを桑梓の敬というではありませんか。
西に至ればあなたの御尊父の墓に詣でて、墳墓を掃き清め、祭祀をおこない、敬意をあらわしたいと思っています。
どうか墳墓の場所を、お教えください」
鐘会は、みずからを名将と自認しているだけでなく、敵の名将を尊敬する風雅をもっている。
鐘会からの書簡を読んだ蔣斌は感動し、
「亡父は病気により、涪県で亡くなりました。埋葬地を占ってみますと、その地が吉でしたのでそのままそこに埋葬しました。
あなたは西にむかわれて、わざわざ父の墳墓に敬意を捧げてくださるとのこと。
おおいに感動いたしました。以前より増して父が偲ばれてなりません」
と返書をしたためた。蔣斌に鐘会への敵愾心は消えている。
「よいお返事をいただいた」
しみじみと蔣斌からの返書をおしいただいた鐘会は、のちに涪県に至ると蔣琬の墳墓に詣でた。
むろん蜀の臣民を慰撫するための方策であることはまちがいないにしても、鐘会は諸葛亮と蔣琬に対する敬意があったのである。
「さて、姜維の腕前……みせてもらおうか」
剣閣に到着した鐘会は、慎重に、ときにはげしく緩急をつけながら剣閣を攻めた。
しかし剣閣のようすは、まるでさながら剣がつらなる峰のようで、そこにたてこもれば、ひとりが一万人を相手にできるといわれるほどである。
どの道も険峻で、すすんだ魏兵はあっけなく蜀兵に撃退された。
「さすがは、諸葛亮の弟子と称された姜維よ……このままではとても剣閣を抜けまい」
巨大な剣や矛が立ちならぶようなこの地形は、まさに天然の要塞であり、鐘会が率いる大軍の有利さがまったく活かされない。
はたと戦況に行き詰まった鐘会は、書状をしたためて、姜維に送ることにした。
「あなたは文武の徳をおもちになり、非凡な機略をいだかれ、功績を巴蜀の地におたてになりました。
あなたの名声は、中華になりひびいております。遠きも近きも、あなたを慕わぬ者はおりません。
昔、呉の季札と鄭の子産は、国はちがえども、よろこんで誼をつうじたというではありませんか」
姜維は冷めた目で鐘会の書簡を一読すると、
「鐘会ごときが。忠武候の弟子であるわれに勝つことができようか」
と書簡を破りすてた。
忠武候とは亡くなった諸葛亮の諡号であることは、すでに述べた。
剣閣とは諸葛亮が首都である成都の防衛を考慮し、この峻絶の地を巨大要塞とすることを実現したのである。
姜維が鐘会に、諸葛亮に勝てようか、とはきすてたのは、そういう理由なのである。
鐘会が剣閣を攻めるということは、諸葛亮を相手に戦うことと同義であった。
姜維は年齢を経るごとに独尊の性格をおびてゆき、人の意見を聴かないようになったが、諸葛亮にだけは死後も心服している。
諸葛亮のそばに仕えてしばらくすると、
「伯約(姜維)は、涼州における最高の男子である」
と諸葛亮は蔣琬に出した書簡で述べたことがある。
まさに、絶賛であろう。
(われを、ほんとうに理解してくれたのは、忠武候だけである)
姜維はときにそのことを思い出し、胸を熱くする。
できれば諸葛亮が生きていた間に、雍州と涼州を平定し、長安を制圧したかった。
しかしそれはかなわず、師の遺志を継いでたびたび雍州を侵したが、成果をあげたとはいいがたかった。
(われは、忠武候のあしもとにもおよばなかった……)
慚愧の念を抱きながら、姜維は剣閣で獅子奮迅の戦いをおこなっている。
(こうなったのは、すべて黄皓のせいだ)
あの君側の奸を斬らなかったことだけが、心残りである。
姜維は、鐘会への返書も書かなかった。
そしてあらためて諸将に、
「忠武候のつくった剣閣は、十年経っても魏軍によって落ちることはない。
十万の兵は兵糧が尽き、撤退する。とはいえ油断なきように」
といった。
まったく魏軍をよせつけない剣閣の構造と姜維の指揮に、将兵も安心をおぼえるようになった。
この後、姜維ら蜀軍主力の剣閣での防衛戦はなんと三ヶ月にもおよび、歴史における伝説となった。
「軍に翼でもつけぬかぎり、成都へはゆけぬ……」
さすがの鐘会も、ちからなく鞭をふりおろすだけであった。
鐘会の困窮ぶりを知って、
「こ、これは、て、天がわれにあたえてくれた好機かもしれぬ」
とひろい益州の地図をひろげたのが、鄧艾であった。




